姿が見えぬ存在
全く何もないと思っていた所から掛けられた声に、セントポーリアの城下町にいる商人風の男はかなり動揺した。
完全に魔気を含めた気配を感じることができなかったためではない。
その声に聞き覚えがあったからだ。
久しく耳にすることはなかったが、彼がそれを聞き間違うことなんてありえない。
それこそ、何年、何十年と経っていたとしても。
そして、もしこの時、先ほどの黒髪の青年がこの場にいたら確実に狼狽していたであろう声の主でもあった。
「こ、この声……、まさか……」
男の声が震える。
『貴方がこんな所にいるのは可笑しくはないかしら?』
そんな自分の動揺を気にする風でもなく、相手は記憶の中のままの口調で話を続ける。
思わず男は肩を竦め、溜息を吐いた。
「別に可笑しくはないさ。アリッサムの襲撃に関する情報を集めつつ、今まで浮いた話が一つもなかったこの国の王子殿下が色恋に狂ったという話が気になったので来てみただけのことだからな」
『あら? それならば、城に行くべきではないの?』
声は正論を告げるが、男は首を振る。
「あ~、この城は苦手だ。生真面目で馬鹿な男と、傲慢で内側から国を傾けるしか能のない女。そして自己顕示欲の強い坊主しかいない」
『あらあら。浮気性の人間が言っても……ねぇ?』
「ここ数年はしていない」
『あらあら? 15年以上前に会った時には、結婚してから一度もって言ってなかったかしら?』
そう言いながら、くすくすと笑う声。
それに男は懐かしさを覚え、無意識に胸を撫でる。
この声の主と最後に会ったのは10年以上前。
久しく聞いていなかったその声と口調の変わらなさに安堵する。
「やはり、生きていたのだな」
そして、そのことは男にとって、とても嬉しいことでもあった。
「姿は見せてくれないのか?」
『ああ、これ? わざとというわけではないのよ? 薬で気配を消しちゃっているから、自分ではどうにもできなくて……。ごめんなさいね、まさか貴方がこの城下に来ているなんて思ってもみなかったから』
「なんだ……。てっきり老け……ぐわっ!?」
男の近くで、空気が破裂するような音がした。
『あらあら? 魔法が暴発してしまったわね』
「お前……、仮にも逃亡中の身で魔法を放つなよ」
『あら、この場合、誰の目にも貴方が魔法を使ったようにしか見えないわよ』
そんな魔法を使ったからと、声は続ける。
「逃亡中……という点は否定しないんだな」
『ん~。彼らが追っているのは厳密に言うと私ではないのだけど……、まだ王妃殿下には、私の存在を知られるわけにはいかないのよね』
「だから、国へ来いと、俺の元へ来いと言ったのに。お前はこの堅苦しい国でひっそりと生活するタイプじゃないだろ?」
『貴方のご厚意には本当に感謝しているわ。でも、私の戦場はここにするって決めているから』
男は捉え方によっては誤解をされかねないような言葉を口にするが、姿の見えない会話の相手はさらりと流す。
「娘は?」
『さあ? 生きていればまた会えるんじゃないかしら?』
その言葉で、男はにやりと笑う。
「やはり……、あれはお前の娘だったか……」
『その辺りはご想像に任せておきましょう。得意でしょ? 想像から推し量ることは』
「は~、相変わらず可愛くない反応なんだな。もっとこう護ってくださいと素直に口にすれば良いのに」
『そんな面白くもない女に、貴方は興味もないでしょう?』
どこか傲慢にも聞こえるその言葉に男は苦笑する。
「そんな無能なら、トリア妃だって歯牙にもかけ……、いや、あの女なら関係ないか。ここ数年で相当、おかしなことになっているもんな、この国……」
『10年前と比べても、かなり酷いみたいね。この国に戻ってきて一ヶ月だけど……、まともな話を聞かないわ』
10年……。
それは決して短くない期間である。
その間に、この国の腐敗は随分、進んでしまった。
生真面目で頑固で融通が利かない国王その頂点にいるから、辛うじて、なんとかなっている状態ではある。
だが、このままでは、その国王の代替わりによって、一気に自壊する方向へ進む可能性は高いと噂されているほどだった。
「……お前も離れたままの方が良かったんじゃないか?」
『さっきも言ったけど、戦うために戻ることにしたの。私も娘もね』
その理由としては両者で異なっている。
だが、彼女もその娘も、別々の場所で戦っていく決心をしたのだ。
「勇ましいのは結構だが……、アイツの二の舞だけはやめてくれよ」
『……ごめんなさい』
その言葉が何を意味するか分からないような人間ではない。
だから、姿が見えない彼女は謝罪を口にする。
「お前が謝るな。アレはアイツ自身が決めたことだ。だから、お前のせいじゃない」
男としてはそう答えるしかなかった。
