王妃殿下と王子殿下
「お呼びでしょうか、王妃殿下」
「…………」
部屋に来た彼がそう口にしても、肝心の王妃は窓を見つめたまま、黙っていた。
彼女が彼を私室に呼び出すなんてここ最近はなかった話だ。
だが、呼び出した当人が一言も口を開こうともせず、口を結んだままだというのは奇妙な話でもあった。
「王妃殿下?」
そう尋ねても反応はないままだ。
まるで王妃は、誰もこの場にいないかのように彼を無視をしている。
そして、呼ばれた理由が分からないことに対して彼は少しずつ苛立ちを覚えていた。
元々、彼は気が長い方ではないのだ。
さらに相手が王妃という立場であっても、それを理由に全てを我慢できるほど、彼はまだ大人でもなかった。
「用がないのなら、私は下がらせていただきます」
あまりにも長く続く沈黙に耐えかねて、苛立ちをかくさないまま彼はそう口にする。
実際は、人間界の時間感覚にして僅か5分にも満たなかったのだが、彼にとっては十分長い時間だった。
彼は一礼して王妃に背を向ける。
「待て」
そこまでしてようやく、王妃が言葉を発した。
そのことに少し安堵をしつつ、再び彼は王妃に向き直る。
「お前は先日連れてきたあの娘を、どこで拾ってきた?」
窓を見つめたまま、王妃はそう息子である王子に顔を向けずに問いかける。
彼は質問の意味を理解はした。
しかし、それが、何故、数日経過した今なのかが分からない。
普通なら、当日にでも尋ねるべきではないのか? と思う。
「城下の森……。グレースの水浴び場近くですよ」
特に嘘を言う必要もないので、そのまま答えた。
父である王に与えられた城下の森にある水場。
感覚を狂わすという森も、天馬がいるため、迷うことはない。
そこで数日前に、彼は一人の少女と出会ったのだ。
「グレースの……?」
王妃が眉を顰めた姿が、磨かれた窓に映る。
その理由までは分からないが、この王妃はあの天馬を酷く苦手としていた。
「はい。私がいつものようにグレースの身体を洗っていた時に、あの娘は突然、あの場に現れたのです」
彼はゆっくりとあの日のことを思い出していく。
亜麻色の髪に紫水晶を思わせる不思議な瞳を持った少女のことを。
決して美しいわけではない。
あの程度の容姿は城に掃いて捨てるほどいる。
だが、不思議と目を引き寄せられる娘だった。
もし、「聖女」と呼ばれた女性が現在の世に転生したのなら、幼き日はあんな様相だったのではないかと錯覚してしまうほどに。
何故そう思ったのかは自分でもよく分からないが、その時は、本気で聖女の転生だと思い込んでしまうほどだった。
あれは運命の出会いだったと。
「城下の森……」
城下の森、天馬を連れた王子、そこで出会った見慣れぬ娘……。
それらは王妃にとって、気に食わない要素を多々含んでいた。
まるで20年程前に起きた彼女にとって忌むべき出来事にひどく似通い過ぎていて、まるで、何者かによってそれらが全て仕組まれていたのではないかとさえ思える。
尤も、あの時代のことをそこまで正確に覚えているものなど、そう多くはないだろうが。
「その娘……名は……?」
「確か、ラケシスと名乗りました」
「……サードネームは?」
「……この国では聞き覚えがなかったですね。他国出身と言っていましたし」
隠すほどのことでもないので、王子は素直に答えていく。
数日前、王妃と話した黒髪の男も同じようなことを言っていた。
詳しくは王子に聞け、とも。
だが、改めて王子と話すことで、少しずつ嫌な予感が胸中に広がっていくのを王妃は感じていた。
いや、正しくは、予感が確信に変わっていくとでも言うべきか。
ここ数日、ずっと引っかかっていたのだ。
あの日、王子といた時はそこまで気にならなかった娘が、あの黒髪の青年の横に自然と並んでいた時、何かがカチリとはまった気がした。
「まだ私の前に立とうというのか……」
「王妃殿下? どういうことですか?」
突然、そんなことを言い出す王妃の言葉の意味が分からず、王子は尋ねる。
「あの娘……、『チトセ』の面影があった……」
「は?」
不意に王妃が口にしたその名前に、王子自身も聞き覚えはあった。
そして、その女の娘とも面識があることを否定しない。
だが、昔会ったその娘と、数日前に出会って少なからず心惹かれた少女との雰囲気は随分違ったように思える。
ユーヤの協力の下、黒髪、黒い瞳にした時も、その可能性に思い至らないほどに。
「い、いや、似ておりませんでしたよ?」
王子は慌てて王妃の言葉を否定する。
いくら疑い深いとは言え、ここまでくると妄想がすぎるとも思った。
「見目などいくらでも変えることはできる。魔法など使わずともな」
「しかし、あの母子はこの国から出た後、いくら探しても見つからなかったではありませんか」
王子の言う通り、あの母娘はある日突然、この国から姿を消したのだ。
この城の「転移門」を使った気配はあったのに、それ以後、この世界のどこを探しても見つけ出すことはできなかった。
かの情報国家の力まで借りたのにも関わらず、出た結論は、「この世界ではその母娘の生存が確認できない」ということだった。
「ユーヤに確認すれば良い。チトセに可愛がられていたあの男なら、本当に何も知らぬはずがない」
そんな王子の言葉を聞かず、王妃は淡々と口にする。
「あのユーヤを……、ここまで我らに尽くしてくれた男を疑いますか?」
「元より信じてはおらぬ。あの男は感情を殺し、目的のために手段を選ばぬ男だ。私情を挟まず、私らに取り入り、仕える振りぐらいはできよう」
王妃の脳裏に黒髪の青年の姿が浮かび上がる。
見目は良いが、可愛げのない男。
「あの娘が……、あの女の……? い、いえ、やはりそれはありえません!」
思いのほか強く反論する王子に王妃はようやく、顔を向ける。
「ほう、何故じゃ?」
「あの娘からは魔気が……、ほとんど感じられませんでした。一般としても微量としか言いようがないほどに……」
あの娘から魔気と呼ばれるものを感じていたら、王子も警戒をしていたことだろう。
だが、あの娘からは申し訳程度とすら言い難いほど微弱な魔力の気配しか感じなかったのだ。
「魔気が……? しかし、それらも誤魔化しようがあるではないか。意識的に抑え続けることも可能だ」
「5歳にして私を凌駕していたほどの魔気を、一般以下に落とすほど完璧に押さえ込めると思いますか?」
普通に考えて魔力を封印したとしても、その気配が多少感じられるはずだ。
大きい魔力を封印するほど、それに対抗する使い手の魔力までは消しきるのが難しい。
しかし、あの少女からはそんな気配もなかった。
「ふむ……。確かに魔気については実際会ったお前の方が、確かだな。ならば、やはりユーヤを呼び、確認するが良い。母とともにあの娘も死んだと思っていたが、生きていたなら都合が良い」
あくまで持論を曲げようとしない王妃に思わず王子は肩をすくめる。
「仮にあの女の娘なら、放っておけば良いではありませんか。それに、あの娘を城に呼ぶことは国王陛下すら許しはしなかった。つまり……」
「ダルエスラーム……。お前はいくつになった?」
王子の声を遮り、王妃は問いかける。
「は? 今年、16歳になったばかりですが?」
仕方なく王子も答えた。
城内だけで祝われた生誕の儀。
それは先月のことだ。
それを忘れるほど、王妃は耄碌してしまったのだろうか?
「あの娘がチトセの娘なら……、丁度いい。お前が娶れ。外見は幼く見えたが、確かお前の一つ下だったはず。良い頃合ではないか」
「はあ!? ご冗談を!!」
考えていたものとはまったく別の言葉が出てきて、王子は思わず声を荒げてしまった。
「冗談ではない。私は本気だ」
それは狂気にも似た声色。
「王妃殿下……。よりによって何故、そのようなことを……。あの娘が、ラケシスが本当に貴女のおっしゃるとおり、あの女の娘なら私は固辞しますよ!」
「これは頼みではなく、命令だ」
「だから、何故!?」
「王族にここまで女がいなくなるのは予想外だった」
確かにこの国は女性王族が少ない。
王子と同じ年代に限ればほとんどいないも同然だった。
「だからと言って、忌むべき相手を……私の妃にするつもりはありません! それに当事者たちも含めて誰一人として国王の娘だと認めていなかったではありませんか!」
普通に考えれば、正妃から産まれていなくても、国王の血を引いているのなら隠す必要はないはずだ。
どこの国でも、王族は多いほど、国にとっては都合が良い。
特に、純血を重視するこの国ならば尚のことだ。
だから、国王の血を引く娘ならそれを誤魔化そうというのは意味のない考え方だと王子は思っていた。
公式的に身分は高いほうが良いし、周りから敬われ、不自由のない暮らしも得られるからだ。
「……アレは陛下の娘だ。そこは私にとっても口惜しいが、認めるほかない」
王子の言葉に……、王妃は苦虫を噛み潰すかのような顔でそう答えたのだった。
次話は本日22時更新です。
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