未熟な少年
ただごとじゃない女性の叫びが聞こえた気がして、思わずその部屋へと飛び込んだ。
その途端に、高温の空気が自分に向かって迫り来るのが見える。
「炎!?」
咄嗟に無詠唱で防護の魔法を放つ。
こっちに向かってきた炎の塊は、オレの体に届くことなく目の前で弾けとび、そのまま消える。
素早く、後ろ手で扉を閉め、その発生源を見た。
その全身を紅い炎で包まれた女性は、ゆらゆらとバランスをとるような動きでその身体をゆっくりと揺らす。
だが、その炎は何かが燃えているわけではない。
そして、それは彼女を護るかのように揺れ動いていた。
「結界を……、強くしておいて正解だったな」
オレは思わずそう呟くしかない。
通常、魔界の家には、そこで行動する人間の魔力の暴走に備えて最低限の結界を張るように義務付けられている。
それはこの家も例外ではなく、オレや兄貴、一応、高田の魔力に合わせて、周囲の家よりはかなり強い結界が張られていた。
その上で、今回、オレが彼女を運び込んだ際に、それに重ねて今のオレにできる最大級の結界を張っておいたのだ。
彼女を発見した時の状態が普通では考えられなかったというのが理由の一つで、どちらかというと外から来る何者かからの襲撃対策のつもりではあったのだが。
「しかし……」
結果として彼女の魔力の暴走に作用したようだ。
勿論、その可能性を考えなかったわけではないが、残りの魔力から考えても、暴走してもそこまで大した影響がないと高をくくってはいたことは否定しない。
しかし、正直、ここまでの魔力の暴走は初めて見る気がする。
幼い頃には何度か見たことがあった。
最近の話なら、高田の……暴走っぽいのも見たと言えなくもない。
確かに、それらは強力で、まともにやり合えば無事ではすまない気がしたけれど、自分の身体を動かせないほどではなかった。
だが、目の前の彼女の暴走は明らかに桁が違う。
少しでも動けば、即座に敵と認識され、一瞬で焼き尽くされる恐れすら感じていた。
多少、耐火の魔法を施したところで、ここまで力量が違えば、お話にならない。
1秒でこんがり焼かれるか、2,3秒でほどよく焼かれるか……、それぐらいの違いしかないだろう。
どちらにしてもその先にあるのが何であるのか想像できてしまう。
こうして、対峙しているだけで、冷や汗以外の汗が滝のように流れているのだ。
魔法力がほとんどないような状態でこれほど凄まじいのなら、彼女の魔法力が万全の状態だった時のことなんてあまり考えたくない。
つまり、本当に間違いなく魔法国家アリッサムの人間ということなのだろう。
初めて見たけど、「すげ~」、「こえ~」という表現の足りない感想しか出てこない。
だが、いつまでもこうしているわけにはいかなかった。
オレがこの家の護りを任されている以上、この場は自分で何とかするしかないんだ。
兄貴は、この場にいないのだから。
オレは意を決して、一歩、前に出た。
思ったとおり、オレの動きに反応してゆらりと炎が動く。
太陽の……、紅炎、プロミネンスという人間界で得た言葉、知識が頭をよぎる。
こんなことなら、もっと上位の耐火魔法を習得すればよかったなとそんな風にぐだぐだと考えていた時だった。
「九十九くん! 下がって!!」
後ろから声が聞こえて、反射的に扉から身をかわす。
激しい音とともに、歌うような詠唱が聞こえる。
そして、先ほどまでの喧騒が嘘のように静まったのだった。
まるで、この部屋の時が止まったかのように、一瞬の静止があった後、糸が切れたかのように崩れ落ちる女性の身体があった。
それに気付いた時、ようやく自分の身体も動き出す。
「危ねっ!」
自分の意思と無関係に倒れる時、受身なんか取ることはできないだろう。
そもそも全身の力が抜けるのだから、倒れる心構えをしていたところでほとんど無意味だとは分かっているんだが。
だからこそ、身体を動かしてなんとか彼女を抱き止め、その身体を支える。
思わず、ほうっと口から息が漏れた。
こんな細い身体のどこに先ほどのエネルギーが眠っているのだろう?
オレは、腕の中に力無く倒れた彼女を見つめる。
「先ほどまで自分に対して敵意を向けているような相手に迷うことなく手を伸ばすことができるのは、九十九くんの良いところよね」
背後の主はどことなくのんびりした口調でそう言った。
オレは完全に静かになってしまった彼女の身体を担いだ後、先ほどと同じようにベッドに戻して、改めて後ろへ向き直る。
「それにしても、びっくりしたわぁ……」
冗談とも本気ともつかないような声で背後の女性はそう言い、その長い髪を掻きあげて良い笑顔をしていた。
忘れてはいけない。
目の前の女性は人間界で生まれ育ちながら、魔界人でも扱える人間が少ないとされる特殊な魔法、「古代魔法」の使い手であるということを。
できるだけ多くの人間が使えるようにと改良された現代魔法と違い、古代魔法は使い手を選ぶという。
千歳さんが使えても、オレや彼女の娘ですら使えるとは限らないのだ。
その千歳さんが使った魔法のことをオレはよく知らない。
だが、一瞬で、相手の意識を刈り取ったことだけは分かった。
実際、暴走者は沈黙し、その身体は力無く寝台に横たわっている。
「大丈夫だった? 九十九くん」
「はい。千歳さんのおかげで助かりました」
「そう、良かった」
にっこり笑う千歳さん。
それは、娘とは随分違う笑い方だと思った。
これは大人の余裕のせいなのか?
「栞が……、何か騒がしい気がするって、言ってたけど……、何があったの?」
「いや、オレもあの時は、場を外していたので……、よく分からないのです」
本当にほんの少し、離れていただけだった。
それだけなのに……、あの状態。
「そう……。何か嫌な事でも思い出しちゃったのかしら?」
「まだ目を離してはいけなかったですね」
「そうね。まだここにいた理由も分からないところだし。それに……、環境が変わって心細くない人なんていないでしょうから」
「しかし……、落ち着いているように見えた彼女から、おかわりを頼まれたので、つい……」
その判断が悪かったことは分かっているから、なんとなく目をそらしてしまう。
「あら。……ということは、気がついたのね」
「はい。高田の言ったとおり、人間界で会った水尾……さんということで間違いもないようです」
「まあ! それは凄い偶然ね。ああ、でも、それなら、すぐにおかわりを頼むのも分かる気がするわ」
「……そうなんですか?」
「素敵な食べっぷりの子だったもの。よく覚えているわ~」
高田もそんな感じのことを言っていた気がする。
まあ、先ほど本人と会話した感じもそういった印象を受けたが。
「それならば、九十九くん。彼女の希望どおり、おかわりの準備を頼めるかしら? 時間は……、そうねぇ……。10分後なら目が覚めていると思うわ」
「分かりました」
そう言って、オレは部屋から退出した。
あれだけの力を持っている彼女と、古代魔法を使えると言っても、魔法の耐性が高いわけではない千歳さんを二人きりにすることに抵抗がなかったわけではないけれど、オレより千歳さんのほうが咄嗟の状態で対応できる気がする。
これは、魔力の強さとかではなく、経験の違いだ。
正しくは、場慣れ……とも言う。
魔界にいた頃の千歳さんはオレたちが思う以上にいろいろの目に遭ってきた。
それから10年経っても、一度身についたものはそう簡単に消えることはないということだろう。
多少、鈍ったりしているとは思うけど。
それに比べて、オレは兄貴との模擬戦しかやっていないのだ。
日常生活中にたまに不意打ちとかはあっても、言い換えればそれぐらいしか経験をしていない。
それでは実戦に強くはなれないのだ。
オレの初陣は、人間界。
高田と再会したあの日なのだから。
「くそっ! 護るべき相手に護られてどうするんだよ」
思わず、壁を殴りつける。
「うわっ!」
オレの行動に驚いたのか、薄暗い廊下から何者かが声を上げる。
「ど、どうしたの?」
見ると、何故か高田がそこに立っていたのだった。
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