何も知らなかった
これまでオレは本当に何も知らなかった。
自分の母親が神女だったことも。
そして、子守歌として、聖歌を歌っていたことも。
母が「貴方たち」と言った以上、たった一ヶ月ほどしかない付き合いの中で、オレも聖歌を聞かされていたのだと思う。
いや、もしかしたら、胎にいる間から聞いていたかもしれない。
そのために、初めてストレリチア城下で、大聖堂から聞こえる聖歌を聞いた時、どこかで聴いたことがある気がしたのか。
聖歌自体に覚えがあるわけではなく、その独特な音や言い回しにどこか覚えがあったのだ。
胎児や嬰児の記憶力がどれほどのものかは分からないが、それでも、微かに覚えていることはあったということだろう。
オレは、母親の顔すら覚えていなかったのに、歌だけは覚えていたらしい。
だが、兄貴は知っていた。
母が神女であったことも。
そして、子守歌代わりに聖歌を歌っていたことも。
母の口ぶりから、それは明らかなことだろう。
それが淋しいとは思わない。
寧ろ、当然の話だ。
母が死んだのは、オレが生まれて一ヶ月そこらではあるが、兄貴にとっては、二年と二カ月である。
逆に、全く覚えていない方がおかしい。
ただ、気になったのは、その歌について、栞に確認していたということだ。
一体、いつ、それを確認した?
いや、最近、兄貴は栞と行動することが増えていたから、その機会は何度もあったことだろう。
『貴方たちに聴かせていた「愛しき光はここにあり」は、「教護の間」に新たな子を迎える時に歌う特別な聖歌よ。本来は聖歌隊に所属したことがなければ歌う機会はないのだけど、今代の聖女は随分、熱心なようね』
母は感心したように言った。
そして、オレはその歌のタイトルを聞いて納得もした。
母が言った「愛しき光はここにあり」は、以前、あの島で薬の実験をしている時や、リプテラでも赤ん坊を抱きながら栞が歌った歌である。
栞が、後でそう教えてくれた。
ストレリチア城にいた時、オレがいない場所で大神官から習った聖歌の一つらしい。
オレは栞が歌ったその二回しか聴いた覚えがなかったのだが、それでも割とすぐに一番だけ覚えることができたのは、遠い昔に繰り返し聞かされてためだったようだ。
覚えてもいないほどの過去に聞いたことがあったのということだろう。
「聖女の卵」である栞も全ての聖歌を覚えているわけではない。
神官や神女が聖歌を歌うことは、神に近付く行いだという。
人間が神になれるわけではないのだから、その「神に近付く」という言葉は、「神とお近づきになる」、「神の傍に呼ばれる」という意味なのだろう。
栞は神のご執心を既に受けている身なのだから、当人の意思に関係なく、勝手に神がやってくる。
だから、大神官も必要以上に教えてはいないそうだ。
これ以上、神々が栞に近付かないように。
尤も、栞は聖歌に限らず、普通の歌でも精霊たちが反応してしまう程度の神力を発揮してしまう。
それが悪いとは言わない。
神が興味や関心を持つのは腹立たしいが、この世界において、精霊たちの助けを借りることができるのは悪いことではないのだ。
それに、内から溢れ出す言葉は止めない方が良いと思っている。
魔力と同じで、無理に我慢させると、暴走、暴発しやすくなる気がするのだ。
『今代の聖女は歌……、いえ、言葉と相性が良いようね』
兄貴の心を読んだのか、オレの心を読んでの返答なのかは分からない。
だが、栞が、歌を含めた言葉と相性が良いと言うのはよく分かる。
歌を歌うことによって神力が漏れ出すと言うこともあるが、例の栞独自の魔法なんか、その最たるものだ。
同じようなことを魔法国家の王女殿下たちがしようとしても無理だろう。
幼い頃から身近にあり過ぎて、魔法とはこういうものだと固定観念が強すぎる。
15歳になってから、魔法に触れることになった栞のような柔軟さは、なかなか持ちえることはできない。
ずっと傍で見続けたオレでも難しいのだ。
尤も、そんな栞も変な所で頑固だったりするから、世の中、変にバランスが取れていると思う。
まあ、意地っ張りで頑固な栞も可愛いから良いのだけど。
ん?
