予想の斜め上を行く人
「私、シオちゃん先輩にずっと言いたいことがあったんです」
菊江さんは、わたしから取り返したシオンくんを、ぎゅっとその腕に抱き締めながら、そう切り出した。
今の菊江さんに人間界にいた頃の面影は全くない。
まるで、人間界での彼女が別人のようにも思えてしまう。
彼女とこの町で再会した直後は、全く変わっていなかったと思う。
悪気なく突き刺してくるような言動の数々は、本当のことだとしても、言われた側に悪感情を抱かせた。
だけど、シオンくんが腕にいるだけで、そんな様子は全く見られない。
落ち着いていて、ごく普通の女性に見える。
何より、これまでにあったわたしに対する敵意みたいなものなど微塵も感じられない。
赤ちゃんという存在はそこにいるだけで凄いとなんとなく思えた。
でも、菊江さんの言いたいことってなんだろう?
「私、シオちゃん先輩のことが物凄く好きです」
「………………はい?」
何を言われたかが分からなかった。
好き?
誰が?
誰を?
「これまでの私の態度からは、絶対に理解してもらえないとは思ったけれど、本当に、心の底から、シオちゃん先輩のことが好きなんです」
「………………なんで?」
あまりにも予想外過ぎる言葉に、割と酷い返答だと思う。
でも、それだけ、考えたこともなかったのだ。
「シオちゃん先輩が可愛いからです!! このシオンよりもずっと、ずっと!」
菊江さんはムキになったかのようにそう言ったが……。
「それはない」
わたしはその言葉を打ち返した。
いくらなんでも、そんな可愛らしい赤ちゃんと比べて勝てるとは思えない。
「お前のその返答もないと思うぞ」
九十九が背後で呆れたように言うが、ここは譲れない。
「どう考えても、こんな愛らしい生き物にわたしが勝てるはずがないでしょう?」
野球やソフトボールで言う、大量得点差による大差試合で完敗したようなものだといっても過言ではない。
「今、考えるべきことはそこじゃない」
そうだ。
赤ちゃんの可愛さについては後で存分に語るとして……。
「わたしが可愛いかは置いておいて、わたしは、菊江さんに嫌われていると思っていたのだけど……」
これまでの言動で好かれていると思える要素はなかった。
本当に全く感じられなかったのだ。
基本的にどこか棘のある言葉ばかりだったし、嘲笑とかそんな種類の笑みを向けられていたのだ。
今日、初めて、彼女から普通に話しかけられ、普通の笑みを向けられて混乱したほどだった。
何より、周囲が苛めだと見紛うほどだったのだから、かなり嫌われていたと認識していたのだけど……。
「えっと、菊江さんって、真正のサド?」
世の中には好きな人間を苦しめることが好きな変わった性癖の持ち主がいるらしい。
割と冗談めかして言われる言葉だが、現実に、誇張なく、手の施しようもないほどの域にいらっしゃる方もいるそうだ。
それならば、理解ができる……気がしなくもないような?
「まさか、これまでの自分の言動が原因とは言え、サド扱いをされるとは思わなかった。流石、シオちゃん先輩。予想の斜め上を行く人だわ」
な、なんか酷いことを言われている気がする。
そして、菊江さんはサドではなかったらしい。
「でも、仮にも好ましく思うような相手に向かってとる態度ではなかったと思うから」
少なくとも、わたしには無理だ。
多少、素直になれないというのなら分かるけど、それでも、ちょっと違うと思う。
「少しでも好意を持つ相手に向かって、反応が鈍いとか鈍臭いというのはともかく、『先輩として尊敬できないから呼び名を変えさせてくれ』というのはアウトだと思う」
わたしはソフトボールの塁審のように、右肘を90度にして右手で拳を作って突き出し、アウトコールをする。
「そんなこと、言いましたっけ?」
菊江さんはそう言いながら、首を捻った。
言った側は忘れている。
言われた側は覚えている。
そんなことは分かっているけど……。
「『高田先輩』って言うほど、先輩のことを尊敬できないので、『シオちゃん先輩』って呼んでも良いですか? ……と言われたよ」
「………………ああ」
わたしの言葉で、何かに気付いたように顔を上に上げる。
「それって、ニュアンスがちょっと違います」
そして、そんなことを言われた。
「周囲は『高田先輩』って言うけれど、そんな風に貴女を尊敬の対象として見たくなかったんで、『シオちゃん先輩』と呼ばせてくださいって言いたかったんです」
「いや、そこまでズレてなくない?」
解説されても、やはりそこまで変化があるとは思えなかった。
「全然違いますよ! 私はシオちゃん先輩に、『先輩』として接したかったわけではなく、愛でるべき対象として! 可愛さと可愛さと可愛さをふんだんに込めて、『シオちゃん』って呼びたかったんですから!!」
「えっと……?」
なんだろう?
