ここに来た理由
「事情はある程度、分かりました」
雄也さんから渡された記録の全てを読み終えた恭哉兄ちゃんは、表情を変えずにそう言った。
恭哉兄ちゃんの手にある紙に、書かれている記録は日本語によるものだった。
トルクスタン王子が言うところの、たった5年しかいない世界の言語だったというのに、恭哉兄ちゃんは、苦も無く読んでいる。
まあ、大神官である恭哉兄ちゃんは、日本語にそっくりな神子語という文字も勉強しているから当然なのかもしれないけれど。
それにしても、あれだけ分厚かったというのに、その記録を読み終わるのが凄く早かった。
わたしが雄也さんと少し話している間に読み終えたことになる。
やはり、この世界の人たちはトルクスタン王子を除いて、速読スキルが標準装備のようだ。
「それでは、雄也さんは席を外していただけますか?」
「へ?」
恭哉兄ちゃんの言葉に、わたしは自分の目が丸くなったことが分かる。
ここは、雄也さんを交えて三人で話すか、わたしが場を外して、二人だけで難しい話をするところじゃないの?
「分かりました」
雄也さんは一礼して、建物から出ていこうとする。
「あ、あのっ!!」
それを反射で呼び止めようとして、何て声をかけようか迷ってしまった。
「大丈夫だよ、栞ちゃん」
雄也さんは振り返って微笑む。
「俺がいない方が進む話ならその方が良い」
「でも……」
何の話をすれば良いのか、それが分からない。
「大丈夫だよ」
雄也さんはもう一度、そう言う。
「まずは大神官猊下とお話をして、すっきりしておいで」
「はい」
今、雄也さんは「まずは」と言った。
つまり、恭哉兄ちゃんと話すだけで終わらないってことだ。
これは気合を入れる必要がある。
わたしは頭を切り替えることにした。
それを見て、雄也さんは満足そうに頷きながら……。
「お茶の淹れ方は大丈夫だよね」
「はい!」
そう確認する。
そうか。
トルクスタン王子と同じで、恭哉兄ちゃんもあまり自分でお茶を入れる習慣がない人だった。
いや、恭哉兄ちゃんは基本的にそこまで食や味というものを重視しない人なのだ。
味覚音痴というわけではなく、美味しいものは美味しいと理解できるけど、自分だけが食べるなら、栄養が取れれば何でも良いらしい。
困ったことに神官にはそんな人が多い。
食に対して贅沢な考え方をしていると、誰の手も借りることができない巡礼の時に本当に苦労するそうだ。
まあ、九十九ならそんな状況でもなんとかしそうだと思うけど、彼は一般的ではないからね。
だから、お茶とかは、わたしが頑張らなきゃ!
雄也さんの背を見送りながらそう思った。
そして、改めて、背後にいる背の高い御仁を振り返る。
顔の造形が明らかに自分と違うその美貌は何度見ても慣れるものではない……はずなのだが、自分の中では小学生の頃に会った中学生の印象がまだ抜けないためか、不意打ちでない限り、そこまでの緊張はない。
他の人は「大神官」として扱うことは知っているけれど、わたしにとってはどこまでもこの人は「恭哉兄ちゃん」でしかないのだ。
「お待たせ、恭哉兄ちゃん」
だから、誰もいない時にはこんな口調で、こう呼ばせてもらう。
それは恭哉兄ちゃん自身からも許されていることだし。
でも、九十九がいたら顔を顰めるだろうから、彼の前でも呼ばないようにはしているつもりなのだけど。
「大丈夫ですよ、栞さん」
そう言いながら、恭哉兄ちゃんは少しだけ口角を上げた。
ワカはこの人のことを今でもあまり笑わない人だって言っているけど、そんなことないよね?
笑っているふりだったら、こんな不思議な口の動きはしないと思う。
単純に雄也さんのように分かりやすい笑顔の大安売りをしないだけで、割と、恭哉兄ちゃんはよく笑う人だと思っている。
わたしより恭哉兄ちゃんとの付き合いがずっと長い楓夜兄ちゃんも、「ベオグラの普通の笑みはほんま、分かりにくいけどな」と笑いながら言っていたから間違いないだろう。
「お茶の準備をするから、そこに座ってくれる?」
「はい」
この部屋は暑い。
だから、長居したり、お話するなら飲み物は必須だ。
わたしは今、この部屋の主のような状態になっているので、あまり細かく気を遣わずに淹れることができる飲み物を、何種類も常備してもらっている。
始めは雄也さんが準備してくれた一種類だったけれど、その後から九十九が飽きないようにと増やしてくれたのだ。
そして、そんな室内にいながらも、恭哉兄ちゃんは相変わらず涼しい顔をしている。
体内魔気で調整しているのか、法力で調整しているのかは分からないけど、何かしらのことはしているだろう。
「えっと、その前に、雄也さんからどんな形で、ここに呼び出されたのかを聞いても良い?」
お茶の準備をしながら、その部分を確認する。
「『シンアン=リド=フゥマイル』より大聖堂に連絡が入りまして、それで、私が赴くことになりました」
それは確か、あの酒場の店主さんの名前だったはずだ。
「その連絡内容はわたしが聞いても良いもの?」
「はい」
慎重にお茶を置きながら尋ねると、恭哉兄ちゃんはわたしに向かってこう言った。
「『大神官猊下に告げよ。日出国より愛されし儚き花が、音に聞く神の遣いし狭間の島より手折られかけた』と見覚えのある黒髪の青年が何度も現れる夢を見たそうです」
なんだ?