なんとなく、母と兄貴から視線を感じるような?
それも生温い種類のものだった。
いかんな。
それだけ、オレの気が緩んでいたらしい。
『ツクモは、フラテスに、そっくりになったようね』
母が溜息を吐いた。
だが、先ほどは父とはあまり似てないと聞いた気がするのは気のせいか?
しかも、このタイミングで似ていると言われるのは複雑な気分になる。
『でも、もう少し、女性に対する好意は隠した方が良いと思うわよ』
はっきりと言われてしまった。
そして、「そっくり」ということは、同時に、過去、オレたちの父親も同じような顔をしていたことがあるのだと察するしかない。
尤も、オレが知るあの父親にそんな様子はなかった。
既に母は亡く、父子三人での生活だったからだろう。
「自分の本音を隠して、後悔することだけはもうしたくないですから」
オレは栞に対して愛を口にすることができないが、愛を伝えることが許されていないわけではない。
そこに救いはあった。
だが、そんな言葉にできない想いってやつが、本当に相手に伝わるかは謎である。
自分の本当の気持ちは、口にしなければ肝心の相手に、その欠片すら伝わらない。
オレたちは心を読める精霊族ではないのだ。
そんな簡単な事実を、オレは5歳にして思い知っている。
指一本も動かせない身体と顔で、主人の背を見送るしかできなかったあの時から、次に会えた時は、彼女にだけは、必ず、自分の心を伝えようと誓った。
その誓いは今も自分の中にある。
尤も、伝えることによって、最近は、「残念な男」として認識されているのは微妙に納得できないのだが。
『今代の聖女は良い子なのね』
「「それはもう」」
なんで、こんな時だけ口にするんですか? お兄様。
そして、先ほどからずっと黙っているのは、目の前にいる母に対する緊張だけではないことはもう分かっている。
先ほどからずっとこの場から離れたくて仕方がないことも。
それでも、今の言葉は口にしたかったらしい。
でもな。
そこまで気にしなくても大丈夫だとは思うんだ。
確かに死んだ母親と思われる人間がこの場所にいることに対して、警戒するのは当然だろう。
だが、ここは栞の夢なのだ。
しかも、相手は、オレたちが入ってくることなんか、予測もしていなかったと思う。
それなのに、この母は、もともとの目的であった「今代の聖女」の元へ向かうよりも、オレたちの方を優先した。
だから、栞の方に危険はない。
この夢を見ているはずの栞の方には、例の「封印の聖女」とやらが現れている可能性もあるが、その対策もしている。
その聖女が出てきた時は、一緒に過去を見せられると言っていたから、夢の雰囲気も恐らくは変わるから分かるはずだ。
それなのに、この世界が白いままなのだから、恐らくその「封印の聖女」はこの夢には現れていないだろう。
まあ、別の人間が現れているかもしれないし、一人しかいない状態なら、栞は寝ているかもな。
あの女は、夢の中でも迷わず寝ようとするから。
『ふふっ。どうやら、ユーヤは約束を守ってくれているのね』
不意に母はそんなことを口にした。
『でも、少しばかり守り過ぎだわ。勿論、それが悪いとは思わないけれど、少しくらいツクモに伝えておくべきじゃないの?』
どうやら、オレの話らしい。
だが……。
「母上、何も聞いていなかったのは自分です。兄は悪くありません」
自分の母親がどんな人間だったかとか、本来なら興味を持つべきことに興味を持てなかった。
兄貴は確かに秘密主義な部分があるが、オレが聞けば少しぐらいは口にしていたと思う。
オレが、聞こうという意思を見せなかっただけだ。
自分のことなど、知りたくもないから。
『違うのよ、ツクモ』
違う?
何が?
『ユーヤは、本来、貴方に言わなければいけないことを伝えていないの』
そう微笑んだ母親は先ほどまでと違って、何故か、性別も違う身内の顔に似すぎていて、鳥肌が立ったのだった。
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