自分が産まれた時の話
「母が、九十九の乳母になった経緯を伺ってもよろしいでしょうか?」
―――― La madre divenne la tata di Tsukumo.(母親はツクモの乳母となった)
あの本棚の世界であの文章を見たことを思い出した時から、ずっと気になっていた疑問だった。
母とフラテスさまが既知だったことは理解した。
それでも、単なる知り合い、いや、友人相手に申し出る話だとは思えない。
何故なら、乳母だ。
自分の子供の命を預けるような重要な役目だ。
時代や国によっては、そのまま、子供の教育係まで担うこともあるほどの役職でもある。
『シオリなら、妊婦が一人でふらふらとセントポーリア城下の森に現れたらどう思う?』
……母か。
その言葉だけでそう察する自分はどうなのか?
いや、状況的に母以外の女性であってもおかしいのだが、あの城下の森に普通の妊婦が立ち入るはずもないことだけは分かる。
『それが友人だったら、迷いもなく捕獲するのはおかしくもない話だよな?』
捕獲……という表現に疑問はある。
それ以外にもいろいろと突っ込みたい部分はあったのだけど……。
「母は、何故、城下の森に?」
それだけ口にするのが精いっぱいだった。
『城から出て、どこか別の場所に向かおうとしたらしい』
「雑!!」
『……だよな』
それが本当なら、当時の母は無謀だとしか言いようがない。
そのお腹に宿っているのが、自分のことなら、それは間違いなく現セントポーリア国王陛下の御子であり、セントポーリア王族の一人となる。
いろいろ複雑だけど。
だから、セントポーリア城から出ることは間違いではないし、セントポーリア城下にすらいられないと言うのも正しい。
現セントポーリア王妃殿下の話を聞いた限り、当時、セントポーリア国王陛下に子がいたら、確実にその命を狙うであろうことは予想されている。
実際、セントポーリア城に住んでいた昔のワタシも、高い所から何度か突き落とされている。
毒殺狙いはなかった。
ミヤドリードさんが食事の管理は徹底していたし、彼女が解毒魔法もできたから気付かなかっただけかもしれないけど。
セントポーリア城下にも、その王妃殿下の手が伸びた可能性はある。
だから、セントポーリア城や城下にいられないと判断したこと自体は良いのだ。
だが、「どこか別の場所」という無計画さは何なのか?
それこそ、野盗に狙ってくださいと言わんばかりではないの?
『その前に、例の湖に現れたから、俺が捕獲するしかなかった』
実質の保護だ。
若い頃の母は、今のわたしよりも、もっとずっと考え無しだったらしい。
尤も、その場所に居たら、フラテスさまが現れて、良い案を貰えるかもと期待していた可能性もある。
『当時、そして、こちらにも同じように妊娠していたラビアがいた』
そのお腹にいたのは後の九十九だろう。
九十九とわたしの誕生日は一ヶ月違いだ。
人間界では、四週間違いだが、この世界ではちゃんと一ヶ月違いとなっている。
少なくとも、例の「置換歴」を使うと、そんな計算になるのだ。
それがちょっと不思議だよね。
その基準はよく分からないが、現状、それが受け入れられているし、役に立っている。
『身重の妻がいて、小さな子供がいたからな。行き届かない面もあるが、一人増えたぐらいでどうにかなるほど生活に困窮していたわけでもない。ユーヤの子守り役と称することで、来てもらったのだ。ユーヤ自身もチトセに懐いていたからな。大喜びだった』
雄也さんは当時1歳と何ヶ月かという計算になる。
さぞ可愛かったことだろう。
そして、母は保育士という職業を選ぶぐらい、小さな子供が好きなのだ。
相手が気遣っていると分かった上で、引き受けたかもしれない。
『ただ、一つだけ問題があった』
「問題?」
『それから間もなく、ラビアの身体が酷く弱ったのだ』
「あ……」
そうだ。
九十九のお母さんは九十九を産んで一ヶ月ほどで亡くなっている。
『「魔力虚脱症」と呼ばれるもので、母体よりも、腹の子の魔力が強い時に、低確率だが、現れることがある。ユーヤの時には現れなかったから、その可能性を考えてもいなかった。つまり、俺のせいだな』
「そんなっ!?」
思わぬ話が出た。
九十九のお母さんは、普通に産後の肥立ちが悪かったと思っていたが、そうではなかったらしい。
その「魔力虚脱症」というものが、どんな病気で、どれくらいの確率かは分からないけれど、低確率だというのなら、単純に運だと思う。
だけど、その当事者にそんなことは言えない。
『だから、この世界では魔力の強い者同士が結ばれると言う単純なことも忘れていた。もし、覚えていたら、もっと前に処置する方法もあったのに』
そこにあるのは明らかに悔恨の気持ち。
「処置とは?」
だけど、それよりも「処置」という言葉の方が気になった。
自分でも驚くほど冷たい声が口から吐き出される。
『ああ、腹の子を殺すとかではないよ。王族の子を魔力の弱い女性が宿す時に使う薬があってね。それを使って、子の魔力を弱めるんだ』
堕胎ではなくて、ホッとしたものの、今の九十九の魔力を知っているわたしとしては、それでも複雑な気分にはなる。
もし、その薬を使われていたら、今の九十九とはちょっと違うということだ。
『ツクモを知るシオリとしては複雑な気分にさせてしまったね』
「いえ、それは……」
仕方がないと言いたかった。
でも、結果を知っている今、それを口にも出しにくい。
『尤も、ラビアが使わせてはくれなかったとは思うよ』
「え……?」
『「魔力虚脱症」だと知る前。ツクモがその胎内に宿った時から、ラビアは常々、言っていた。自分は光の子を産むのだと。そして、その子は後から生まれるチトセの娘を護るために必要な存在となるのだと』
「それは……」
思わず、自分の口を塞ぐ。
まるで、予言のようではないか、とそう言いかけて。
『ラビアは未来視だった。だから、未来を視たのかもしれないね』
フラテスさまは力無く笑った。
『そして、自分の身にどんなことがあろうと、この子だけは産んでみせると、気合の入った瞳で見つめられた。俺は昔から、あの瞳に弱いんだ。俺は一度も、逆らえたことがないな』
そう言いながら肩を竦める。
『だから、「魔力虚脱症」になる可能性が頭にあっても、薬は使えなかっただろうなと今でも思っている』
その言葉に少しだけ救いを感じた。
その薬はある意味、子の運命を歪める行為だ。
確かに母体の安全確保には必要なことかもしれないと分かってはいても、九十九を知る今は、簡単には認めたくない。
「だが、その「魔力虚脱症」によって、衰弱したラビアは、ツクモを産んだ後、回復することなく、そのまま死んでしまった」
フラテスさまの口から紡がれたその言葉に、ゾクリと全身が粟立つものを覚える。
当たり前だ。
国を捨てるほど愛した女性が亡くなった。
その時のことを話しているのに、それについて思うところがないはずもない。
『ラビアを失って、自暴自棄になりかけた時、そんな俺の両頬を引っ叩いて、無理矢理這い上がらせたのが、シオリを産んだ直後のチトセだった』
「――――っ!!」
そうか……。
ラビアさまが亡くなったのは九十九を産んで一ヶ月後ぐらいだった。
そして、その時には……、母がわたしを産んだタイミングに当たる。
『ラビアが死んだのは、シオリが生まれて三日後だった。俺が取り上げて……、ふにゃふにゃだったな。ツクモよりもずっと小さくて軽くて柔らかくて温かくて……、だから、ラビアにも抱かせることはできたんだ』
いきなりの情報に、思わず叫ぶところだった。
そうか。
ずっと母はたった一人でわたしを産んだのかと思っていたけれど、この人の傍でわたしを産んだのか。
でも、かなり複雑だと思ってしまうことだけは許して欲しい。
『その時、ラビアがシオリに向かって小さく告げた言葉は今でも忘れられない。「ユーヤとツクモを正しく導いてね」と。その時の顔も声も……、俺が今まで見た中で一番、清らかで、そして儚げだった』
未来視を持つという九十九と雄也さんの母上は、どんな未来をワタシに視たのだろうか?
それは分からない。
だけど、何故だろう?
一度も、聞いたこともないはずの女性の声を、わたしは聞いた気がしたのだった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました




