護衛の葛藤
オレが知らない間に、栞があの紅い髪の男に対して、「嘗血」行為……、血を舐めた話は聞いていた。
当人は大怪我の治療……、医療行為の一種として受け止め、素直にヤツの指示に従ったらしい。
当時の栞は今よりもっと無知で、さらに、治癒魔法も使えない状態ではあった。
だから、理解できなくもないのだが、考えることを放棄したくもなった。
栞が自分の手で示した場所は、左の腹直筋から右の外腹斜筋にかけてだった。
しかも、手のひらを広げたままだったということは、それだけ広範囲だったと思われる。
位置的に、袈裟懸けのように肩から腰に掛けてではなかったようだが、その傷の深さによっては、かなりの出血量でもおかしくはない。
恐らくは筋肉や骨に護られはしただろうが、それでも、いきなりそんなものを見せられた栞が混乱したことは想像できる。
だが、問題はそこではない。
正直、ヤツの怪我は自業自得でしかないのだ。
栞が気に病んで、癒してやる必要性はどこにもなかった。
それなのに、彼女はヤツが望むまま、傷を癒すことにした。
ヤツの指示通りに、腹の傷を舐めたのだ。
そう、腹だ。
栞が舐めたのは腕とかだと思っていたが、腹だった。
あの野郎。
栞の優しさに付け込んで、とんでもないことを要求してやがった。
傷を癒すために、舐めたってことは、その、ヤツの腹の上を栞の紅い舌が這ったってことだよな?
しかも、それはオレが「発情期」になる前の話だ。
今度会ったら、殺して良いか?
良いよな?
ああ、クソ!!
水尾さんを助けてくれたからって、やはり、あの男をあのまま見逃してはいけなかった。
そんなこと、オレだってしてもらったことねえのに!!
「結構な範囲だったんだね」
「はい。だから、わたしも焦ってしまって……」
兄貴も範囲が広いと判断したらしい。
さらに続けて確認している。
「骨が見えたりとかは?」
オレや兄貴ならともかく、そこまで確認しているだろうか?
「溢れてくる血が多くてそこまでは……」
栞も戸惑いながら、なんとか思い出そうとしている。
「でも、ライトの自己申告では、臓器とか、骨の方には異常がないとは言っていました。わたしに気を遣っていた可能性もありますが……」
「崖から落ちたにしては、被害が少ない気がするかな。骨が折れて貫通していなかったなら、もしかしたら、一度、転移魔法を使っている可能性はあるね」
まあ、意識があったなら、素直に崖から落ちるなんて無様はしてないだろう。
オレの場合は、ミラが崖崩れに呑まれるところを助けたから仕方ねえ。
上空から急降下して、腕を掴んで引っ張るのが精いっぱいだったのだ。
言い訳だよ。
分かってるよ!!
あの時のアレはオレの未熟だ!!
「それで、どれぐらいの効果だろうか?」
「少し、敏感になったかな? ってぐらいですかね? もともと、わたしはそこまで他人の体内魔気に対して敏感ではないので……」
あれが少しだと?
「オレが気付かなった気配にも気付くほどだ」
「ほう」
カルセオラリア城の城壁でも、「ゆめの郷」も、オレは全く、ヤツの気配に気付くことができなかった。
栞に言われて、そこに意識を集中させて、ようやく気付いたぐらいだ。
あの時は驚いたが、その時点で栞はヤツに「嘗血」ってやつをしていたのだ。
つまり、それだけ、強く結びついていたってことになる。
「九十九よりも先に勘付くことができるのか……。しかし、それだけの範囲の傷を癒すための行為だったということは、ほんの数滴ではなかったことだろう」
確かに栞の示した範囲は広く、そこを全て舐めたと言うのなら、出血量にもよるが、2,3滴というわけではなかっただろう。
「そうなると、針を刺して……、というわけにはいかないか。あまり深い傷を負わせたくはないのだが……」
針で一刺しするのと、刃を使うのでは出血量も痛みも違う。
「ひ、必要なら、頑張ります!!」
それが分かっているのに、栞が両手に拳を握り込みながら、そう言った。
「お前、そこで変な根性を見せるなよ」
「でも、九十九が『治癒魔法』を使ってくれるのでしょう?」
「それでも! オレはお前に傷つけたくないんだよ」
そこを分かって欲しい。
「つまり、わたしが自分で傷つければおっけ~?」
「全然、良くねえ!!」
寧ろ、ふざけるな。
そんなこと、オレが許すはずがないだろう?
「でも、傷つけずに普通は血が出ないから雄也さんが望む『嘗血』行為ができないよ?」
「分かった。兄貴、諦めろ」
「……断る」
兄貴はいつものように即答はしなかった。
だから、分かる。
兄貴も傷つけたくはないのだ。
「じゃあ、どうしますか?」
栞はオレではなく、兄貴に問いかける。
望んだのは兄貴だ。
だから、それは正しい。
だけど、それは何かが違う。
オレがそれを許せる気がしない。
「わたしが自分で傷つけることが駄目なら、雄也さんが、わたしに血を流させますか?」
それは絶対に違う!!
「それをキミが望むなら」
「自分だと、やっぱり、手元が狂いそうなので、できれば、九十九か雄也さんにズバッとやって欲しいんですよね」
笑ってはいるものの、栞は少しだけ声を震わせた。
「いや、『ズバッ』はやり過ぎだろう」
思わずそう口にしていた。
「それでは、九十九はどうしたい? お前が嫌なら、俺がやるし、お前が見たくないなら、お前がいない所でやる」
兄貴が結論を迫る。
栞もオレを見た。
「栞は、どちらにして欲しい?」
これがオレの譲歩だ。
彼女が願うならオレは覚悟を決める。
望んだのは兄貴だ。
だから、兄貴を選ぶ可能性の方が高いと思った。
それなのに……。
「それじゃあ、九十九にお願いする」
あっさりと、最初から決まってたかのようにそう口にした。
「九十九なら、料理が得意だから、この腕をスパスパと三枚におろすこともできるでしょう?」
「おろさねえよ!!」
どんな料理人なら、自分の主人の白い腕を迷いなく、三枚におろすことができるのか!?
「九十九で良いんだね?」
「はい」
「一応、理由を聞いても?」
「『治癒魔法』を使う人間だから、逆に切ったら駄目な筋や神経とかも理解しているんじゃないかって思って。いや、雄也さんも知っているとは思うんですけどね」
ちゃんとした理由があるらしい。
アホだな、オレ。
それでも、兄貴じゃなく、オレを選んでくれたことが嬉しいだなんて……。
それなら、オレも切り替える。
兄貴が望み、それに応える主人のために、逃げることはしない。
「兄貴、どれぐらいの出血量が良い?」
「指定できるのか……」
栞がそう言うから……。
「おお。薄皮一枚も可能だぞ」
オレも素直に答える。
自分の腕で何度も試している。
最近では実践する場も増えたから、力加減だって可能だ。
ただ、オレの腕よりも栞の腕の方がずっとその皮膚が弱そうではあるところが気になるな。
「ちょっと触らせろ」
「ふへ?」
返事を聞かずに、栞の白い腕に触れる。
やっぱり柔らかいし、肌もきめ細かいな。
外気に晒されているけど、日焼けもないし、染みもない綺麗な腕だった。
「つ、九十九……、ひやっ!?」
改めて撫でてみても、やはり皮膚がオレよりも柔らかい。
―――― ごんっ!!
頭から奇妙な音が聞こえるのと、痛みが走るのはほぼ同時だった。
「触り過ぎだ」
兄貴の声で、ようやく自分が何をしていたかを理解する。
オレは、ここぞとばかりに栞の腕を握った上、丹念に撫で回していたのだ。
「ああ、悪ぃ」
同時に、もっと撫でとけば良かったとも思ったのだが……。
「そ、それで、ズバッといけそう?」
栞が顔を真っ赤にしながらも確認する。
あれ?
もしかして、オレが撫でまわしたから、くすぐったかったか?
そんな可愛らしい栞の顔に、心の中でご褒美をもらった気分になる。
「多分、大丈夫かな」
普段、使う刃物より、薄くて鋭いものを使おう。
逆に痛くはないはずだ。
栞が痛みを感じる前に兄貴に素早くその腕を舐めさせれば、それも嫌だな。
必要だと分かっていても、そこが引っかかる。
少し考えて、あることを考えた。
「ただ、オレもお前に頼みがある」
「ふ?」
まだ赤みのひかない顔のまま、栞はオレを見る。
「オレも舐めさせろ」
「ふわっ!?」
オレの言葉に栞は自分の両腕を後ろに引いた。
おいこら?
兄貴の時は全く嫌がってなかったのに、オレの時はその反応ってどういうことだ?
傷つくぞ?
「つ、九十九は必要なくない?」
「オレも記憶している限り、『嘗血』はしてない。それなら、もっと反応が鋭くなれば、今よりもお前の役に立てる」
「うおおおお……」
消え入りそうな声ではあるが、そこに女性らしさより男らしさを感じるのはどういうことだろうか?
それでも、可愛い。
栞の反応が変なのは、まだオレに対する苦手意識が残っているのだろう。
だが、明らかに嫌がられているのは分かっていても、ここで退きたくはなかった。
「分かったら、観念して、オレにその腕を差し出せ、栞」
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。