その暗号。
そして、その内容で何を理解したの?
いや、わたしは事情を知っている側だから、なんとなく理解できるよ?
でも、恭哉兄ちゃんは事情を全く知らない側の人間だよね?
「日本の国花って……『菊』じゃなかったっけ?」
そして、一番、どうでも良い所が気になった。
だから、日本のパスポートとかも菊の紋様だったんじゃないっけ?
自分は持っていなかったけれど、漫画の登場人物たちが持っていたパスポートはそれっぽい絵が描かれていたはずだ。
「『十六葉八重表菊』の『菊花紋章』は、かの国の皇室の御紋と法制定されていますが、国花として法制定された花はなかったと記憶しています」
ああ、うん。
わたしには、「菊の御紋」にそこまでの知識はない。
そして、あの世界の人たちも家紋好き、歴史好き、皇室好きでない限り、そんな名称に縁はないと思う。
この世界の人って、時々、かの世界の住人たち以上の知識を持っていたりするよね?
「なんで、そんな暗号で、恭哉兄ちゃんには伝わったの?」
「暗号……、符丁と言うほどのものではないと思いますよ」
恭哉兄ちゃんが微かに笑う。
「『日本』の人々に愛されている『桜』に関する人間はそう多くありません。そして、『狭間族』と呼ばれる精霊族たちの混血が住むのは『音に聞く島』と呼ばれるこの島です。それならば、この島で栞さんの身が何らかの危険に晒されたと考えるべきでしょう」
「いや、そんなに長い解説が要る時点で十分、『符丁』で良いと思うよ」
少なくとも、一般的な人には理解できない。
でも、邪魔が入らないような他人の夢で、そんなよく分からない言葉を伝えられたあの店主さんは本当に迷惑な話だと思うけれど、恭哉兄ちゃんもそこを問題視していないような気がする。
「あの店主さんも気の毒だね」
わたしは思わず同情する。
「そうでもないようですよ。『シンアン=リド=フゥマイル』は貴女方に返しきれない恩があるので、神官の道から外れた自分で良ければ、いくらでも使って欲しいと言っているぐらいですから」
「ぬ? そうなの?」
そこまでのことをした覚えはない。
「あの港町がセイジョウ化されたのは、栞さんと九十九さんのおかげらしいですから」
「わたし、その件に関しては特に何もしていないんだけど?」
そして、九十九が何かしたことも知らない。
あの港町の聖堂にいた正神官がタチの悪い人だったために、大神官による抜き打ち視察によって、大聖堂にある「贖罪の間」送りになったとは聞いていたけど。
でも、わたしは元神女たちの行方不明事件のことも知らされていなかった。
だから、わたしが知らない所で九十九が動いていた可能性はある。
「『シンアン=リド=フゥマイル』は貴女の歌で浄化されたと信じているようですよ」
「情報に誤りがあります」
わたしの歌にそんな能力はない。
いくらなんでも、買いかぶり過ぎだろうと思う。
「そして、あの港町で頻発していた暴力行為も減ったそうです」
「はあ……」
そんな物騒な港町だったのか。
「あの酒場で栞さんの歌を聴いた人たちが、一斉に真面目に働き出したそうで、それに感化されて他の人たちも暴力行為を起こすことなく、働くようになったと報告を受けています」
「はへ?」
それは、どういうことでしょうか?
「そのために、栞さんは、歌いたい時は、できる限り、『御守り』以外にも銀製品を身に付けるように心がけてください」
「へ?」
「栞さんが歌う時、その近くに神官の素養が高い人間や、神の遣いである精霊族がいると、少しばかり神力が強く放出されやすくなるようですから」
「なんですと!?」
な、何それ!?
「それが、先ほど頂いた報告を読んで、私が出した結論です」
この世界で誰よりも神や精霊に理解が深い青年はそう口にしたのだった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました




