周囲の空気が変わった
単純に好奇心に勝てなかった。
そう言わざるを得ない。
特に、自分は弟ほど、あの主人が「神力」を行使する場面に立ち会うことも少なかったというのもある。
自身の想いを自覚した辺りから、鬱陶しいほど張り付くようになったあの弟は、自覚前からも傍にいる機会があったために、主人が「神力」を行使する姿を何度も拝んでいるのだ。
それに対して、思うところがなかったわけでもない。
そのために……。
「ここで、歌わせてください」
そう言った彼女の申し出を、俺は断ることができなかった。
これまでの経験から彼女が歌うことで、リスクがあることは予想できたのだ。
だから、反対する気持ちの方がずっと強かったのに。
何が起きるか知りたい気持ちは否定しないが、自分の想像を超える事態になる可能性が否定できない状況で、博打に出る理由はなかった。
だが……。
「わたし、やられっぱなしは嫌なんですよ」
自分が身に着けていた装飾品を強く握りしめ、見た目よりもずっと負けん気の強い彼女が、楽しそうに笑いながらそう言うのだから、従者としては素直に従うしかなかった。
神官最高位である大神官特製の「御守り」まで外すつもりはなかったことも、逆に、気が緩んだ原因ではあったのだろう。
「それに、脱出先に罠を仕掛けるのはある意味、常套手段でしょう?」
一見、無害そうな主人は、時として、弟以上に冷静で、そして、相手が嫌がることを考えることができる人間だ。
いや、その点においては、弟が未熟なだけか。
「そちらについては、対策を考えたんだが……」
仕掛けるなら、出入口か、その手前だろう。
この場所から無事に出られるという安心感の中で、人間の気が緩む瞬間が、最大の隙となる。
それに備えて、いくつかの法具を準備している。
魔法具では対応できないはずだ。
相手が、俺の考えている人物なら。
「それと歌の関係は?」
「相手は法力か神力を持った人です」
主人はきっぱりと言い切った。
その強い瞳は、何らかの根拠を持ってそう言っている。
俺よりもずっと少ない情報の中で、彼女は、俺に近い答えを出していた。
「多分……、神力だよ」
「ほへ?」
弟が出会った占術師。
その特徴や、言動から、ある人物が思い浮かんでいた。
本来、こんな場所にいるはずのない占術師。
だから、弟に接触し、言葉を告げて終わりという単純な話だけで、このまま幕を下ろしてくれるとは思えなかった。
あの占術師が表舞台に関わる時は、世界にとって何らかの意味がある時。
未来を見通す相手に対して、凡人な俺如きが太刀打ちできるとは思えないが、それでも、使える札は切っておくべきかもしれない。
「栞ちゃんが歌うことで、変えられそう?」
「それは分かりません」
彼女は素直にそう言った。
自分でも何が起こるか予測できないのだろう。
それでも、主人が自分から申し出たことが無意味だと思えないし、そこに何らかの意味を持たせたいとも思う。
尤も、それすらも占術師の手の上で踊らされているだけかもしれないが、それでも、無変化だとは思えなかった。
「面白そうだから、お願いできる?」
俺がそう答えると、彼女は嬉しそうに笑った。
「頑張ります!!」
自分の仕えるべき主人が、こんな素直な反応を見ると、応援したくなるのは俺だけではないだろう。
弟がその先鋒だ。
勿論、単なる根性論だけで厄介な事態が終わるわけでも、変わるわけでもないのだが、彼女は気合や根性、努力以上の素質を持っている。
―――― 運命を切り開く力
自分なりに思考し、一見、無謀な言動でも、それが事態を打開することに繋がることが多い。
それに頼り過ぎてはいけないが、良くも悪くも、月並みな人間以上の結果を出すことは間違いないだろう。
我が主人は、中心国の王族にして、大神官すら認める聖女の素質を持つ女性。
その輝かんばかりの能力と存在は、力のある者ほど強く魅了する。
「それでは行きます!」
力強くそういう彼女の更なる輝きに、目が眩みそうになる。
そして目を閉じ、大きく息を吸うと、周囲の空気が変わった気がした。
大気魔気の変化とも違うソレは、自分の中に確かな予感を告げている。
だが、思考が纏まるよりも先に、主人は歌い出してしまった。
この歌は、ストレリチア城に滞在していた時に何度も耳にしている。
大聖堂で正午に歌われる3つの聖歌の内の一つ「我らに大いなる喜びを」。
―――― 我らが神よ
―――― 我が祈りをお聞き届けください
この時点で、分かりやすい変化があった。
主人の身体が光っていたのだ。
その橙色の光に見覚えがあり、俺は自分の全身に震えが走ったことが分かった。
あれは確か、大聖堂だった。
あの後……、確か……。
―――― 人は誰もが罪へと誘われる
少しずつ記憶が繋がっていく。
今、歌われているのが「聖歌」ということも大きいだろう。
その歌は、大聖堂を思い出す。
―――― 赤罪、橙罪、黄罪、緑罪、青罪、藍罪、紫罪
聖女は人間の罪を謡う。
―――― 七つの色に七つの罪
まるで、神の意思を謳うかのように。
―――― その輝ける御羽を持って
―――― 人が背負いし罪状を解き放て
その瞬間に、主人が信じられないほど輝いた。
「栞ちゃん!!」
思わず、叫んだが、既に遅い。
一瞬にして、橙色の光は、主人の身体から抜け、そのまま書棚へと向かう。
「待て!!」
だが、そんな俺の制止の声など、橙色の光に届くはずもない。
そして、主人の身体から力が抜け、そのまま、頽れる瞬間を目にする。
「くっ!!」
だが、その身体を冷たい床になど着けられるはずもない。
なんとか、手を伸ばしてその身体を抱き寄せ、ゾッとした。
体温はあるが、いつもよりも確実に低い。
体感で……、確実に35℃以下だ。
低体温症と呼ばれる状態であるが、彼女自身の肉体に軽度の低体温症にあるはずの震えが起こっていない。
本来は、急激に体温が下がると、体温の低下を防ぐために、体温調節性シバリングと呼ばれる熱生産が生じるはずだが、その気配は全くなかった。
それは、体温調節が働いていないと言うことになる。
思わず、そのまま体温保持のために主人の身体を抱き締めた。
確か、低体温症では温めることが大事だが、急激に温めると心臓に負担がかかったと記憶している。
下手に熱系の魔法を使うことはできない。
毛布を召喚し、そのまま自分ごと包まった。
微かに感じる体温はこれ以上、奪われる様子はなく、生きていることは間違いないが、その全身からは力が抜け落ち、手足の筋肉も完全に弛緩している。
呼吸もかなり弱い。
そして、この症状に見覚えがあった。
―――― 聖霊界と世界を繋ぐ線は現世での縁
そんな声が蘇る。
それは、この世界で最も神に対する知識が深い人間の言葉。
同時に、確信する。
先ほどの現象によって、この身体から魂が抜け出てしまったのだと。
あれは、大聖堂でのことだった。
主人が魔力の封印を解放する前に、一度、大神官の手によって、仮死状態に陥ったことがある。
あの時の状態によく似ていた。
―――― 生命力に溢れた縁が深い人間の身体接触が一番なのです
深く考えるよりも先に、できる限り、彼女の身体に自分の身体を押し付ける。
彼女の目が覚めた後のことなど、今は考えられない。
いや、目が覚めてくれるなら、それだけで十分だ。
お叱りは存分に受けよう。
だから、このまま、置いて行くな!!
あの時は、魔法国家の王女殿下が彼女を抱き締め、俺と弟が縁を繋いだ。
何より、仕掛け人は大神官であり、その状態の維持も管理も、責任をもって行ってくれたのだ。
だから、俺たちはその指示に従うだけで良かった。
だが、今は俺だけだ。
俺だけの縁で、どれだけ繋いでいられる?
―――― 他人の前で栞さんの身体に深く接触は難しいでしょう?
それは、触れている表面積の話だと言った。
床に自分の身体を横たえ、その上に脱力している主人の身体を乗せ、できる限り、接する部分を広げる。
他人に見られたら確実に誤解される状態ではある。
だが、幸いにして、この場には誰もいない。
仕掛けた相手は覗き視ているかもしれないが、どうせ、俺のこの行動すらも計算のうちだろう。
話には聞いたことがあったが、随分、いい性格をされているようだ。
―――― 縁を繋ぐのは血が繋がった人間が一番ええんやろうけど
あの場にいた精霊遣いの王子殿下の声も思い出す。
幸いにして、少し前に俺は彼女の「嘗血」を行っている。
だから、「血が繋がった人間」ほど深い繋がりはなくても、全くの他人ほど浅い繋がりでもなくなった。
そのためか、こんな状況だというのに、あの時ほど絶望に近い気持ちにもなっていない。
確かに、今、この主人の魂はこの身体から抜け出ているようだが、完全に抜けてしまったわけでもないと感じている。
あの時と同じだ。
大神官と同じように、何らかの力でこの主人は仮死状態になっている。
だが、「血が繋がった人間」ほど深い繋がりはなくても、俺よりも彼女と根深く深い縁を持った人間が一人いる。
恐らく、「血が繋がった人間」に匹敵するほどの深い繋がり。
それだけは、今更、俺にはどうすることもできないのだけど……。
「クソ兄貴~~~~~~~~~~~~っ!!」
そんな場違いな声が周囲から聞こえるまでは、そのことを忘れていたかった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました




