甘い罠
今年初の投稿となります。
よろしくお願いいたします。
「栞が、オレの耳元で甘い声を出してみろ。それなら少しぐらいはお前の言うことが理解できるかもな」
「いや、わたしが少しぐらい甘い声を出したぐらいで、九十九の脳が溶けるとは思えないのだけど」
まず、声の質が違い過ぎる。
もともと好みの声というのもあるのだけど、九十九の声は本当に甘いのだ。
それこそ脳の溶かしてしまうほどに。
でも、わたしの声はそうじゃない。
ワカや水尾先輩は可愛いって言ってくれるけど、九十九から声が可愛いとは一度も言われたことはないのだ。
「オレの中で、『ハニートラップ』は色仕掛けで騙すことだ。そして、オレは声だけで簡単に騙されるとは思っていない」
「それは人によるんじゃないかな?」
騙されるかどうかはともかく、声だけでも骨抜きにされてしまう可能性はあると思っている。
世の中にはそんな声だってあることをわたしは知った。
「要は聴覚情報だけで興奮させるってことだろ?」
「興奮って……」
間違ってはないのだろうけど、そんな言い方をされるとちょっと複雑な気分になるのは何故だろうか?
「ちょっと耳貸せ」
「へ?」
何故、わたしはこの話題で深く考えなかったのだろうか?
九十九の言うことに対して、あまり疑問を持たずに従ってしまうのは、わたしの悪い癖だと思う。
だが、全ては後の祭り。
わたしは自分の耳を九十九に向けてしまったのだから。
『栞は可愛いよ』
「ほぎょっ!?」
わたしの耳に手を当てて、そんな甘い声で囁かれたため、思わず、奇声を上げて後ろに飛び去った。
「単純に、お前は耳が弱いってだけじゃないのか?」
先ほどの甘い声が幻だったかのようにいつもの九十九の声が聞こえるが、今のわたしはそれどころではなかった。
「そうかもしれないけど……」
まだ心臓がバクバク言っているために、押さえつけるしかなかった。
顔だって赤いだろう。
でも、これは耳が弱いとかそんな話じゃないと思う。
先ほどの声にはモレナさまの「ハニトラ」のように熱は籠っていなかったと思う。
それでも、甘さはあった。
叫んでこの場から逃げ出したくなるぐらいに。
「九十九だって、一度ぐらい、誰かの声で心臓が飛び出しかけたことはあるんじゃない?」
ああ、違う!!
これでは、わたしが九十九の声でかなり動揺するって自白しているようなものだ。
「声で……? まあ、なくはないけど、それは状況とか相手とかによるだろ? 誰でも良いわけじゃねえからな」
だが、そんなわたしの動揺に気付かず、九十九はそう答えてくれた。
わたしだって誰でも良いわけじゃない。
だけど、それ以上に、九十九の発言の方が気になった。
「なくはない?」
それって、状況や相手によっては九十九だって、誰かの言葉にトキメキを覚えたことがあるってことではないだろうか?
それはいつ?
どこで?
誰に対して?
「お前の言動にはいつも心臓が飛び出る思いだよ」
「そっち!?」
つまりわたしの言動は九十九にとって心臓に負担がかかるものらしい。
でも、わたしが言っているのはそういう意味ではなくて!!
「それ以外で動悸が激しくなるのは、ああ、兄貴の脅しとかもそうだな」
さらに追加で出された例えの酷さ。
「それは『ハニトラ』とは言わないと思う」
「奇遇だな。オレもそう思う」
そんな言葉を、無駄に良い声と笑顔でそう言われてしまった。
ぐぬぬぬぬ……。
どうしたら、九十九に伝わる?
視覚情報だけでなく、この聴覚情報の凶悪さというものが。
わたしは目を閉じていても、この攻撃にやられる自信はあるのだ。
最初に言われたように、九十九に向かってわたしが甘い言葉を囁いてみる?
いやいやいや、無理だ。
これは、相手が自分の声に魅力を覚えないとかなり難しい。
魅力のない声で囁かれても、トキメけるはずもないのだ。
「ぐぬぬぬ……」
「どうした? 中ボス」
また中ボスって言われるし!!
「まあ、試しに甘い声を出してみろよ」
完全に揶揄われているのが分かる。
わたしの声で甘い声はともかく、甘い言葉ならなんとかなる気がする。
でも、少女漫画で定番の、「好き」とか「愛している」は何か違う。
それは告白であって、甘い言葉ではないのだ。
いや、意外と男心を突く方が良いかもしれない。
九十九はわたしに慣れているだけで、異性慣れしているわけではないのだ。
それならば殿方の本能を刺激する言葉の方が良い気がした。
本当の意味でのハニートラップだ。
だが、わたしの言葉で九十九に通じるかはちょっとした賭けに近いものがある。
九十九はわたしのことを女性として見てくれていたことは、一応、「発情期」の時に理解した。
少なくとも、どうしようもなく欲求不満が溜まりすぎてどうしようもなくなった時は、「抱きたい」と思える程度の存在ではあったらしい。
だけど、普段の言動からはそれが分からないのだ。
ぐぬぅ!!
少し考えて……。
「九十九、お耳を拝借して良い?」
「おお」
分かりやすく、余裕のある笑み。
それを崩してくれよう。
できるだけ、甘い声、甘い声……。
近付けられた九十九の耳に向かって、手を当てて、囁くようにこう口にする。
『今日は九十九と一緒に寝たいけど、駄目?』
どうだ!?
深読みできる言葉且つ、嘘は言ってない。
九十九と一緒なら、落ち着いて眠れる気がするし、何より、夢からの侵入者防止にもなるのだ!
さらに、できるだけ甘えたような声で、「駄目 」まで付けてみた。
本当なら、首にしがみ付いたりした方が効果的だとも思うけれど、胸の無い人間が引っ付いても空しいし、何より、今回は声だけの効果を計るものだ。
接触するのはズルいだろう。
だけど……、何の反応もなかった。
「あれ?」
結構、頑張ったのに、まさかの無反応!?
いやいや、もしかしたら、目じりとか口元とか、鼻の下ぐらいにはちょっと変化があるかも?
そう思って、そのまま九十九の耳から手を離して、その顔を覗き見ると、目に入ったのは想像以上に不機嫌そうな顔だった。
どうやら、通じなかったらしい。
「うぬう……」
九十九はやはり手強かった。
いや、この場合、わたしに色気が足りないだけか。
もう少し精進しなければならないらしい。
「いっそ、雄也に教えを乞うべきか」
雄也さんなら殿方のツボも心得ていることだろう。
さらには、九十九の弱点も知っている気がする。
そう思って、わたしが呟くと……。
「それは止めろ」
ようやく、九十九から反応があった。
「それより、今のはなんだ?」
「へ? 今のって……、一応、わたしなりの『ハニトラ』?」
残念ながら、全く通じなかったけれど。
「ああ、『ハニトラ』だったな。ああ、そう言う……」
九十九は頭を下げる。
「なかなか言葉だけで相手の心を揺らすって難しいんだね」
そう考えると九十九の声って卑怯なぐらいの威力があるんだと実感する。
「確かにお前を煽ったオレが悪いことは認めるが、オレ以外の男には、ぜ~~~~ったいに、言うなよ?」
肩を掴まれて念押しまでされた。
「ぬ? それって、少しは効果ありってこと?」
「密室で二人っきりの状況であんな台詞を聞かされたら、オレ以外の男なら迷わず襲い掛かるわ!!」
九十九が赤い顔を上げたが、この場合の赤さは怒りとかそういう意味の興奮状態だ。
わたしが望んだ方向性ではない。
「九十九に通じなければ意味がないんだけど……」
もともとそう言う話だったよね?
「オレが襲い掛かれば満足ってことか?」
「それなら、『ハニトラ』としては大成功じゃない? 九十九に対して言葉だけで誘惑できたってことでしょう?」
わたしがそう答えると、さらに、九十九は下を向く。
「もう、お前は金輪際、『ハニトラ』に該当する言動を行うな。危険すぎる」
「もともと誰かにする気はないんだけど……」
今回のことだって、九十九が声だけの「ハニトラ」は認めないようなことを言ったからだ。
普段なら、そんなことを誰かに仕掛けるようなことはしない。
九十九が言うように危険なのは分かっているから。
それに……。
「さっきの台詞も九十九以外の殿方には言う気はないからね」
彼以外に言って良い言葉ではないことぐらい、わたしにだって分かっているのだ。
「そうしてくれ。頼むから」
九十九はわたしの肩を掴んだまま、そう言った。
「でも、もうちょっと九十九の顔色を変えられると思ったんだけどな~」
それが悔しい。
わたしでは魅力が足りないってことだから。
「そう言えば、『盲いた占術師』からはなんて言葉で責められたんだ?」
九十九がそのまま顔を上げた。
肩を掴まれるほどの至近距離で、九十九と目が合う。
「な、なんて……」
あの時の言葉は確か……。
「名前を、呼ばれただけ」
「あ?」
「すっごく、好みの声の殿方から、自分の名前を呼ばれただけで、『魔気の護り』が発動しちゃったんだよ!!」
ううっ!!
これはかなり恥ずかしい。
名前を呼ばれただけで動揺するとか、それだけ聞くと、どこまでわたしはチョロい女なのか?
しかも、その声の持ち主は今、目の前にいる男なのだから救えない。
「それは、どんな声だ?」
さらに、追求してきた!?
「良い声だよ。好みはあるかもしれないけど、あの声で口説かれたら、大半の女性は惑わされるんじゃないかな?」
普段の言動が残念だけど、少なくともワカは九十九の声を「甘くてホスト向き」だと言っているぐらいだ。
それに、水尾先輩も九十九の声で顔を赤らめることがある。
つまり、彼の声は、わたし以外の他の女性にも有効ってことだ。
「兄貴みたいな声……か?」
「ああ、確かに雄也によく似てたよ」
実際、彼らは声質が似ている。
それは、兄弟だからだろう。
そして、明らかに雄也さんは甘い声だと思う。
でも、九十九は兄である雄也さんの声を「良い声」と思っているのか。
それなら兄弟である自分も……、とは思わないんだろうね。
目の前で考え込んでいる九十九の顔を見ながら、なんとなく、わたしはそう思ったのだった。




