その頑張りを知っている
―――― 悪い……、けど、このままで。
九十九から抱き締められ、そんなことを耳元で言われてしまえば、それ以上、何が言えるだろうか?
そのまま、腰を砕けさせて、その場でしゃがみこまなかっただけ褒めて欲しい。
いつだって、わたしの護衛は甘くて凶悪的なほど良い声です。
少し聞いていなかっただけで、これだけの破壊力とは恐れ入りました。
でも、なんで抱き締められているんだろう?
そこがよく分からない。
九十九の両腕はわたしの腰と肩を押さえて、彼の身体に張り付けているけれど、それ以上動くこともなく、固定化されている。
これがわたしの身体のあちこちを、さわさわ、わさわさと動けば、邪な意思だと思えるのに、そんな意図は一切ないことはよく分かる。
そもそも、わたしにそっち方面の魅力が無いことは承知だ。
背も低いし、胸だってほんのりと膨らんでいる程度。
九十九だって「発情期」にならない限り、相手にしないような残念女子なのだ。
でも、これが九十九の欲しいものってことで良いのかな?
いや、これってご褒美にならないよね?
こんなことをされて喜ぶのはわたしだけだろう。
九十九の両腕は本当に落ち着くのだ。
でも、いつから、そうなったのだろうか?
ほんの少し前までは、彼の手や指があれだけ怖かったというのに、その感情はすっかり薄れてしまった。
それだけ、彼がわたしのために思い悩んで、いろいろ頑張ってくれているって知っているからだろう。
気のせいか、九十九の心臓の音がメチャクチャ早い。
多分、今のわたしよりもずっと。
身体も熱いし、いつもよりどこか固い気がする。
いや、もともと九十九はわたしよりも体温が高いみたいだけど。
何より気にかかるのは、九十九の体内魔気がかなり乱れているのだ。
九十九から抱き締められることなんて初めてじゃない。
暗い部屋の中とか、布団の中という今、思えばとんでもないような状況で抱き締められたこともあるし、「発情期」中なんて、それ以上の姿でそれ以上のことをされている。
だから、今更、彼がわたしを抱き締めたぐらいで鼓動が早くなったりとか、身体を固くしたりとか、体内魔気を乱すなんてことはないだろう。
だけど、無事に戻ってきてくれたから、今は、九十九の体温を堪能しよう。
うん。
温かくて、癒されて、ほっこり温泉みたいな気分なる。
九十九はどうだろう?
わたしを抱き締めて、少しぐらいは癒される?
う~む、もう少し、胸とか大きければ良かったかな?
ワカとか、オーディナーシャさまとか、わたしよりも大きいよね?
彼女たちにどんな食事をしているか聞いてみるべき?
そんなことを考えていたせいか……。
くぅ~
消化器官と思われる場所から、小さな音がなってしまった。
なんで、このタイミングで!?
いや、食事のことを考えたせいだね?
そう言えば、いつ眠ったのか覚えていないし、食事はもっと前だった。
なんて正直すぎるわたしの食欲!!
この距離では、流石に言い逃れもできない。
張り付いているわけだし。
九十九が両腕を震わせているのが分かる。
「なんか、食うか?」
わたしの耳元で聞こえるその低い声は、明らかに笑うのを我慢しているものだった。
呆れられるよりは良いけれど、これはこれで恥ずかしすぎる!!
「お……、お願いします」
だが、わたしがそんな九十九の申し出を断れるはずもない。
くうっ!!
鳴り響く腹と九十九の料理には勝てない。
「任された」
そう言って、九十九はわたしの身体を解放する。
わたしから両腕を解く九十九に迷いはなく、先ほどまでの不安定さは随分と落ち着いたように思えた。
少しは、九十九の助けになった?
そう聞きたかったけれど、わたしは何故か聞くことができなかった。
****
―――― 悪い……、けど、このままで。
栞を抱き締めながら、そんな声を絞り出すのが、精いっぱいだった。
今、彼女から少しでも拒絶されてしまえば、オレはどうかなってしまうだろう。
それだけ不安定だったのだ。
大丈夫だと思っていた。
だけど、駄目だ。
栞と話しているうちに、少しずついろいろな感情が混ぜられていった。
思い浮かぶのは、アリッサム城での所業。
泣きながらオレに謝る水尾さんの姿。
隷属する精霊族たち。
どこか苛立った兄貴。
そして、栞に齎された見合い話。
オレは思っていた以上に、ガキだったらしい。
これぐらいのことで、ここまで自分の感情が乱れるなんて思っていなかった。
兄貴と話していた時までは本当に平気だったのだ。
だけど、栞と対面で会話を続けていくうちに、不意に自分が嫌になった。
汚れ仕事が嫌だったわけじゃない。
そんなの今更だ。
オレは、彼女のために泥を被ってでも護ると決めたのだから。
だけど、その泥を被った後、再び、栞と接することまでは考えなかった。
兄貴は凄えよ。
オレよりずっと昔から毒の沼地に嵌っていたのに、平然としていたのだから。
本当なら、こんな風に栞を抱き締めることさえも、駄目だと思ってしまう。
少し前に自分がこの手で何をしたのかを理解しているから。
それでも、彼女に縋りたかった。
だけど、オレの手で、汚したくもない。
だから、両腕で栞の腰と肩を押さえて、逃がさないようにしているけれど、それ以上のことはできなかった。
小さくて柔らかくて温かいオレの大切な主人。
いつだって、近くにいるだけでいろいろな意味でドキドキさせられる。
そんな彼女が、今、オレの両腕に囚われている。
栞はいつだって、オレに甘い。
まるで甘味のように。
オレをドロドロに溶かして、甘やかしてくれる。
本当だったらこの腕から逃げ出したいことだろう。
昔、不意打ちで抱き締めた時は突き飛ばしてくれたし、割と最近だって「触るな」と言ってくれたほどだ。
もしかしたら、栞はあまりオレの腕が好きではないかもしれない。
絵の見本としては気に入られているようだけど、それだけだ。
それでも、オレが望んだというだけで、彼女は暴れることなく素直に抱き締められてくれる。
オレは、卑怯な男なんだろうな。
それを知っていても、この居心地の良さに甘えている。
栞が許してくれる間は、この場所を護りたいと思ってしまう。
なんて、無様なのだ。
オレは栞のために強くなろうとしたのに、栞の傍にいると情けない男になってしまうなんて。
このままではいけない。
いずれ、他の男のモノになる主人なのだ。
それだけの血筋と能力を有している。
だから、オレがいつまでも栞に張り付くことは許されないのに。
それでも、栞自身から許されている間は、もう少しだけ、このままでいたかった。
くぅ~
どうやら、駄目だったらしい。
栞は腹がすいていたのか、可愛らしい音が鳴った。
この距離だ。
その音がしっかり聞こえてしまった。
なんとなく、オレの願望に気付かれて、身体を使って拒絶された感が強い。
考えすぎか?
だが、顔を見せないまでも、栞が耳を真っ赤にして震えているのはよく分かった。
これはこれで有りだな。
すっげ~、可愛い。
……違う。
顔を上げられないほど恥ずかしい思いをさせてしまったことだけはよく分かった。
だが、オレが抱き締めることよりも、腹の音を聞かれる方が恥ずかしがっているのはどういうことだ?
いや、それでこそ「高田栞」という感じはしてしまう。
まだまだ色気より食い気だよな?
「なんか、食うか?」
「お……、お願いします」
震えながら、お願いされてしまった。
その可愛らしさに苦笑する。
「任された」
だが、願われた以上、それを叶えるのがオレの仕事だ。
名残惜しいが、栞から離れる。
下を向いたまま、顔を見せてくれないが、まだ耳の赤みは引かない。
「ちょっと待ってろ。簡単な物を作って食わせてやるからな」
そう言って、俯いたままの栞の頭に手をやる。
どれぐらいの時間、腹に入れてないのだろうか?
眠らされたようだから、もしかしたら、結構、長かったかもしれない。
起きた時にぼんやりしていたからな。
それに、この島に来てからちゃんとしたものを食わせてなかった。
消化の良い、あっさりしたものが良いだろう。
でも、手の込んだヤツは駄目だ。
時間がかかる。
「つ、九十九……」
「あ?」
「そんなに気合入れなくても、軽いもので良いよ?」
「……おお」
そんなに気合を入れたつもりはないが、早く食いたいってことだろう。
「急いで持ってくるから、大人しく待ってろ」
そう言って、部屋から出たのだった。
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