本当に反則だった
「だから、俺は排除しろと言ったのに……」
兄貴は報告書を見ながら溜息を吐いた。
「栞自身が交流を持ちたいと判断したから仕方ねえだろ?」
尤も、栞の感覚では、あの女は中学時代の後輩でしかない。
だから、その性格上、自分への言動に対して当人すらどうにもできない理由が存在していると知れば、完全に突き放すという選択肢がなかったことは分かる。
だが、まさか、あれだけの異常性を目にして、受け入れる方向性に転がるなんてオレに予想できたはずがない。
どこまで甘い人間なんだ?
過去の話とは言え、自分を傷つけるような歪んだ愛情表現をする女だぞ?
できれば、全力で逃走を図りたいもんじゃねえか?
そして、兄貴やオレからすれば、あの女にはあまり関わらせたくはなかった。
性格の問題ではなく、立場上の問題だ。
その地域の有力者の身内に繋がりを持つことは止めないが、深入りすることで新たな厄介ごとを引き起こす可能性は否定できない。
「まあ、この点に関しては、お前よりも件の女性の方が一枚上手だったと言えるか」
「うるせえ」
あの栞の後輩は、栞と会うために、自分の息子を使ったのだ。
乳児期の我が子を前にして、その手本となるべき母親が、声を荒げたり恥ずかしい行動をとることなどできないと戒めるために。
その目論見は、当人の思わぬ方向で大成功してしまった。
まさか、栞があそこまで子供好きだとは、オレも思っていなかったのだ。
いや、大聖堂の「教護の間」で、孤児たちに接する姿は何度も見ていたから、子供好きだということは知っていた。
だが、無関心を貫いていたように見えた栞が、あのガキを見て、あんなに全てを許せるほどの寛容さを前面に出すなんて思いもしなかったし、あのガキを抱いている姿なんて、若宮じゃなくてもカメラを欲する場面だった。
なんだよ、アレ。
本当に反則だったよ。
いつもは可愛い栞が、本当に綺麗だったんだ。
あんな表情をいつもしていたら、「神力」を行使しなくても、「聖女」だって思い込むヤツは絶対にいると確信してしまうほどに。
しかも、そのガキを抱っこして、身体を撫でながらの「聖歌」。
口を阿呆のように開けないでいるのに必死だった。
綺麗で、神秘的で、アレに心を奪われない人間がいるか?
人除けや栞の魔力対策のために事前に結界を張っておかなければ、確実に囲まれていたことだろう。
どこの宗教画の題材だよ?
そして、それを自然にやっておきながら、当人は今も「聖女」の自覚無しとかいろいろおかしいよな!?
「『願掛け』に、この歌を歌ったのか……」
「おお。綺麗な歌だったぞ」
兄貴が言うのは栞がガキを抱きながら歌った「聖歌」のことだ。
あまり聴いたことがなかった歌で、初めてオレが聴いたのは、あの島だった。
たった一度きりだったが、胸を締め付けられるほどの郷愁を覚えたのだ。
それをあの場でもう一度聞くことができたのだから、ある意味、オレは運が良いのだろう。
まあ、栞が歌う「聖歌」なら、「導きの聖女」と呼ばれるきっかけとなった「この魂に導きを」が文句なしに最高だとは思っているけどな。
栞の歌って不思議なんだ。
下手ではないけど、凄く上手いかと言われたらそうでもない。
その歌声は間違いなく可愛いと思うけれど、そんな人間は珍しくもないと思う。
だが、栞の歌は、人の心を強く揺さぶるのだ。
自分が忘れている何かを思い出させようとしたり、知らない間に自分の気分を高揚させたりするのは何度もあった。
それは人間界の邦楽よりも、音楽の教科書に載っているような歌や童謡、それ以上に「聖歌」を歌う時ほどその傾向が強い。
そして、なんとなく自分も一緒に歌いたくなる。
人間界にいた時は、歌は授業にあるほど身近な存在だったし、友人たちとカラオケに行ってバカ騒ぎするのも楽しかった。
楽器は苦手だったけれど、歌なら何も壊さない。
それに気分転換にもなる。
だから、オレ自身歌うことは嫌いじゃなかった。
だけど、栞のように気が付いたら何かを口ずさむほど自然に歌うことはない。
そして、栞は楽しそうに歌うのだ。
本当に歌が好きなのだろう。
当人は絵を描く方が好きっぽいけどな。
そして、栞と一緒に歌うと、その……一体感を味わうというか、何かに触れているような気分にもなれる。
「だが、お前も『願掛け』して、さらに歌ったという点が分からない」
「オレもどうしてそうなったのかがよく分からん」
それは栞からの希望だった。
オレに逆らうことなどできるはずがない。
しかも、あの時の栞は、「オレの名」を口にした。
当人に深い意味はなかったかもしれないけれど、栞本人の口から聞いた久しぶりの響きに、オレは思考を全て奪われ、顔すら上げられない状態に追い込まれたのだ。
あの時の感情はよく言い表せない。
嬉しい、懐かしい、切ない……、そんないろいろな感情が入り乱れていたことだけは間違いないけれど、その中でも一番大きな感情は、「もっとその名を呼んでくれ」だった。
「後継者だというのに、数回話しただけの男が緊急時以外に触れることを許すとは……。よく母親の許可が下りたものだな」
それはオレも思ったし、あの時はそう言って反対した。
「あの女。栞の言うことなら何でも従いそうな勢いだったぞ」
「お前と一緒だな」
オレの言葉に兄貴が苦笑する。
「オレは、『何でも』は従わない」
栞が望むことは「できる限り」叶えてやりたいと思っているが、それでも従えない望みだってある。
特に、栞の命に関することだ。
栞が自分自身の死を望むような事態になっても、オレはその元凶を取っ払った上で、栞を生かす努力をしてしまうだろう。
「しかし、『占術師』という言葉に拒絶反応が出るのか」
兄貴がポツリと呟く。
「それも、毎回じゃないみたいだ。だから、まだその条件は分からん」
毎回じゃないからすぐに気付けなかった。
誰かの口から「占術師」という単語が出るたびに反応してくれていれば、もう少しこちらも気遣えたことだろう。
「だが、過去再現の一種だと思う」
かつて、栞は、「占術師」によって身体の自由を奪われた上、身動きできないまま投身自殺する瞬間を見せつけられたことがある。
その直後、暫くは部屋に籠って、まともに食事もできないほどのショックを受けたのだ。
「心的外傷後ストレス障害による過去再現の条件は当事者でも分からないらしいからな。こればかりは、注意深く観察するしかあるまい」
あの時の栞の表情や叫びは、オレもよく覚えている。
栞も普段は口に出さないが、心のどこかにそれは焼き付いていたのだろう。
「そんな症状が出ている時にその場から離れるためにやむを得なかったとはいえ、移動魔法を使い過ぎるな。阿呆か。10回でも多い。追っ手がないと判断した時点で使うな」
兄貴の口調に分かりやすく棘が混じる。
報告中に「阿呆」と言われたのはいつ以来だろうか?
「行先が分かっている自分はともかく、同伴者の自律神経は確実に乱れる」
「分かってるよ」
正しくは、栞の顔色が悪くなった後で気付いた。
オレの思う景色と栞が実際に目にしている景色は違ったことに。
人間界で言う乗物酔いの症状と同じだ。
乗物酔いは、乗物の揺れや動きによって身体の平衡感覚を司る三半規管や耳石器からの情報と、視界からの情報や身体からの情報を受けた脳が混乱することによって起こってしまう自律神経系の反応だ。
栞は移動魔法で酔うこと自体はないし、長時間の船やそれ以外の乗物でも酔ってはいないようだが、流石に、短時間で目まぐるしく景色を変え過ぎたらしい。
脳が情報の切り替えについてくることができなかったのだろう。
少しでも長い時間、オレが栞を腕に収めていたかったから、結果として、何度も移動魔法を使ったことは棚上げしておく。
あの魅力的な主人に触れる機会は本当に大事な時間なのだ。
尤も、後、何回触れることが許されるかは分からないのだけど。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました




