魂の浄化
『本当に酷い人ね』
目の前の黒髪の女は俺に対する苛立ちを隠すことなく、素直にそう口にした。
『分かっているよ』
『分かってないわ。何も知らなかったシオリさまに、貴方の贖罪の気持ちを一方的に押し付けただけじゃない』
そう憤る姿は、今も昔も変わらない。
まあ、当然ではある。
『あれのどこが贖罪だ?』
『誰にも言えなかった懺悔の気持ちを「聖女の卵」に告解する。立派に贖罪よ』
そう言われたら、そう受け止められなくはない。
だが、それは神女視点の話だ。
『馬鹿を言うな。当人に謝罪しないことに、何の意味がある?』
『開き直ってんじゃねえわよ、加害者』
『おい、素が漏れ出してるぞ』
今の妻を息子たちが見たら、全力で引くだろう。
特に本物を知っている兄の方がショックも大きいかもしれない。
『もうこの場には貴方以外にいないから何も問題ないわ』
その長い髪をかき上げながら、元神女はそう言い放った。
もともと妻は孤児だった。
物心が付いた頃には既に、アストロメリアの僻地にあった名もない聖堂の「教護の間」にいたと聞いている。
その「教護の間」の教養は世話をする神官によって多種多様ではあるが、そこで世話になる孤児たちもいろいろいる。
幼い頃に道を外れた懲罰の意味で放り込まれることもあるのだ。
そんな孤児たちの中で育つのだから、当たりの神官に面倒を見られない限りは、お行儀よく育つはずもない。
神女として神導を受けるほどの才がなければ、「教護の間」から出た女によくある未来の例にもれず、粗暴な娼妓に、いや、この容姿なら聖堂にいた神官たちの私娼となっていた可能性の方が高いとは思うが。
『まだ世界は繋がっているんだ。気を抜くな』
『ふふっ、そうね。気を付けるわ』
既にこの世界と自分の夢を繋いだ聖女の姿はもうない。
そして、その夢に勝手に入り込んだ息子たちの姿も。
ずっと見ていた。
この世界にいる間はずっと。
昔の友人が口にしていた「人間界」という場所にいる期間こそ、その姿を見ることはできなかったが、たまに姿を見せる息子の姿も、想像以上に大人になって帰ってきた息子の姿も、そして、昔の友人の血を感じさせる娘の姿もずっと見ていたのだ。
不意に訪れたきっかけ。
いつも覗いていた場所にあった不思議なズレに、何気なく手を伸ばすと、自分の世界が変わった。
どこまでも白い世界。
そこに立った瞬間、様々な感情の波に襲われた。
死んでから久しく忘れていた、この魂を直接掴まれたかのような異質さに思わず、後ろを振り返ったことを覚えている。
傍に愛しい妻がいなければ、耐えられなかった孤独感、虚無感、そして、生への生々しい渇望。
これを未練と呼ぶのなら、間違いなく自分はあの世界に未練があった。
『思ったより、俺は生きていたかったのだな』
『それに気付いていなかったことに驚きだわ』
妻は苦笑する。
何度も何度も繰り返し、後悔し、幻滅し、落胆し、絶望し、全てを切り離したと思っていた。
それでも、何故か自分たちの目の前に現れる息子たちの成長していく姿を、一喜一憂しながら妻と見てきた。
自分なら、妻ならと互いに話し、ありもしなかった未来を夢想した。
その間に、また自分の中に生まれたモノがあったらしい。
死んでも新たに生まれるとは不思議なものだ。
『あの子たちがいずれ、この世界に来て、その子孫たちまの行く末まで見届けさせる。それが、私たちに与えられた「浄化」なのでしょうね』
死後の世界では、生前の未練を断つために、魂の「浄化」と呼ばれるものがあると聞かされていた。
実際、それを意識させられると、不可解というしかない。
未練を断ち切るより、より未練を深めている。
『焦がれても手が届かなければ、諦めるしかないもの』
元神女は尤もらしくそう告げる。
確かに本来は届かない。
生前の世界に未練を多く残しても、いずれは自分が知る者たちもいなくなる。
『だが、届いた』
会えないと思っていた人間たちと会い、会話など交わせないと信じていた相手と対話できた。
それは一つの奇跡だろう。
『「今代の聖女」はそれほどまでに奇跡を起こす人間だってことよ』
妻は頬に手を当てながら、うっとりするように溜息を吐いた。
『「今代の聖女」か。俺にとっては、愛らしい娘でしかないのだがな』
あの娘があの世界で生を享けた瞬間を今でも覚えている。
そして、その時の母親の姿も。
風属性の気配が濃密な領域にあって、尚も、その存在を主張する激しき嵐。
あの場所でなければ、少なくとも、城にいた王族は反応したことだろう。
新たな王族の生誕を寿ぐ大陸神の気配を感じないはずがなかった。
あれだけの祝福は王族でも珍しい。
この手の抱き上げる直前、自分の心に浮かんだのは、厄介なことになりそうだという思いしかなかったのだから。
それでも、同じく床にあるというのに、身を乗り出してその赤子の顔を覗き込もうとしていた妻の姿と、首もまだ据わっていない弟を幼児なりに抱き抱えようとしていた息子の状況を見て、冷静にはなれた気はしたのだが。
『そうね。シオリ様は、あんなにちっちゃかったのに……』
そう言いながら、両手で何かを掬って掲げるような仕草をした。
妻もあの娘を抱いている。
生まれて三日後、清めも終わらせて落ち着かせた後のことだった。
正しくは、横たえた身体の横に添えただけだが、それでも本人は満足そうに微笑み、言葉をかけていた。
その数時間後、両目を完全に閉じるまで、いや、閉じた後も、その口元は笑ったままだったのだ。
『それがあんなに魅力的なお嬢さんに育つなんて……。ツクモもユーヤも完全に首ったけじゃない』
くすくすと、とても楽しそうに笑う。
晩年の妻にはもう見られなかった表情で。
『確かに魅力的な娘に育っていたな』
少し会話しただけでもそれが分かるほどだった。
素直で愛らしいだけでなく、語彙も豊富で、年上相手にも委縮しない。
息子たちはそんなシオリをとても大切にしていた。
それも、当人たちがどこまで意識しているかは分からないが、親として思わず心配してしまうほど、依存の域にあることは分かっている。
それについて、シオリ自身は気にしないと言っていたが、それもどこまで持つことやら。
その姿は、かつての自分を彷彿させるが、やきもきしながら見守るしかないだろう。
こればかりは仕方ない。
既に死んだ人間にできることなんて、生者への忠告と見守り。
それぐらいのことなのだから。
『ツクモとは話せたか?』
『ええ! 凄く楽しかったわ! あんなにいい男に育つなんて、チトセ様とミヤドリード様のおかげよね~。抱き締められた時の力強さとか、我が息子ながら惚れ惚れするほどだったわ!!』
妻は興奮のあまり、顔を真っ赤にして叫んだ。
『抱き締め……?』
だが、世にも不思議な言葉を耳にした気がする。
ツクモは自分の母親とほぼ初対面に等しい。
妻の気持ちはともかく、そんな相手を抱き締めるような男だとは思えなかった。
いや、これは嫉妬とかではなく、純粋な疑問だ。
断じて嫉妬とかではない、絶対に。
『ユーヤもいい男に育っているわよね。ああ、シオリ様が心の底から羨ましいし、素直に恨めしい!!』
『おいこら、母親』
それらの言葉は親としてどうなのか?
『何よ? 母が息子たちに惚れ込んで何が悪いっての?』
『外聞、体裁、世間体』
『全部一緒じゃない。素直に妬いたって認めれば良いのに。仕方ない、お父さんね』
妻は俺の頭を撫でながら、分かりやすく揶揄い口調となっている。
それは、本当に楽しそうだ。
『煩い。黙れ。その口、塞ぐぞ』
それが分かっているから、俺も笑いながらその口を塞いでやれるのだが。
だが、俺も妻も分かっていなかった。
目の前にあった奇跡に目が眩でしまったのだろう。
予想すらしていなかったのだ。
真の聖女というものは、常に凡人の想像の範疇外からやってくることを。
俺たちがかつて惚れ込んだ本物の聖女は、更なる奇跡を起こしてしまうのだった。
この話で96章が終わります。
次話から第97章「過去から芽吹くもの」です。
そして、その次話はなんと1800話となります。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました




