思わぬ言葉
「さてと……」
長い髪の女性は、黒髪の少年が部屋から離れたことを確認すると、両手を腰に当て、一息ついた後で言った。
「もう起きているのでしょう?」
その言葉で、寝台に寝かされた黒髪の少女はピクリと肩を動かす。
それは意識が回復していると言ったも同然だった。
「はい……」
観念して、黒髪の少女……水尾はその身体を再びゆっくりと起こす。
長い髪の女性……千歳が放った魔法は、確かに一時的に水尾の意識を刈り取った。
恐らくは精神に作用する魔法だったのだろう。
魔力、魔法が暴走するのは、当人の意識の混乱によるものが多い。
その状態では精神に影響する魔法はかなり有効な手立てとされていた。
だが……、それでも……、水尾の「魔気の護り」を上回る魔法などそう多くないはずなのだが。
「お久し振り……で良いのかしら?」
千歳が微笑みながらそう言うと、水尾も困ったように返答する。
「はい、お久し振りです。外見を変えていますが、高田の母君……、ですよね?」
「あら……、会った回数は少ないのに、よく覚えていてくれたわね。しかも髪の毛と瞳の色も変わっているのに」
人間界では珍しくない黒髪、黒い瞳だった女性は、今、ピンクの髪色になっていた。
「ソフトの応援……、目立っていましたから。髪の色が変わったくらいでは忘れません」
それは水尾としては皮肉でも嫌味でもなく本心からそう思っている。
目の前にいる女性は、その外見からはほんわかとかおっとりというような言葉が似合いそうなのに、娘のソフトボールの試合となると、かなり大きな声援を送っていたのだ。
口が汚くなるようなことは決してなかったのだが、それでも周りが目を丸くする程度には目立っていた。
後で、あの後輩の母親だと知って、妙に水尾は納得した覚えがある。
「ああ、あれ……。あの辺りはちょっと忘れて欲しいのよね~。昔、私もやっていたせいか、どうしてもソフトボールのことになるとちょっとだけ熱くなっちゃって……」
そう言いながら、千歳は紅くなった頬に手を当てる。
その姿は自分の母親と比べても随分、若々しく見える仕草だった。
いや、実際、水尾の母親と比べても、少し若いだろうが……、目の前の後輩の母親は……、魔界人としても、若く見えすぎる気がした。
それに、先ほどの会話に少しの違和感が水尾にはあった。
魔法を使った辺り、千歳は魔界人だと推測される。
だが、人間界に娘といたことはおかしいのだ。
年代的に娘の方が魔界にいたこと自体は何も不思議はない。
他国で生活する年代である10歳から15歳の範囲内に収まっているから。
でも、この人はそうではない。
単純に他大陸に行くなら特に問題はいらないが、人間界に行くのはその国の王家の許可が必要となるはずだった。
娘のことが心配であっても、それが簡単に許されるとは思えないのだ。
母親が付いていけば意味がないのだから。
しかし、現に水尾と千歳は人間界で会っていて、しかも、彼女自身も以前、ソフトボールをやっていたとまで言う。
つまり試合を応援するときだけの訪問ではなく、人間界での生活経験もあるということだ。
この世界にはソフトボール……、、いや、スポーツというルール化された娯楽などはないのだ。
仮に千歳自身が10歳から15歳までに他大陸へ行っていたとしても、それは人間界ではありえないのだ。
人間界へ滞在する許可が下りるようになったのは約10年前……。
情報国家による安全保障の宣言がされるまで魔界から人間界に表立って向かうようなこともなかったのだから。
「あの……」
だが、水尾は何から聞いてよいのか迷った。
それだけ、疑問が多すぎたのだ。
「ゆっくりで良いわよ。質問にはなるべく答えるつもりだから。勿論、話せることばかりではないけれどね」
そう言って、千歳はにっこりと余裕の笑みを見せる。
この笑顔は、大人だからなのか。
それとも、性格なのか。
あるいは何らかの策略なのか。
今の水尾には判断できなかった。
「では、遠慮なく……」
それでも、水尾としては、少しでも情報が欲しいところではある。
そのため、それらの精度や真偽については後で考えることにした。
「ここはどこですか?」
最も単純かつ基本的な問いである。
だが、ここから始めなければ何も事態が動かないのだ。
「あら……、本当に迷い込んだということね」
千歳は若干、困った顔をする。
「ここは、シルヴァーレン大陸。そして、その中心国であるセントポーリアの城下町にある一軒家よ」
「セッ!?」
水尾は流石にその驚きを隠すことはできなかった。
彼女の知覚能力ならば、ここがシルヴァーレン大陸であることは予測していた。
だが、まさか中心国の城下であるとまでは考えていなかったはずだ。
彼女の身に起こった事態から考えて、そこまで想像が及ぶはずもない。
「その様子だと、セントポーリア城下は初めて?」
「は、はい……」
千歳の言葉に、戸惑いながらも水尾は頷く。
「そう。貴女は、この近くの……城下の森と呼ばれた所で倒れていたの。発見者は先ほどまでここにいた九十九くん。幸い、面識はあるみたいだからお話もしやすそうね」
「私は……、やはり倒れていたのですね」
助けてくれたのはあの少年だったことは少し、水尾には意外に思えた。
彼との縁は、人間界で数回、話をしただけ。それも、そこまで好意的ではなかったというのに。
「ええ。その時の状況は彼に聞いてね」
「彼がいて……、貴女がいるということは……、高田もここにいるということなのでしょうか?」
もっと他に尋ねなければならないことがあるはずなのに、水尾の口からはそんな疑問が飛び出していた。
そんなこと、聞くまでもないのに。
「いるわ。隣室でそわそわしているか、九十九くんのお手伝いをしているかのどちらかだとは思うけれど……」
そう言って、千歳はくすりと笑う。
「それで……、改めて伺うことになるけれど……、ミオルカさまはどうしてこの国へいらしたのかしら?」
日常会話の中に紛れ込んだ言葉。
不意打ちにも似た、でも聞き流すことができない台詞に、水尾は思わず千歳を見てしまった。
目の前の女性は先ほどと同じように微笑を絶やさぬまま、こちらに視線を向けている。
そして、水尾は、目を合わせることができず、俯いてしまった。
反応さえしなければ、もう少し誤魔化すことはできたのかもしれない。
でも、今となってはそれも手遅れだ。
「どうしたの?」
優しそうな声で尋ねられても、それは今の水尾にとって震えが来るほどのものでしかない。
「その名を……何故……?」
そう口にするのが精一杯だった。
伏せた顔を上げることもできず、膝に拳を作り、肩を震わせることしかできない。
水尾が彼女たちとであったのは人間界。
だから、その名を知るはずがないのに。
「話す機会がなかったから言っていなかったけれど……、貴女がここに来てから既に丸一日は経っているの。その間に……、火属性、フレイミアム大陸の主だった人物なら調べることはできたわね」
一日……。
確かにそれだけあれば、調査者の人数や能力差はあっても、相当数の人間を洗い出すことはできるだろう。
そして、意識を失っていた水尾は誰の目にも分かりやすく火属性の魔気をその身に纏っていた。
その上、人間界……、他大陸にて5年もの間生活をしているということは、多少の例外はあるが、貴族以上である可能性が高いということでもある。
加えて、そのことからある程度、年代も絞り込むこともできる。
つまり……、かなり情報が固まってしまったのだ。
普段の水尾なら、意識的に魔気の調整、制御もできていた。
だが、今回は不測の事態であり、水尾自身に非はない。
言ってしまえば、運が悪かっただけである。
名前がバレてしまっている以上、それ以外のことも分かっているのだろう。
分かりやすく鎌を掛けたのもそういう理由からに違いなかった。
水尾は、観念するしかない。
「あの……、高田には……?」
「言ってないわ。あの様子だと九十九くんも知らないでしょうね~。鈍い娘と違って、彼は魔気から気付く可能性はあるけど……。あの子たちに知らせたからって特に変化はない気もするけど、こんな大事なことを私の口から伝えてしまうのも……ねぇ?」
そう言って、千歳はころころと笑った。
「知っているのは……、今のところ私と……、先ほどの九十九くんの兄、雄也くんね。あ、もしかして、彼のことも知っているかしら?」
千歳としては、事実を言っただけなのだろう。
だが、水尾にとってそれは、顔からさらに血の気を引かせるのには十分であった。
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