困惑
どうやら、オレは耳が悪くなったらしい。
ありえない言葉が聞こえてきたようだ。
「神の狗の遣いよ。今の主人を捨て、私に仕えぬか?」
引き抜きである。
それも、なんでお前なんかに? と思うような相手からだった。
「お断り致します」
「なっ!?」
驚かれたようだが、条件なんか聞く気も起きない。
何故なら……。
「私はまだ高貴なる気配を漂わせた貴女の御名すら、頂戴できておりません」
そう言いながら、セントポーリアの礼を再び取り直す。
頭なんか、いくらでも下げてやる。
それで、目の前の奇人、いや貴人の機嫌が取れれば、上々だ。
「ほう」
女の機嫌が向上したらしい。
その声には優越と愉悦が分かりやすく込められている。
「私の名を知らぬと?」
「申し訳ございません」
名前は知っているが、女の方が名乗っていないので嘘は吐いていない。
逆に何故、知っていると思うのか?
この女の名は、悪い意味で各国に広がっているが、この女の各国の通り名は「セントポーリア国王陛下の正妃」だ。
実は、「セントポーリア王妃殿下」という名称すらほとんど耳にしない。
つまり、セントポーリア国王陛下の付属品扱いなのだ。
分かりやすく相応しくないと思われていることが、それだけでも分かる。
そして、ほとんど外交もしないために、顔も知られていないのだ。
国王陛下の秘書として、あちこちの国に顔を売り始めた千歳さんの方が、知名度が出てきたかもしれない。
特にあの会合後。
他の中心国、特に情報国家の国王陛下すらその実力で軽口を黙らせたということが大きいらしい。
兄貴が苦々しそうにそう言っていたが、そこまで嫌がる必要はないとは思っている。
千歳さんの名が上がったのだから、素直に喜べば良いのに、それがあの国王陛下のおかげというのが、納得できないのだろう。
それに対して、このセントポーリア国王陛下の正妃は、国で散財し続ける女。
そんな印象しかないだろう。
実際は、散財だけで済んでいないからタチが悪かったりするのだが、他国にはそこまで知られていないし、知らせる必要など当然ない。
「その御姿だけで、私など本来、目にすることも適わないぐらい高貴な御方だということは分かるのですが、何分、不勉強な身につき、我がご無礼をお許しください」
できれば目にしたくはなかったがな!!
本来、目にすることはできないのは確かだ。
逆に何故、ここにいるというような身分である。
オレは一言も嘘を口にしていない。
「なるほど。確かにそれも道理よな」
その声は喜色を含んでいる。
どうやら、オレの口上はお気に召したらしい。
「私はセントポーリア国王陛下の唯一の妃である」
そうだな。
自分の本名とも言える魔名を低い身分の人間に名乗りたくはないだろうから、そう言うしかないだろう。
「陛下の周囲を飛び回るような羽虫とは格が違うと心得よ」
「そのような御方にお声掛けいただけるとは、望外の喜びに存じます」
悪いが、驚いてはやらん。
大神官の遣いが、お前のように表情に出すようなヤツと思うなよ?
「ですが、それならば、尚のこと、先ほどの話はご辞退いただきたく申し上げます」
「ほう?」
分かりやすく、温度が下がった。
だが、次の瞬間に、オレの方が沸騰することになる。
「既にそこな羽虫に誑かされたか?」
さらに……。
「若い男を咥えこむことだけは美味いからな」
それだけで、キレるかと思った。
王妃ともあろう人間が、品の無え言葉を使いやがって。
「仰ることが分かりかねます」
意味は分かるが、何故、そんなことを言った?
千歳さんがそんなタイプの毒婦に見えるのか?
「ああ、そこな羽虫は、若い男ばかりに言い寄り、惑わし、操るのじゃ。既に何人もの男がその羽虫に毒牙に墜ちておる」
千歳さんは何も言わない。
反論すれば面倒になることが分かっているからだ。
認めているわけではない。
「そうじゃな。この国にもお前のように見目の良い黒髪の男がいるが、その男など、幼児期より誑かされておったわ。それ以外にも複数で……」
幼児期から誑かされた黒髪の男って、まあ、兄貴だな。
それは認める。
いや、誑かされたとはちょっと違うか。
だが、栞を連れて来なくて本当に正解だった。
耳汚しにも程がある。
なんだ? この女。
「ゆめの郷」にいた「ゆめ」たちだって、もっと品があるぞ?
どこの、女性週刊誌だ?
「お前も、陛下の政務室に入室してかなり長い時間、居ったな。陛下に言葉を頂戴したのを良いことに、別室でそこの女と何をしていたことやら」
オレが陛下の政務室に千歳さんと行って、部屋から出るまで覗いていたのか。
暇人なのか?
二時間だぞ?
しかも、本当に妄想逞しいな、この女。
……ってか、政務室は確かに通路からいくつも部屋を通るが、そこに全く人がいないことはない。
別室には文官たちが仕事をしていたし、話が聞こえないようにその部屋から人は払っていただけで、隣室では不測の事態に備えて、近衛兵と他の補佐官たちが待機していた。
しかも、時折、部屋から出ていく気配もあったから、通路にその人間たちの姿があったはずなのだ。
だから、どんなに魔が差したとしても、この女の言う通りにはならない。
全員がグルなら別だが。
単純に言いがかりだ。
そして、オレの反論を待つのだろう。
ふざけるなと食って掛かれば、向こうが喜ぶだけだ。
相手はこの国で、実質第二位の権力者であり、女だ。
男のオレが、激昂すれば、悲鳴を上げて被害者ぶるつもりだろう。
そして、運よく捕えられれば、大神官にも恥をかかせることができる。
……阿呆だな。
「のう? 見目の良い神の狗の遣いよ。何人もの男を食った年増の味は美味かったか?」
少なくとも、千歳さんは、お前よりも年下だ。
……違う。
「誤解されては困ります。セントポーリア国王妃殿下」
「む?」
「この方は、この城に不慣れだろうと私をご案内くださっただけの関係です。妃殿下の仰ることのほとんどは分かりかねますが、誤解だけは解かせていただきたく存じます」
本当に意味不明だから困る。
栞が聞いていたら、一つ一つ、オレに確認してくるほど品の無い言葉なのはよく理解できたけどな。
「私は既に主人に魂までも捧げた身。我が全ては敬愛すべき主人のものなので、妃殿下の申し出をご辞退させていただきたいと告げたまでです」
あの「ゆめの郷」から、オレの全ては栞に捧げた。
だから、彼女が真に望むこと以外でオレが素直に頷くと思うなよ?
「お、お前は男色か?!」
酷いことを言われた。
いや、これは主人が大神官だと思っているな。
まあ、思わせただけだが。
オレは、何一つ嘘は言っていない。
お前が勝手に誤解しただけだ!!
「少なくとも、主人以外に仕えたいとは思っておりません」
否定せず、事実だけを突きつける。
「汚らわしい!!」
お前が言うなよ。
少なくとも、清らかな種類の人間からはありえない言葉を聞かされたぞ?
「そのような人間が陛下の御身に近付くとは……」
バキリと何かがへし折られたような音がした。
扇だな。
勿体ないことをする。
さらに……。
「この痴れ者がっ!!」
敵意が膨れ上がった。
「御使者殿!!」
千歳さんの声が上がる。
咄嗟にオレの身体を庇おうとした千歳さんの右腕を掴んで引き、背中に下げる。
一直線に向かってくる折られた扇は、オレに当たることなく、弾け飛んだ。
女の力で投げられた程度の物理攻撃が通用するはずもない。
尤も、「魔気の護り」に任せるのは不自然なので、分かりやすく、目の前で粉砕させていただいたが。
「大丈夫ですよ、セントポーリア国王の秘書官殿」
オレを庇う必要はない。
荒事には慣れている。
そして、その先を見据える。
そこには、燃えるような髪をした貴人の姿が冷めた目でオレたちを見ていた。
「そこまで惜しいと思われたのは、望外の喜びにございます。セントポーリア国王妃殿下」
「何を……?」
オレが再び頭を下げると、怪訝な顔に変化する。
「先ほどお伝えした通り、妃殿下にお仕えすることは叶いませんが、もしも、我が主人が私を手放す時が来たら、その時は……」
できるだけ余裕を見せて……。
「貴女の元へと参上いたしましょう」
そう微笑んでやった。
そのまま、一礼して、千歳さんとともにその場から去る。
だから、オレは知らない。
その後、あの女がどんなツラをしていたのかなんて。
そして、あの女も知らない。
栞がオレと完全に手を切ることになるならば、確実に……。
オレはあの女をこの手に掛けようと心に決めたことも。
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