『貴方が、あの城に行かなくなったのも……、それが原因よね?』
「ゼロではないな。この国は……、俺の大事にしてきたものばかり奪っていきやがる」
そのきっかけは確かに自分の国にあったことは否定しない。
だが、そこから始まっていった負の連鎖を止めることができなかったのは、この国の体質にもあるのだ。
そこで、男は城の方向を向く。
「お前のことだ。俺が止めても、止まる気はないのだろう? だから今のうちに言っておくぞ」
彼は祈りを込めて口にする。
「……お前まで死ぬなよ」
『立場上、そんなことを軽々しく口にしない方が良いんじゃないのかしら?』
「阿呆。俺は一人の友人としてお前の心配をしているだけだ。長い人生、一人ぐらいそう思わせてくれる人間がいても良いだろう」
『そう言われると、素直に嬉しいわね。ありがとう』
彼は見えない彼女の笑顔を見えた気がした。
いつまでも変わらない大切な友人。
彼女にそれ以上の感情を抱いたことがないといえば嘘になる。
だが、それは恋愛感情とかそう言った軽い気持ちではなく、彼は一人の人間として彼女を心から尊敬していた。
だからこそ……。
「時折、無性にあのクソ真面目を本気で張り倒したくもなるわけだが……」
『物騒ねぇ……』
だが、声の主もそれを諫める気はないようだ。
「だが、お前はようやく覚悟を決めたんだな」
『そうね。どうせ後悔するならやるだけやってみたいし』
かつて普通に考えれば正気の沙汰とは思えないような夢を見た人間がいた。
そして、それを叶えるために……。
「遠い他国からの支援は限度がある。だが……、できる限りの力添えはしてやるよ」
『その気持ちは嬉しいのだけど……、貴方が動くと目立つわ。自身が持っている力の大きさはご存知でしょう?』
笑う気配があった。
「む? では、お前との連絡方法は?」
『国王陛下にお手紙。当面はこれ』
「げ~? アイツがお前宛の手紙を検閲なしに渡すと思うか?」
『人に見られて困るようなことを書かなければ良いじゃない。それに……、陛下と貴方、そんなに仲が悪かった?』
「俺は、アイツのことかなり好きなんだがな。あんな素直な玩具、俺の国にはいないし」
叩けば叩くほど反応する鐘のようだった。
自分との会話で随分、腹芸は出来るようになったが、残念ながら、まだまだ甘いと思っている。
どちらかといえば、今、話している相手の方が手強いぐらいだ。
『あらあら、人ですらないのね』
「だが、アイツが俺のことを嫌っているんだよ。数日前にも通信したが、すっげ~、反応が冷たかった」
『どうせ、またからかったんじゃないの?』
「からかうだろ? その方が面白い」
『それなら不機嫌になるのは人として当然の反応だと思うけれど……』
そんな声と共に、彼の傍の草が不自然に揺れた。
『そろそろ行かないと……。心配させちゃうわね』
そんな声が近くから聞こえた気がする。
「もう行くのか?」
『ええ。行く前に貴方に会えて良かった。普通の手段では会えない人だものね』
「そうだな。俺もお前の声だけでも聞けて……、良かったよ」
男の手に何かが触れる気配がして……、少しだけ手のひらが絞まった。
『いろいろとありがとう。グリス=ナトリア=イースターカクタス国王陛下』
近くで感じられる彼女の声。
姿は見えなくても、その表情が分かる気がする。
「俺は大したことはしてないよ、チトセ」
手にあった感覚がすっと消えた。
そして……、その後には何の声も音すらも聞こえない。
「今度会う時はちゃんとその姿を見せてくれよ」
そう情報国家の王は素直に口にした。
世間一般では彼のことをよく思っていない人間のほうが多い。
それでもその立場上、面と向かって悪く言うような度胸のある人間はいない。
だが、彼女は初めて会った時にいきなり平手打ちを食らわせたのだ。
それまで誰もしなかったことをあっさりとできたのは彼女がこの世界とは異なる世界で生きていたためだと知ってはいたが、彼女が特別な存在になるきっかけにはなった。
「まあ、ただ気の強いだけの女じゃなかったわけだが……」
結果として、自分が持つ弱味のほとんどが彼女に知られてしまうことになる。
それを互いに望んだわけではなく、様々なイトの巡り会わせで。
だが、それが嫌なわけではない。
彼女はそれらの一切を誰にも語ることなく、自国の王にすら黙している。
だから、全てを知ったのが、自分の傍に寄り添う妻ではなく彼女だったことは幸運だと思えるぐらいだった。
彼女が知った内容の数々は、情報国家の平穏を激しく揺るがすほどのものばかりだったのだから。
母には子供たちが知らない時代もあるのです。
そして、王たちが仲良し(?)な理由もその時代にあります。
ここまでお読みいただきありがとうございました。




