脳を溶かす声
言わなければ良かった。
オレは何度、そう思ったことだろう。
だけど、惚れた女から口説くような言葉を言われる機会って、男として逃せるものか?
絶対に、本気で言われるはずがないと思っているのだから、尚のことだ。
いや、心の籠っていない言葉が来ると予想していたのだ。
あるいは口先だけの言葉とかな。
できるだけ感情が込められた振りをした「愛している」、「好き」ぐらいは言ってくれるだろうと思っていたのだ。
そして、本当の気持ちではないのだから、栞に変化は出るだろう。
そうすれば、オレの意識は間違いなく、そちらに持っていかれるはずだ。
それでも、嘘でも良いから、栞から口説かれたいと思ってしまったわけで……。
『今日は九十九と一緒に寝たいけど、駄目?』
まさか、そんな台詞が自分の耳元で、可愛らしく囁かれるとは思っていなかった。
そして、何より、栞に変化はなかったのだ。
そんな言葉だというのに、嘘の気配が全くなかったという点が本当に恐ろしい。
この女は本気で、オレにそう言ったということなのだから。
予想外過ぎる言葉に思考が停止したことだけはよく分かった。
何も反応できずに自分の身体が固まってしまったことも。
「あれ?」
耳元で吐息交じりの疑問符が届く。
そんな声すらも可愛いから困る。
ああ、そうか。
もともと、この勝負は、オレに勝ち目があるはずがないものだったのだ。
オレが栞に惚れている以上、どんな声でも、言葉でも、この心は揺らされてしまうのだから。
そう思うと急に腹立たしくも思えてしまうから不思議だ。
栞の手がオレの耳から離れることすら、不服に思う。
「うぬう……」
いつもの色気のない声。
そんな声でも、オレの耳は拾ってしまう。
ああ、本当にどれだけ惚れ込んでいるんだ?
「いっそ、雄也に教えを乞うべきか」
だから、そんな言葉すら拾ってしまうわけだ。
「それは止めろ」
兄貴に聞くことだけは止めて欲しい。
碌な結果にならない気がするから。
そして、思考が正常に動き出す。
「それより、今のはなんだ?」
「へ? 今のって……、一応、わたしなりの『ハニトラ』?」
「ああ、『ハニトラ』だったな。ああ、そう言う……」
オレは思わず肩を落とした。
もともと、そんな話だった。
栞の方に邪な意味はない。
それを利用しようとしたオレが、逆に反撃を食らっただけのことだ。
いつものようにな!!
「なかなか言葉だけで相手の心を揺らすって難しいんだね」
本当にな。
だけど、オレは栞の言葉一つで、大袈裟なまでに揺らぎ、動いてしまう。
「確かにお前を煽ったオレが悪いことは認めるが、オレ以外の男にはぜ~~~~ったいに、言うなよ?」
栞の細い肩を掴んでそこだけは強調する。
他の男にだけは言わせたくない。
「ぬ? それって、少しは効果ありってこと?」
「密室で二人っきりの状況であんな台詞を聞かされたら、オレ以外の男なら迷わず襲い掛かるわ!!」
許されるなら、オレだって襲い掛かりてえよ!!
先ほどの言葉は、普通に誘われたと思うものだった。
だけど、そんなことができるはずもない。
栞に、その気は皆無なのだから。
「九十九に通じなければ意味がないんだけど……」
それなのに、無防備な主人はそんなことをオレに言う。
頼むから、もっと危機感を持ってくれ!!
「オレが襲い掛かれば満足ってことか?」
危機感を促す意味でそう言うが……。
「それなら、『ハニトラ』としては大成功じゃない? 九十九に対して言葉だけで誘惑できたってことでしょう?」
……駄目だ。
この女は目的のためなら手段を選ばない。
その目的が達成された後の危険を全く考えていないのだ。
確かに、それが本来の目的だったとしても、その結果、今度は男からどんな目に遭わされるかまで想像もしていないことだろう。
「もう、お前は金輪際、『ハニトラ』に該当する言動を行うな。危険すぎる」
これだけ言っても、この女は懲りない。
それが分かっていても、オレは護衛としても、男としてもそう忠告しておく。
「もともと誰かにする気はないんだけど、さっきの台詞も九十九以外の殿方には言う気はないからね」
さらに重ねるな。
オレが妙な方向に期待する。
栞にそんな意識はないと分かっているから、余計にそのことが辛かった。
「そうしてくれ。頼むから」
オレは栞の肩を掴んだまま、なんとかそれだけを口にする。
細い肩。
魅惑的な首筋から鎖骨にかけてのライン。
華奢だけど丸みを帯びた柔らかそうな身体。
顔を下に向けているせいか、妙にそれらが目に入った。
この状況で、変に意識するのはマズい。
理性を総動員させて、なんとか、いろいろなものを押さえつける。
「でも、もうちょっと九十九の顔色を変えられると思ったんだけどな~」
十分、心も理性も揺らされた。
だから、これ以上、オレを煽るのは止めてくれ。
「そう言えば……、『盲いた占術師』からはなんて言葉で責められたんだ?」
それが始まりだった。
あの女が栞の身体を乗っ取っていた時に聞いた「ハニトラ」という言葉も、今回のことに繋がる。
栞が激しく動揺し、抵抗しなければならないような事態になったのは何故だ?
そう思いながら顔を上げると、目の前にいる栞の目が激しく泳いだ。
「な、なんて……」
分かりやすい動揺。
これは……?
「名前を、呼ばれただけ」
「あ?」
上手く聞き取れなくて、確認すると……。
「すっごく、好みの声の殿方から、自分の名前を呼ばれただけで、『魔気の護り』が発動しちゃったんだよ!!」
吹っ切れたように叫ばれた。
そのどこか焦ったような顔も、羞恥から赤らんでいる頬も、興奮して潤んでいる黒い瞳も、困ったように下がった眉も、不服そうに突き出た口も可愛らしいが、今はそこを気にする時ではない。
「それは、どんな声だ?」
名前を呼ばれただけで「魔気の護り」が発動してしまうほど警戒したくなる声ってどんな声だ!?
オレは栞の声はかなり好きだが、流石に名前を呼ばれたぐらいでそこまでの状態にはならない。
状況にもよるだろうが、基本的に警戒するのは声よりも栞の表情だ。
可愛いと思わされた次の瞬間に、落とし穴が来ることがあまりにも多すぎる!!
今回だってそうだった。
「良い声だよ。好みはあるかもしれないけど、あの声で口説かれたら、大半の女性は惑わされるんじゃないかな?」
大半の女を惑わす声?
「兄貴みたいな声……か?」
野郎の声なんかに興味はないが、兄貴の声はそこまで悪くないとは思う。
実際、中学一年時にクラスの女どもが騒いでいたから間違いないだろう。
それ以外だと声の低い大神官か?
ああ、大神官の声は良いよな。
あそこまで低い声はちょっと憧れる。
「ああ、確かに雄也によく似てたよ」
やはり兄貴の声に似ているらしい。
栞はあんな声が好きなのか。
そう言えば、時々、兄貴の声を聞いて顔を赤らめていたりするな。
あれは真顔で恥ずかしい言葉を言っていたからだと思っていたけれど、違ったのかもしれない。
考えてみれば、兄貴は栞のことを普段から「栞ちゃん」と呼んでいるため、呼び捨てされることは慣れていないはずだ。
あの声で、栞の名を呼ぶ兄貴。
想像するだけで腹が立つのは何故だろうか?
ただの嫉妬だな。
オレが初めて栞の名を呼んだ時は……、不思議な動きをされた覚えがある。
アレは栞から望まれたことではあったのだが、「発情期」のこともあって、互いにぎこちなかったことは確かだ。
兄貴の声が良い声だというのなら、兄弟であるオレの声はどうだろうか?
声質はそこまで違わないとは思うが、自分の声は人体の構造と機能上、音響効果が掛かってしまうため、正しく自分の耳に届かない。
だから、自分の声についてはよく分からないのだ。
最後に聞いた自分の声は、この世界に来る前に、録音機器から聞こえた声だ。
カラオケのマイクを通して聞く声とも違い、妙に高い気がして、正直、あまり好きではない声だった。
そして、この世界に録音機器は存在しない。
そのため、もう、自分の声を聞く機会などないことに正直、ホッとしているぐらいだ。
あれから、声変わりもして、あの頃よりはもっと低くなっているはずだが、自分の声は兄貴より良い声ではないだろう。
少なくとも、栞の言う脳を溶かすほどの声ではない。
オレは何度も栞の表情や言動で、脳どころか思考そのものがドロドロに溶けてしまっているのにな。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました




