目に止まった人間にしか
真央さんが言うように、一つ一つは些細な出来事だったかもしれない。
だが、それを当人が意に介さず、周囲だけが気にしているような状況というのが既に普通ではない。
幸い、栞自身は傷らしい傷を負っていないようだけど、既に数年も昔のことだというのにすらすらと思い出せる真央さんの話からも、その時はそれなりに問題になったのではないだろうか?
普通に考えれば生徒たちが自由に入れるような目安箱に、切実なものは少ないだろう。
悪戯目的のような投書もあっただろうし、生徒会役員たちだってどこまで本気で取り組んでいたかは分からない。
それでも、複数の人間たちが、栞とあの女のことだと分かるような訴えを生徒会に起こした。
それだけ、周囲から目に余るような状況だった可能性はある。
そして、その当時、生徒会の頂点は栞と仲が良い水尾さんだった。
それならば、本気で助けて欲しいと願った人間たちもいたかもしれない。
まあ、それが逆に水尾さんが動けない原因にもなってしまったようだが。
そう言えば、あの女は「若宮がずっと横にいたから」と言っていた。
それは、若宮が護っていた可能性が高い。
この傷付きやすいのに自分のことは蔑ろにしやすい友人のことを。
栞は、言われていることは本当のことだからとか、自分の耳に届かないから、平気だなんて本気で言っているんだ。
だが、微かでも聞こえなかったはずがない。
お節介な人間はどこにでもいるし、悪意のある人間だっているのだ。
そんな人間たちが、栞自身に全く、誰一人として伝えなかったとは思えなかった。
「まず、髪の毛を掴んだ上で、『見た目に邪魔だし、鬱陶しいから切れ』だなんて、普通は言わない」
「まあ、言わないだろうね」
栞も頷く。
「その時点で怒っても良い」
「でも、その辺は個人の価値観だから。それに、結局わたしは卒業直前まで切らなかったよ」
「その個人の価値観に口を出している時点で余計なお世話だと怒るべきだ」
「そこまでの熱がなかったんだよね~」
まるで、他人事のようにそう口にする。
「体型のことだってお前は怒るべきだ」
「それを九十九が言ったら駄目じゃないかな?」
確かにオレだって言った覚えはある。
特に、栞を「女」だと意識したくなかった時代は、かなり酷かったことも認めよう。
「だが、お前はそれに対してちゃんと文句を言うだろ?」
「まあ、言われて嬉しいことではないからね」
栞は息を吐く。
「でも、自分が何とも思っていない人に言われても、本当に傷つかないし、怒りも湧かないからな~」
その言葉と表情にゾクリとしたものを覚えた。
それは、いつものように軽い口調。
だが、言っている言葉に熱はなく、つまらなそうに、そして、どうでも良いことのようでもあった。
これまで、オレは、この「高田栞」という女を誤解していたのかもしれない。
目に映る者は敵であっても助けてしまうような甘い女。
だから、その慈悲は、見も知らぬ他人相手でも発揮されるのだろうと勝手に思い込んでいた。
だが、それは違う。
良くも悪くも、その目に止まった人間にしか、栞の心は動かない。
今の発言を聞く限りではあるが、栞の中で、自分が興味を持てない人間に対しては完全に切り捨てる程度の非情さは持っている。
いや、本人に切り捨てたという意識すらないはずだ。
自分の心が動かされない人間は、自分と同じ人間として意識してもないから。
「だから、母子家庭のことについても同じ。知らない人がいう分には耳に入らない。対面で直接、言われたら、『それがどうしたの? あなたには関係ないよね?』ぐらいは言うと思うけどね」
その背後に、どこかの法力国家の王女殿下の姿が重なる。
あの王女殿下は、揶揄いながら、愛でながらも、ずっと小学校、中学校、ずっとこの栞の傍にいたのだ。
その思考に関する影響力は、恐らくオレ以上であることは間違いない。
「それらを真央先輩が言ったなら、わたしが中学二年生の時に生徒会に投書された『ソフトボール部の苛め問題』の話ってことかな?」
「……おお」
「あれは周囲が勝手に騒いだだけで、本当に大したことじゃなかったんだよ。人間的に合う、合わないがあって、菊江さんとわたしが合わなかっただけの話」
それを聞いて、ふと気になった。
水尾さんと真央さんはあの女のことを「アッコ」と呼んでいた気がするが、栞は一度もその呼び名をしていない。
「お前はあだ名で呼ばないんだな」
「へ?」
「いや、同じ部活の先輩である水尾さんが、あの女のことを『アッコ』と呼んでいた気がするんだが……」
「わたしはそこまで親しくもないから」
その割り切り感が凄い。
水尾さんと再会した時に自称していたから、恐らくは、周囲にそう呼べと言っていたのだと思う。
だが、流されない。
ノリが悪いと言えなくもないのだが、それでも我が道を行くのはある意味、しっかりと自分を持っている。
「わたし、小学校の時は、ワカすら『若宮さん』って呼んでたよ」
「そう言えば、そうだったな」
栞は小学生時代に若宮のことは「若宮さん」、そのいとこについては「高瀬さん」と普通に呼んでいた気がする。
再会した時には、既に「ワカ」と「高瀬」になっていたけれど、そこに至るまでにもいろいろあったのだろう。
オレの知らない栞の過去。
「なんか、あだ名呼びって慣れないんだよね」
それ自体は悪いことでもない。
少しばかり距離を感じるだけの話だ。
「菊江さんの話はそれぐらい?」
「いや、お前視点の話を聞きたい」
「へ? わたし視点?」
栞がきょとんとする。
そこに先ほどまでの冷たさはない。
いつもの栞だ。
「わたし視点って言っても……。彼女からは、マイナスなことを言われたって憶えしかないんだよね」
「マイナスなこと?」
まだあるのか?
「あまりにもちっこいから先輩に見えないし、その子供っぽい動きから先輩として尊敬もできないって」
「ただの悪口じゃねえか!!」
それでも怒らない、栞の度量がおかしい!!
「まあ、個人の意見だし。でも、その言葉が大きかったから周囲が先にブチ切れちゃって、そっちを諫める方に回ったんだよ」
「そこまで言われたら、普通は切れる」
それでも、周囲が先に怒ってしまったのなら、当人が切れるタイミングを外してしまった可能性はある。
行き場のないストレスもあっただろう。
「その結果、彼女が孤立してしまったとしても?」
「自業自得だ」
「でも、わたしは、そんなに割り切れなかったんだよ」
栞は時々、自分がいなければ、自分のせいだと思い込むところがある。
そうなる一因を見た気がした。
栞からすれば、ただの個人の感情のずれでしかないことが、周囲が勝手に盛り上がり、話が大きくなって、一人の人間を隅に追いやってしまった。
生徒会からの調査だって「後輩から苛めなんて受けていない」と、ちゃんと答えているのに、周囲にはそう見えなかったことも少なからずショックだったことだろう。
それが今よりもっと多感な時期の話だ。
栞自身はそっちの方が衝撃を受けた可能性もある。
「確かに九十九の言うように彼女の自業自得の面はあるとも思う。でも、当時、中学生。13歳のわたしが、自分の言動一つでそんなに大事になるなんて思いもしなかったんだよ」
それだけ周囲には栞を気遣い、護ろうとする人間が多かったのだろう。
栞は今でも無防備、無警戒なところがある。
そんな彼女を気に掛けていた周囲だって何も悪くもない。
その結果、自衛意識がさらに低くなってしまった気もするが、そこは今回の問題ではないのだ。
ただ当人の気持ちを無視して周囲が騒いだために問題が大きくなった点に関しては、その時、栞が気にしなかったために、何も対処しなかったという非もある。
誰だって、自分が好きな人間を侮辱されたら腹が立つのだから。
「昔の栞に聞きたい」
「へ?」
だから、これだけは確認しておきたい。
「自分が大好きな人間のことを悪く言われ続けている状態を、お前は黙って見ていられたか?」
今より幼かったとはいえ、それに彼女が気付いていなかったとは思えないけれど。
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