初めて会うに等しい存在
この世界に奇跡というものがあるのなら、一体、オレの主人は何度、その奇跡を起こして、オレにこれでもかと叩きつけるように見せるのだろうか?
「『ラビア=ツェモン=テネグロ』。俺の記憶違いでなければ、先ほどの声はその女性だ」
兄貴がその名前を口にすると同時に……。
『正解~』
そんな、どこか栞を思い出させるような暢気な口調の女が姿を現した。
すぐ近くにいた兄貴の身体がビクリと震える。
だが、そちらを見ようとはしなかった。
やはり、その姿に覚えはないが、兄貴が口にしたその名前には覚えがある。
どうやら、オレの考えは間違っていなかったらしい。
尤も、兄貴のヒントが分かりやすかったというのもあった。
あれほど露骨に誘導されれば、察しが悪いオレにだってその事実に行き当たるしかない。
初めて会うに等しいその人は、意外にも背が低かった。
その人の話自体、オレはほとんど聞いたことがなかったため、それが少しだけ意外な気がした。
改めて、その姿を見る。
腰までの長く黒い髪。
黒い瞳は眉毛と目じりがやや垂れている上、小さいが丸顔のため、愛嬌のある顔だと言えるだろう。
肌の色は白いというよりも血色が悪く見え、やや不健康そうな印象を受けた。
聞いた話では、身体が弱かったらしいから、それは想像通りだったとも言える。
だが、それに反して唇の色は紅く、そこだけ妙に印象に残るものだった。
そして、小柄でかなり細い。
小柄と言っても栞ほどではないが、若宮よりは低いだろう。
その身長は、その間をとって、153センチ……ってところか?
見た目は、オレたちと変わらない年頃の、綺麗というよりは可愛らしい顔立ちと佇まいをした女だった。
その姿を見て、オレが最初に考えたのは、オレも兄貴も実は、マザコンだったんだなということだった。
そう思えてしまうほど、この人は、どこかの母娘を思い出させるような印象を持っていたのだ。
いや、勿論、顔とかは全然、違う。
それでも、漂ってくる一見、無害そうな雰囲気というか、癒し系な気配がよく似ている気がする。
……というより、昔、思い描いていた「聖女」という存在を具現化すれば、こうなるのではないだろうか?
そう思えるような存在だった。
尤も、オレの描いていた聖女像など、容赦なくぶち破り、現実を突きつけてくれやがった「聖女の卵」も世の中にはいるけどな。
『ツクモ。今代の聖女を悪く思ってはいけません』
そんな言葉にビクリとする。
その声にではなく、言われた内容に対してだ。
『今代の聖女は、貴方にとって、とても大事な女性なのでしょう?』
オレ自身は、特に悪く思ったつもりもなかったが、今の考えは良くなかったらしい。
そして、この人も、リヒトや、盲いた占術師のように、人の心が読める人間だと言うことはよく分かった。
しかも、それが、他人の夢という場所であっても使える能力だということも。
「そうですね。先ほどの考えは、主人に少し失礼だったかもしれません」
そう言いながら、頭を下げ、目の前の人に目を向ける。
「改めて、初めまして、母上。貴女の息子であるツクモ=ヴァーレン=テネグロです」
その言葉を口にしてもう一度、一礼する。
自分を産んだ母親である以上、本当は「初めまして」などではないはずなのだが、オレの心境的には初対面だ。
だから、そう口にすることに迷いはなかった。
本人を前にしているのだから、少しぐらい懐かしさを覚えるかと思ったが、そんなことは全くないのだ。
オレは薄情な息子なのだろうか?
『そうね。それは仕方のないことだわ』
目の前の女性は少しだけ淋しそうに微笑んだ。
『でも、大きくなったわね、ツクモ。改めて、私の名はラビア=ツェモン=テネグロ。一応、貴方を産んだ人間よ』
だが、次の瞬間、意外なほど強い瞳をオレに向ける。
それは、先ほどまでの印象が一気に変わってしまうほどのものだった。
そして、そこでこの女性が、もっと分かりやすい言葉である「母親」という言葉を使わなかったことが少し、不思議に思える。
確かに育てられた覚えはないが、母親であることには変わりないのに。
オレがそう考えると、目の前の母親は微かに笑った。
穏やかで温かな光を感じるような笑み。
それだけのことなのに、やはりこの人は、オレの母親なんだなと理解できた。
特に何かしたわけでも、何かあったわけでもない。
単純に感覚的な話だ。
初めてその姿を見た。
そして、少しだけその言葉を聞いた。
それだけで、オレの心は素直にこの人が自分の母親であることを受け入れてしまった。
簡単に他人の言葉を信じない方が良いと、師であるミヤドリードから教え……、いや、叩き込まれていたにも関わらず、だ。
まあ、偽者でも良い。
少なくとも、母親に似た誰かではあるのだろう。
そうでなければ、オレと違って、本物の母親を知る兄貴がここまで衝撃を受けているはずがない。
これはアレだな。
オレは既に、以前、亡くなっているはずのミヤドリードに栞の夢の中で会っている。
だから、今回も似たようなものだと理解しているのだ。
オレと栞が眠っているのは、セントポーリア城下の森にある、オレたちが以前、住んでいた場所だった。
そこは母親が永遠の眠りに就いた場所でもある。
オレたちは気付いていなくても、そこには残留思念と呼ばれるものが存在している可能性はあるだろう。
そこに、死者を夢に呼び寄せる体質である栞が現れた。
だから、栞の夢に亡くなった母親を名乗る人間が現れても、驚くほどのことではない。
だが、それでも兄貴にとっては衝撃的だったらしい。
まだ母親に何も言葉をかけられていない。
それは、なまじ、本物を知っているからなのだろう。
『ユーヤ。貴方も久しぶりね』
「お、お久しぶりです、母上」
流石に向こうから声を掛けられれば、兄貴も言葉を返すしかなかったようだ。
それはどこかぎこちないものだった。
久しぶりに会った親子の対面としては、かなり固いものだろう。
自身が幼い時に死んだ母親と対面すれば、兄貴のような人間でもここまで困惑するものなのか。
ミヤドリードに会った時も、余裕がなさそうな感じはあったが、ここまで酷いものではなかった。
あの時の余裕のなさは、ある意味、いつもの兄貴とミヤドリードの姿だったとも言えるのでそこまで気にならなかったというのもある。
だが、今は心だけでなく全てに余裕が感じられない。
兄貴も普通の人間なんだなと妙な感じだった。
そんな風にどこか他人事のように考えていた。
そういった意味では、オレの方が普通ではないのだろう。
会ったこともない母親なら、どんな女性だったのかをいろいろ想像したりするものだが、オレはほとんどそんなことをしなかった。
日々の生活が色濃くて、そんな過ぎてしまったことを考えるような余裕すらなかったのだと思いたい。
そして、その原因の大半を占める女の姿はまだ見当たらない。
オレたちは彼女の夢の中に来たはずなのに。
どこか別の場所にいるのか?
オレがそんなことを考えていた時だった。
『二人とも、私よりも、今代の聖女のことが気になるようね』
そう目の前の女性は笑った。
いや、待て?
先ほどから、この人は栞のことを「今代の聖女」と呼んでいないか?
オレや兄貴の考えを読んでいるのなら、その呼び名にはならないはずだ。
オレは「栞」、「シオリ」、「主人」と口でも心でもそう読んでいるし、兄貴の心の内までは分からないが、口から出てくる言葉は、「栞ちゃん」、「シオリ」、「主人」だ。
オレ個人としては、その能力の有無はともかく栞のことを、「聖女」や「聖女の卵」とすら呼びたくはない。
確かに栞には「聖女」の能力が間違いなくある。
それを認めていないのは本人ぐらいだ。
単純に「神力」所持者というだけなら、「神子」という言葉の範囲内で納まってくれたことだろう。
「神子」……、神の力を授けられた存在。
だが、栞の能力はそれだけではない。
本人にその意識がないまま、まるで何かが計ったようなタイミングで奇跡としか思えない行為をしでかすのだ。
一番、分かりやすいのがストレリチア城下で起こした聖歌の合唱で「神降ろし」を成功させたこと。
あの場には大神官を始めとして、自然に歌える程度に聖歌の知識があった神官たちがいたのだ。
確かに正神官にも届かない下位の神官たちの方が多かったかもしれないが、少なくとも見習神官よりも上の準神官、下神官であれば、その地位に相応しい最低限の法力は持っている。
それでも、「神降ろし」は、栞に起こった。
その傍には同じように聖歌を歌った法力も神力も有している大神官がいたというのに。
それ以外にも栞はいろいろとやらかしている。
誰にでも起こり得るような小さな偶然から、信じがたいほどの大きな事態まで。
それが数えきれないほど起きているのだから、栞は世界を動かす可能性がある「聖女」の素質は十分すぎるほどあるのだろう。
そんなことはあの「盲いた占術師」に言われる前から分かっていた。
だが、それでもオレは、栞を「聖女」と呼びたくはない。
あの黒髪、黒い瞳でオレに向かって無防備に笑顔を向ける女は、王族の血を引いているだけのごく普通の人間だと思いたいのだ。
それが、オレの我儘にすぎないのだと分かっているんだけどな。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました




