優しいだけの女じゃない
「シルヴァーレン大陸言語は癖が強い」
「スカルウォーク大陸言語も十分、癖は強いと思いますよ」
俺の言葉にシオリは眉を下げながら返答する。
自分でもそれは分かっている。
スカルウォーク大陸言語は格変化など含めて、他大陸言語にはない独特の決まりごとがあるのだ。
それでも、慣れ親しんだ大陸言語ではなく、不慣れな他大陸言語と数時間向き合っていれば何か一つも言いたくなるだろう。
だが、先ほどの言葉。
癖が強いと分かる程度に、彼女はスカルウォーク大陸言語を理解しているということらしい。
尤も、それはカルセオラリア城で彼女が植物の絵を描いていた時から気付いていたことではある。
「それにしても、シオリはスカルウォーク大陸言語を学んで何年だ?」
ユーヤの話では、この可愛らしい主人が自国から出たのは3年前だと聞いている。
セントポーリアのダルエスラーム王子より目を掛けられ、城に入れられるところを、拒絶したために、彼女は国から出るしかなくなった、と。
だが、俺がセントポーリアで世話になっていた5年前にはこの娘は城にいなかった。
その昔、ユーヤは恩人である彼女たち母娘のおかげで、国に仕えるようになったと言っていたのに。
そして、いつ、どこで、シオリは自国の王子に出会う機会があったのだろうか?
昔から城にいたのなら、城に入ることを嫌がる理由にはならない。
城にいなかったのなら、城から出ないと聞いているダルエスラーム王子から目を掛けられることになるはずがないのだ。
そこが少し疑問に思う部分だった。
それをユーヤに尋ねてみたことがあるが、ヤツは笑いながら「いろいろと事情があるのだ」と言ったのだが。
ヤツは意外にも嘘は言わない。
あんなにも腹黒なのに、偽りを口にすることだけはしないのだ。
あんなにも陰険で底意地が悪いのに。
そして、俺はユーヤの弟であるツクモにも、彼がカルセオラリアに来るまでは一度も会ったことがなかった。
弟がいることは知っていたが、城ではない別の場所で重要な仕事をしていると聞いたぐらいだったのだ。
だから、ツクモは、俺がセントポーリア城に滞在中も、別の場所でこの主人とその母親をずっと護り続けていたということらしい。
そうなると、城から離れている期間に、スカルウォーク大陸言語を身に付けていたのだろうか?
つまり、いつか、シオリは自国から離れることになると想定していたということになる。
尤も、それも彼女の血筋や才能を理解した今では、当然の結果だろう。
この娘は、野心のある男にとっては魅力があり過ぎるのだ。
「えっと、一年ぐらいでしょうか」
シオリは俺の言葉に迷いながらも返答する。
一年だと?
たった一年で、簡単な読み書きができる程度になったというのか?
「たったそれだけで、スカルウォーク大陸言語をマスターしたのか?」
「マスターはしていませんよ」
栞は苦笑しながらも答える。
それでも、日常生活に支障がない程度に理解できているのなら、それはマスターしていると言っても言い過ぎというわけではないだろう。
「俺は5年もいたシルヴァーレン大陸言語を読むことにもこうして苦戦しているのに」
2歳も年下の娘に愚痴を言うしかできない自分が情けなくて、溜息を吐く。
「興味の問題じゃないですか? トルク……は、セントポーリアにいた時、本を読みましたか?」
「暇な時に、本は読んでいたぞ」
他大陸での滞在中は、賓客とは少しだけ違う扱いをされる。
ずっと王族や貴族として扱われるわけではないのだ。
5年という長期滞在中に、ずっと他国の王族に対して歓待を続けるなど、中心国であっても容易ではない。
そうなると、滞在期間中は、その国の人間と交流を深めつつも自分一人で過ごす時間も出てくる。
本を読む人間も少なくない。
「それは、シルヴァーレン大陸言語で書かれた本ですか? それとも、スカルウォーク大陸言語で書かれた本ですか?」
さらにシオリから問いかけられて……気付く。
「スカルウォーク大陸言語だった気がする」
他国に来て自国の本を読む。
そんなことをしていれば、他大陸言語などいつまで経っても、覚えられるはずもない。
勿論、教養として全く覚えていないわけではないが、自国から読める本を持ち込めるのに、滞在先で読み慣れない文字と向き合ってまでセントポーリアに読みたい本があるとは思えなかった。
もし、植物図鑑など製薬に活かせるようなものがあれば興味を惹かれたかもしれないが、セントポーリア城にある書物庫にそんなものがあるかを確かめることすらしていない。
それを確認するだけでも何か違っただろうか?
「今からでも覚えられますよ」
シオリは、微笑みながら俺にそんな優しい言葉をかけてくれる。
「そうだろうか?」
「トルクは、そうしなければならないでしょう?」
だが、シオリは優しいだけの女じゃなかった。
「それなら、頑張るしかないじゃないですか」
次々と笑顔で俺に現実を突き付けてくる。
ユーヤともマオとも違う種類の退路を断つ笑み。
それは、素直に応援してくれているのだろうけど、その実、逃げることだけは許さないとも言っている気がする。
「大丈夫ですよ。半年ぐらい一日に数冊の本を、毎日欠かすことなく読むだけで、ある程度、文字は読める気になります」
「……なんだと?」
一日に数冊の本?
それを半年もの長期間、毎日欠かさず?
「流石に十冊以上読むのは疲れますが、5冊程度なら毎日読んでも苦痛にならないでしょう?」
「いや、それは本好き視点の話であって、本が苦手な人間にはかなり辛いものだぞ?」
俺はそこまで本が苦手というわけでもないが、興味のない系統の本ならば数分で眠りに落ちる自信がある。
実際、この記録されたものも、何度か眠気と戦っている部分はあるのだ。
ミオに関することだから興味がないわけではない。
俺たちがカルセオラリアに向かったその夜。
純血の「綾歌族」によってミオがここからかなり離れた場所へ連れ去られたことは理解した。
だが、その先に書かれていた上空のかなり高い所にあった城塞の話で眠くなった。
雲より高い場所に浮いた建物に興味が持てなかったのだ。
いや、実際、そんなものを自分の目で見ることができたら驚くだろうし、興奮もしてしまうだろう。
そして、その技術は純粋に凄いと思う。
だが、俺は兄上や妹ほど機械国家向きの考え方を持っていないし、ミオやマオほど魔法国家向きの思考をしていない。
だから、その建造物が宙に浮いていることも、構造上の仕掛けによるものなのか、魔法によるものなのかも全く気にならなかった。
気付けば、シオリの言う「机と仲良し」状態に何度もなっていたのだ。
この集中力の無さが俺の不勉強の敗因だと思う。
「ふむ……」
シオリは何やら考え込む。
「マオリア王女殿下はこの報告書をもとに、シルヴァーレン大陸言語を勉強しなさいと言うことだったわけですよね?」
「そうだな」
「それなら、これを使わずとも勉強できるところを見せれば、問題なくなるんじゃないですか?」
「あ?」
俺の理解力が悪いのか、シオリが何を言いたいのか分からない。
「つまりですね」
そう言いながら、シオリはさらさらと紙に何かを書き付ける。
見たところ、シルヴァーレン大陸言語のようだ。
「これを読んでみてください」
「俺はシルヴァーレン大陸言語が苦手だからこんなことになっているんだが?」
そう言いながらも、俺はその紙に目を通す。
「トルクがシルヴァーレン大陸言語を読むことが苦手なことは知っています。でも、少し見ただけで、この文章がシルヴァーレン大陸言語で書かれていることが分かるぐらいには理解できています」
「流石にそれぐらいの知識はあるよ」
内容は……、色? そして……、特徴?
眠り……?
「そして、わたしはトルクが薬の調合と植物のことが大好きだってこともよく知っているんです」
その言葉で、何故か俺は理解できた。
そして、何かが噛み合ったかのように脳が急速に働いていく気配がする。
これまで別々だと思い込んでいた単語が少しずつ絡み合い、繋がりを見せ、ただ一つの解を導き出していく。
「さて、トルク。それは何の植物でしょうか?」
ニヤリと笑って俺に問いかける可愛らしい女性。
これだけの特徴がある植物など、そう多くはない。
「勿論、『食虫樹』だ。シオリ」
だから、俺も笑って答えることができたのだった。
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