今後の方向性
「いえ……、まさかこんなことになるとは思ってなかったので……。緊急時には国内の親戚を頼るとしか考えていませんでした」
千歳に行く宛を聞かれて、水尾は困ったように答える。
「まあ、一般的な魔界人は普通、そうだよな……。国を出るなんてあまり考えていないですよね」
九十九も、その事情としては理解できなくはない。
「そうなんだ。人間界みたいにあちこちってわけにはいかないんだね」
呑気な栞の言葉に九十九は眉を顰める。
「あのな~、人間界でも個人で国外にあちこちツテがあるような人間はそう多くないだろ? お前、単純に市区町村や、精々、都道府県規模で考えてないか?」
「あ、そうか……。国単位の話なんだ……」
九十九の分かりやすい例に、ようやく事の大きさを理解する栞。
「ただ……、申し訳ないのだけど、こちらもこのままここにいていいわよ……とは言えないのよ。私たちも近々移動をしなければならないだろうし」
「え? そうなの?」
すまなそうに言う千歳に、栞が反応する。
その言葉で、千歳は笑顔のまま愛娘の頭を掴み、そのこめかみ部分を拳でぐりぐりと押さえ始める。
「いたたたたたっ!!」
その痛みに栞は思わず悲鳴を上げるが、それを助けようとする人間はこの場にはいなかった。
「お前は阿呆か? 今まで何を聞いてたんだよ。ここは仮住まいで、いずれは国を出なければならないって言ってただろ。だから、オレが毎日のように日持ちして栄養価の高い保存食を作ってるんだろうが」
九十九はそんな母娘の様子を溜息混じりに見ながらそう言う。
どうやら彼も母のその行動を止める気もないらしい。
護衛の仕事はどうした? と栞は叫びたかったが、この場合、自分が悪いことも分かっているので、余計なことは言わないでおく。
「分かった! 思い出した! そういうことだった!!」
わたわたとしながら、悲鳴混じりに言う栞。
「少年御手製の栄養価の高い保存食……じゃなかった! 大丈夫です。なんとかなりますから」
ごくりと唾を飲みながら、水尾は答える。
「甘いわね。世間を知らない貴族の女の子がこの広い世界で当てもないまま生活なんてよほど運が良くないと無理よ」
かつて、同じような境遇だった千歳は娘から手を離しながら、スパッと切り捨てるような台詞を吐いた。
彼女は知っている。
あの日、あの時、偶然の出会いによって、運良く助けてもらわなければ、魔法も知らなかった自分がこの世界で生きていくことなどできなかったことを。
「真面目な話、水尾さんは生活力とその手段がありますか? ストレートに言わせてもらうと、金がなければ何一つとしてできないのは魔界も人間界も同じ事ぐらいは知っているでしょう?」
九十九も鋭い目で水尾を射抜く。
彼も覚えている。
あの日、あの時、偶然の出会いによって、ここにいる母娘に救われなければ、兄とともにこの世界で生きていけたかは怪しいことぐらい。
今なら多少は大丈夫だろうが、当時、自分は3歳で、兄もまだ5歳の幼児だった。
いくらなんでも2人で生きていくには幼すぎただろう。
確かにこの世界には魔法という便利なものがある。
しかし、それは能力の一つに過ぎず、使えたからと言って喉を潤すことができても、それだけで腹が膨れることはない。
町の外にでて魔獣などを倒したり、植物を採集すれば腹の足しにできるかもしれないが、多少の知識があっても、この世界の料理は専門的な技術がいるのだ。
教えてくれる人間がいて、それなりの道具を揃えていても、栞は苦戦している。
何もないような状況で、飢えを満たすことはできるとは思えなかった。
そして、この世界であまり旅が推奨されないのはこの部分にあるのだ。
各国を旅する行商人たちも、自身が料理の腕がなければできる限り、村に立ち寄って料理を提供してくれる場所を探す。
そのためか、旅行者は少ないながらも、どこの辺境の村や僻地であっても、それなりに宿場は充実していた。
宿がなくても、最低限、料理を提供できる場所があれば、行商人は必ず立ち寄ってくれる。
この世界では、埋没しないためにも料理の技術は必要なものである。
料理ができなければ、他の人間に頼むしか無い。
しかし、それは当然ながら無料提供はされないだろう。
それなりの対価が……、一番、分かりやすいのは、九十九が言うとおり、金銭が必要なのである。
「それは…………」
水尾は言葉に詰まる。
ここで、胸を張って大丈夫だと断言できるほどのものが自分にないことぐらいは分かっているのだ。
今まで、どれだけ周りに護られて生活してきたことも。
「じゃあ、国を出る時にわたしたちと一緒に来れば良いんじゃないですか?」
「「「は? 」」」
栞が側頭部を両手で挟むように押さえながらした提案に、3人は口をそろえて疑問符を飛ばす。
だが、そんなことは気にせず彼女は続けた。
「水尾先輩は特に行き先がないんでしょう? そして、わたしたちはここから移動するしかない。それなら、一緒に行けば解決! って話にはならない?」
栞は九十九に向かって言う。
そして、彼女はこれからの経験から理解していた。
この中で一番、崩しやす……もとい、説得しやすいのは彼だと。
自分の母親には始めから勝てる気がしない。
この先輩は一度決めたことを簡単に変えることはしない。
つまり単純な消去法ではあるのだが。
「アホか! そう簡単に決められるかよ。移動する際に人一人増えることの負担がどれだけ大きいか、想像もできんのか?」
それでも、九十九だって簡単には頷かないことは、栞にも分かっている。
だから、提案理由を重ねていくしかない。
「ん~、でも、わたしは魔法が使えず、水尾先輩は魔法が使える。それも心構えができてない状態で、いきなり一度に数人相手できるほどって強いわけでしょ? それなら、使い手が多い方が助かるんじゃない?」
自分にできないことをできる人がいる。
それだけでも随分、違うだろう。
「……まあ、アリッサム出身なら、栞ほど極端な足手まといにはならないでしょうね」
栞の言葉を受けて、意外なところから援軍が出た。
その台詞に栞は、一瞬、顔を顰めたが、状況が変わりそうなのに余計なことを言う気はないようだ。
「ち、千歳さん?」
困ったのは九十九だ。
この2人が揃って推し進めれば、自分に拒否権はないことはよく分かっている。
「い、いや……、そこまで世話になるわけには……」
それでも、水尾が慌てて、当事者である自分を置いてきぼりのまま、進みそうになる話を止めようとする。
「知っている顔が次の日、城下の隅で冷たくなっているのは寝覚めが悪いもの」
「ぐっ!」
笑顔で黒いことを言う千歳に、水尾は言葉に詰まった。
そして、その可能性は決して低くはないのだ。
巨大な魔法がどんなに使えたところで、生活するための能力はまた別の話なのである。
「えっと……、一応、オレから提案しますけど、聖堂の保護は?」
九十九はできるだけ別の提案を出してみる。
彼は、確かに命を助けはしたが、さらに今後の面倒をみることになることまでは考えていなかった。
「聖堂は確かに迷い子の保護……、手助けはしてくれるけど……、水尾さんの年齢や健康状態から考えると、ちょっと庇護の対象からは外れると思うわ」
千歳はそう答える。
そして、九十九もそれは分かっていた。
「結論が出ないなら、雄也先輩に判断を委ねますか?」
栞もそんな提案してみると……。
「ぐぇ……」
水尾が心底嫌そうな声を出した。
「兄貴も……流石に反対すると思うぞ……」
約束どおり、無言を貫く通信珠の方向を見ながら、九十九はそう言う。
だが、彼はよく分かっていた。
兄は、この母娘に酷く甘いということを。
彼女たちが本気で懇願したら、絶対に兄は首を横に振ることはできないのだ。
「そうかしら? 雄也くんは女の子が困っている時に見捨てるとは思えないけれど……」
そう言った方向からの理由でも妙に納得してしまう。
この場で兄が秤にかけるならば、間違いなく自分が一番軽くなってしまうことも、九十九は嫌というほど理解できていた。
「……それでも、一日、二日の保護とは訳が違うんですよ?」
それでも、九十九には反対しなければならない理由があった。
彼に情がないわけではない。
千歳の言う通り、見知った人間が物言わぬ状態になっていれば、多少なりとも動揺してしまう程度の感情はある。
そして、明らかにこの水尾自身に自活能力はないことも理解している。
彼のように、生き残るための知識を詰め込まれたようにも見えないのだ。
これまで話を聞いた限り、彼女はアリッサムの貴族だ。
それならば、他大陸の見知らぬ国で、路銀を稼ぐ方法も知らないだろう。
男なら例え騙されても、身包みを剥がされた上で殺されるぐらいで済むが、これだけ整った見た目の女性ならば、それだけでは済まないことは、想像に難くない。
多少、魔法に自信があっても、魔法力は尽きてしまえば終わりなのだ。
それまでの抵抗が激しければ激しいほど、その魔法力が尽きた後、凄惨な目に遭うことは避けられないだろう。
それを思えば、確かに栞の案は悪くないように思える。
何より、栞も気を許しているような人間だ。
相手の素性がはっきりと分からなくても、敵対されなければ良いし、栞を護る人間が増えてくれるのはありがたくもある。
だが、それらを差し引いても大きすぎる問題があった。
それは、簡単に退くわけにはいかないほど重要な事情。
だからこそ、九十九はその主張をしておかねばならなかった。
それを解決しないことには、簡単に承諾できない。
栞や千歳から非情と思われようと。
兄から度量が狭いと言われようと。
それが、今後の生活のためだと信じて!
ここまでお読みいただきありがとうございました。




