身が竦むほどの罪悪感
心と身体は別のもの。
それは使い古されたと言っても良いほど昔から言われている言葉。
だが、心が求めた相手と、身体が求めた相手が異なった時、人はどちらを選ぶべきなのだろうか?
『俺はシオリのことが好きなのだ』
その言葉はまるで何かに言い聞かさるようにリヒトの口から再度、吐き出された。
『だが、お前たちのように彼女に触れたいとは思えない』
その言葉に引っかかるものはあったが、今のオレは黙って聞くことしかできない。
『こんなにも、シオリのことが好きなのに、手を伸ばして抱きしめたいとか、スヴィエート相手にしたような行為をしたいとは全く思えないのだ』
これは懺悔ではない。
罪の意識はないのだから。
だが、告白ではある。
それを言う相手を間違えてないかとは思うけど。
『スヴィエートには触れるだけで、この意識が激しく揺さぶられ、「発情」に似た感覚が湧き起こるのに』
それが、精霊族の「番い」に対する一般的な感覚なのだろうか?
確かに本能的な衝動なら、そんな形で欲求が表に出てくるかもしれない。
しかし、「発情」に似た感覚。
あんなに苦しい思いが相手に触れるだけで強制的に引き起こされてしまうのか。
しかもそれが自分の心を完全に置いてきぼりにした上で起こるのなら、ただの悲劇でしかないだろう。
想ってもない相手にしか自分の肉体が反応しないなど、強い呪いのようなものだ。
まだ誰にでも反応する方が、少しだけ救いがある気がする。
そう考えると、栞に反応したオレはまだマシだったと言えなくもない。
ただ、オレにとって「マシだった」だけで、栞にとっては護衛の裏切り行為であったことに変わりはないのだが。
『ストレリチアの大聖堂で、ユーヤがシオリに「感謝の気持ち」を額にした時、ツクモが対抗意識を燃やしたのを覚えているか?』
「おお」
あれはオレに最初の「発情期」の兆候が出始めた頃だった。
栞への気持ちも自覚していない時期でもある。
兄貴が栞の額に軽く口付けたのを知って、いろいろ我慢ができなくなったのだ。
そのまま、何の説明もなく、栞を近くの空き部屋に連れ込んで、その額にオレは何度も口付けている。
あれは、無意識ではなく自分の意思だった。
アレで自覚してないとか、あの頃のオレはどれだけ自分自身を誤魔化して生きていたんだ?
『俺もシオリに対する感謝も好意もあったから、同じことをした』
「そう言えばそうだったな」
あの時は、栞から初めて背中に腕を回されたというのに、こいつが邪魔したのだ。
いや、いきなりの行動に、あのままではオレもどうして良いか分からなかったから、助かったといえばそうなのだが。
『だが、そこにあったのは喜びではなかった』
「栞の方が?」
まあ、三人の男から次々に額に口付けられては、今以上に男に対する免疫がなかった栞が喜びを感じるとは思えない。
なんだろう?
ただ困惑しただけなら良いが、嫌悪とか、汚物とか思われていたら、過去のこととはいっても辛いものがある。
『いや、シオリはあの日、「大感謝デー」だと思ったらしい』
「あいつの思考はどうしてそう予想できない方向性なんだ!?」
確かにあの行動を「感謝」の印だと理解してくれたとは思っている。
だから、あの女もオレに対して、特に抵抗もしなかったのだ。
だが、その感想は絶対におかしい!!
『喜びを感じなかったのは俺の方だ。触れることができた嬉しさよりも、どちらかというと、シオリに口付けてしまって申し訳ないという罪悪感の方が強かった』
罪悪感?
まあ、何かをやらかした後ってそんなもんだよな?
それに、相手からの好意を感じていればまだマシだが、オレだって、あの後、栞の瞼に口付けて治癒魔法を使った時に、多少の申し訳なさを覚えたのだ。
『それに、お前たちと違って、感謝以外に好奇心もあった』
「好奇心?」
『ユーヤはシオリに対し親愛を覚え、ツクモはそれに対する対抗心からの行動だった。それならば、俺は彼女に口付ければ、これまでの好意以外の感情を抱くのだろうか? と』
あの時は単純に牽制だと思った。
兄貴が「邪魔しろ」と言っていたみたいだし。
だが、それ以外の意図もあったらしい。
『あの時の俺は口付けの意味もよく知らなかったからな。知識として知ったのは、あの時のお前たちの行動と……、「ゆめの郷」だった』
「……要らん知識を与えてしまったわけか」
何も知らない純粋な精霊族を、人間の知識というやつで穢してしまった気がして流石に罪悪感がある。
『いや、必要な知識だった。そして、「番い」から口を塞がれた時にようやく、理解できた。身体が求めた時の口付けは、本当に甘美なものだと』
リヒトの言うような感覚を、初めて栞の唇を奪った時に、オレも味わったことがある。
この世にこれだけ甘い美酒があるのかと。
それは、確かに身体が激しく求めた時だった。
『だが、同時にそれが酷く悔しかった。俺の身体はシオリを決して求めない。それどころか、彼女だけは触れることに対して、畏れ多さを感じてしまうのだと』
「畏れ多さ?」
なんだそれ?
躊躇うとは違うのか?
『この身が竦むほどの罪悪感というのはそういうことだろう?』
それは栞が王族だからだろうか?
精霊族は王族に従わされることが分かった。
それを知ったのはこの島に来てからだが、リヒトはその前から彼女に対して、本能的な畏怖を覚えていたのか?
「それは、水尾さんや真央さんに対しても感じるものか?」
『いや、全くない。カルセオラリア城でマオを背負った時も、重いとしか思わなかった。あの2人に対しては触れる必要性も感じないな』
台詞の中に、余計な情報が混ざっていたような気がしたが、それは置いておこう。
『だが、シオリだけは違う。彼女には触れてはいけない。触れても、苦しくて、自分が嫌になるだけなのだ。この感情は違う』
それは、逆に栞を特別だと言ってないか?
無意識に拒む感情ってことだよな?
それも精霊族の本能なのか?
『確かに特別なのだと思う。だが、俺はこんな形の特別を望んでも求めてもいないのに!!』
好意を抱く相手を必要以上に拒みたくなる気持ち。
それをオレは知っている。
触れてしまえば、その感情を押さえきれなくなることを、この身体は知っていたから。
だから、拒んで、自分の気持ちを抑え込んで、否定して、逃げようとした。
だが、その結果として、この上なく逃げ場がないほどの深みにずっぽりと嵌めこまれた気がする。
暴風に対する戦略的な撤退ならば良いが、臆病風に吹かれた逃げは良くないと言うことだな。
だけど、今、リヒトの抱いている感情が、オレと同じ種類のものだとは限らない。
「他には?」
『他?』
「まだオレに言いたいことはあるんだろ? 今のうちに吐き出しておけ」
惚気なのかも、自慢なのかも、懺悔なのかも分からないほど自分の中でごちゃごちゃ混ざった感情。
自分でもどうして良いのか分からないから、誰かに向かって答えを欲する。
だが……。
「オレはお前の悩みに対して、答えを出せるほど頭は良くねえ。だが、話を聞くだけならできる」
後は時々余計な口を挟むぐらいか。
『十分だ』
リヒトは笑った。
兄貴に口調や言動が似てきたし、この島に来てからは身体もデカくなった。
それでも、まだ人の世に慣れず、不安定さを残したままなのは変わっていない。
だが、これからはそういうわけにはいかないのだ。
「お前はこれから神官になるんだろ?」
それなら、俗世への未練はしっかりと断ち切っていけ。
人間は他者の負の感情に敏感な生き物だ。
特に劣等感に満ち溢れた者の中には、卑屈で自虐的な上、優れた相手の僅かな弱みを見つけ出して、過剰なまでに刺激して引き摺り落とそうとするヤツもいる。
そんな屑神官に負けたくないのなら、自分の足で立つしかない。
これからはオレたちの目も手も届かなくなる。
今までのように、護ってやれないのだ。
『ああ、俺は神官になる』
オレの言葉にリヒトは大きく頷いて応える。
『俺は俺のやり方でシオリを護るために』
そんな力強い言葉と共に。
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