商人の目
「ふっ、残念。逃げられたましたか……」
後に残された商人に身をやつした男は一人、口の端を仄かに上げながら呟いた。
その声に不機嫌な色は一切なく、寧ろ、喜んでいるようでもある。
先ほど、あの黒い髪の青年は、交渉相手の商人という外見を利用し、商談という名の口止めをした。
さらに、過不足のない適正な取引価格を素早く提示し、商談を成立させたのだ。
それは、相手を納得させる同等価格をあの短時間で計算したということでもある。
そんなことができるのは、情報国家の人間でもそう多くはない。
そして、情報国家の人間を通し、一度取引された情報に対しては、ある程度の守秘義務が生じるということも知っていたのだろう。
その辺りについても、かなりポイントが高い。
まだかなり若いように見えるのに大した感覚だと思う。
個人的にはもう少し話を聞きたいた上で、口説きたいところでもあったのだが、残念ながら相手がそれを拒むのなら仕方がない。
彼には自分が情報国家の人間だということが分かっていたのだ。
だから、その行動としては当然の反応だといえる。
あの青年はどうもその辺りにいる他の兵と違い、完全なる王妃の私兵ではなかったように見えた。
だからこそ、いろいろと隠しておきたいことも多いのだろう。
「ああ、そう言えば……」
この国の王妃のお気に入りの従僕の中に、黒い髪、黒い瞳の見目が良い青年がいるとは聞いていた。
王妃自身はあまり興味が無いように振る舞っているようだが、週一の間隔で私室に呼び出しているのなら、かなりの愛玩対象として見ていることは間違いない。
そして、それは彼のその心臓の強さも表していると言える。
「なるほど……。かなり腹の中を探られたくない人間だということですね」
少し話しただけでもそれなりの人間だと分かるのだ。
加えてあの外見ならば、異性に不自由するようなタイプでもないだろう。
ある程度の容姿をしているとは言え、あの青年から見れば、王妃はかなり年上の女性だ。
無理して、自分の母親ほどの年齢の女性を相手をする必要はない。
それでも、青年は王妃の要請に応じている。
王妃は、わざわざ自分が出向いて相手を物色せず、部屋から出て、たまたま目についた相手しか誘うようなことはしていない。
つまり、身分が低くて断れない立場なら、高貴なる人間には会わないように逃げれば済むことなのだ。
それでも……、彼が王妃に出会うと言うことは、近付かなければならない理由があるということに他ならない。
そして、それは保身でも出世欲からでもないことは、あの兵たちとの会話でよく分かる。
そのような考えを持っている青年が、あのような兵たちに分かりやすくも、格下の扱いはされていないだろう。
彼は望んでその立場にいることが分かる。
未だに当てもなく走り回り、その場にいる人間に手当たり次第、無遠慮に尋ね回る兵たちの姿はどこか滑稽であった。
情報というものはそんなに単純で甘いものではないことを、彼は自身の経験から知っているのだ。
「おい、商人。この辺りで少女を見なかったか?」
手がかりとも言えるものを持っていた自分に目を付けたのは悪くはないと思うが、そのような聞き方で何が得られるというのか。
特徴も伝えず、漠然とした「少女」という単語だけ。
ただの少女というだけで良いのなら、兵たちが走り回る直前までその辺りにも幾人かは歩いていた。
明らかに粗暴な男たちがうろつけば、危険を避けるためうら若き乙女たちが出歩くはずもない。
捕まれば、どんな目に遭わされるか分からないのだ。
無骨で暑苦しい男たちしかこの場にいないのはなんともむさ苦しく、華もない。
そう言った意味でも、あの青年は一種の清涼剤のようでもあったなと、男は思った。
涼やかで、自分にしては珍しく、心惹かれる人間であった、とも。
尤も、相手がどんな返答を期待しているのかは当然分かっている。
だが、それを口にする気はない。
黒髪の青年との商談……、口止めを含めた取引もあったが、それ以前に自分が情報を渡したくなるような相手でもないと判断している。
情報国家の国民たちは血も涙もないと評されていても、現実には感情のある人間なのだ。
取引相手を選ぶ権利は当然ながら存在する。
「先ほどまでなら何人かは歩いていましたよ。ここは商店街ですから」
涼やかに青年は威圧的な態度の兵に返答する。
「ちっ……。ヤツと話していたぐらいだから、手柄に繋がるような実のある話をしていたかと思えば……」
そう言いながら、兵は礼も言わずに立ち去った。
それを見て、青年は思わず忍び笑いをしてしまう。
彼は、その兵の行動と態度に呆れてしまったのだ。
上っ面の会話だけで、それなりの成果を得ようとするその姿勢が。
適度に情報を渡しもせず、外面だけで自己判断してしまうのは、彼にとっては愚の極みだといえた。
情報というのは流れるもの。
決して一方的であってはならないのだ。
お互いの歩み寄り、そして、与えてくれたモノには礼儀と感謝を。
それらを忘れてしまっては、情報の動きは自ら止まってしまう。
尤も、情報については他国と考え方が違うことは理解している。
だから、それを教え諭すような言動をするつもりも彼にはなかった。
相手が望んでいないことを伝えるというのは、情報の押しつけとなってしまう。
それは、情報国家の人間として褒められた行動ではない。
そして、この国の国王については嫌いではないが、この国そのものは好きではないという個人的な考えもあった。
この国は彼にとって、とても大事なものほど容赦なく奪っていく国なのだから。
「お、おい……。そこの商人。先ほどの、黒髪の男と何を話していた?」
またも別の兵から声を掛けられる。
「はい。商売の話を少々……。私は見てのとおり商人なので」
嘘は言っていない。
先ほどの青年と商談という名の会話をしているのだから。
「商売? なんでまたヤツはそんなことを……」
そうぶつぶつ言いながら、それ以上深くは突っ込まずに兵はその場から離れた。
彼もまた礼を口にすることはしない。
商人風の男が驚いたことに、あの黒髪の青年と会話するまではほぼ無視に等しかった自分に対して、その場を走り回っていたほぼ全ての兵が声をかけたのだ。
それは勿論、城下へ出てくるなり、穏やかとは言い難い雰囲気を漂わせるきっかけとなったあの愚兵も含まれている。
問いかけの傾向としては似たり寄ったりではあったが、それまで意識の範疇外にいた自分に目を向けることになったのは、あの青年の影響が強いことは疑う余地もない。
周囲はあの青年に対して関心をなさそうに振る舞っていても、その能力は信用されているのだろう。
「なるほど……、ダルエスラーム坊、トリア妃が気に入る人間で、あの堅物にまで目をかけられている男というのは、表向きはともかくかなりの信頼があるらしいな」
商人は口調も声色すら変えた。
いや、これは元に戻したというのが正しい。
普通に考えれば、ただの情報国家の人間が、仮にも他国の王子のことを「坊」とは言わないし、正妃に対して「妃」としか言わないのもありえない。
だが、彼にはそう呼ぶだけの理由はあった。
「そして、そんな男がそれとなく隠そうとする娘……か。この国の王子にしてはなかなか面白そうな女を気に入ったみたいだな」
正直、あの時、あの少女に一声かけたかったのだ。
何者かは知らないが、タイミング的に数日前に王子に連れられて城に現れた少女だろう、と。
だが、その様子からかなりの取り込み中だったようなので、声をかけることは良くないと判断した。
護衛のような動きをしている従者を連れている辺り、ただの少女ではなかったのだろう。
だから、王子や王妃たちの手が伸びる前に城下から脱出すると判断したのだと思う。
もし、ここにいる兵に見つかれば、あの小柄な少女はどんな目に遭わされたことか……。
「一体、何者だったのだろうな、あの娘は……」
そう言いながら、男が軽く息を吐いた時……。
『残念ながら普通の娘よ、商人さん』
不意にどこかから声をかけられる。
そして、その声に、この男にしては珍しく驚きを隠すことができなかったのだった。
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