日本語として理解できなくはないけれど、脳が理解することを拒否したがっている。
これって、自動翻訳の間違い?
でも、背後にいる九十九も微妙な顔をしている。
「ごめん、理解できない」
だから、素直にそう言った。
「あ~、うん。人間界の部活動って上下関係が結構煩いじゃないですか」
「へ?」
そうかな?
わたしたちの部活動ってそこそこ緩かった気がする。
「一学年上になった人には『先輩』って敬称を使いますよね?」
「そうだね」
「私は、可愛いシオちゃん先輩に対して、『シオちゃん』と呼びたいのに、『先輩』って余計な言葉を使わなければならなかったんです」
「余計……かな……?」
その辺りはよく分からない。
わたしは、「先輩」は「先輩」だと思っているし、先に生まれた以上、相手に対する敬意ってある程度、必要だと思う。
「アックォリィエ様は元王族だからな。敬称慣れしていないのは分からなくもないが……」
「へ?」
九十九が、今、さらりと重要情報を口にした気がするのは気のせいか?
「『アックォリィエ=シュバイ=リプテルア』様は、二年前まで、『アックォリィエ=シュバイ=アベリア』というのが魔名だった」
「ちょっ!?」
この「リプテラ」は、ウォルダンテ大陸の「アベリア」という国の中にある町の一つだ。
そして、サードネームに国の名前があるということは……?
「アックォリィエ様は二年前まで、アベリアの第一王女殿下だった方だよ」
「ふぎょええええええええええっ!?」
思わず、雄叫びを上げる。
王族のサードネームが変わるということは、養子縁組とか養子離縁とか、婚姻とか、離婚とかそんな理由だったはずだ。
一応、偽名を使うことはできる。
でも、九十九が知っているってことは、その……、え……?
「そこまで知っていて、貴方、シオちゃん先輩に何も伝えてなかったの?」
「伝える必要性を感じませんでしたから」
菊江さんの言葉に九十九は自然と返しているが……。
「いや、伝えてよ!!」
そんな大事なことを伝えない理由が分からない。
「まず、元王族と知れば、栞は絶対に距離を取るだろう?」
「それって、王族だから、当然じゃないの?」
わたしに公式的な身分はない。
水尾先輩や真央先輩、楓夜兄ちゃんは普段、王族していないし、そんな扱いを望んでいないことを知っている。
ワカに至っては、今更わたしがそんな態度を取る方が不機嫌になるので、これまでと態度を変えていない。
トルクスタン王子の場合も、王族として扱うなと本人からの要請があり、その希望に応えている。
つまり、これまで関わってきた王族たちは、わたしから畏まった扱いをされたくないためにそうしているのだ。
でも、本来、この世界の人間たちは、自国、他国に関わらず、王族に対して敬意を表するのは当然の話である。
「ああ、それなら、確かに伝えなかった貴方の判断は間違ってないわ」
九十九の言葉に、菊江さんは溜息交じりにそう呟いた。
「私は、シオちゃん先輩から元王族としての扱いを望んでいないし、これからも望まない。そう言えば、シオちゃん先輩は態度を変えないってことで良い?」
「それが貴女からの要請なら、それに従います」
わたしがそう返答すると、菊江さんは眉をしかめかけ、シオンくんに顔を埋める。
ちょっと羨ましい。
「私はシオンの前で不機嫌な顔を見せられないのに、どうしてシオちゃん先輩はこんなにも私を苛立たせる天才なんだろう?」
あれ?
そこで、なんとなく気付く。
「菊江さんは、もしかして、元王族というだけではなく……」
わたしがそう口にすると……。
「私が王族とかそんなことよりも、もっと別のことに関心を持ってください!!」
何故か、そう叫ばれたのだった。
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