できることと、できないこと
何を言われたのか、本気で分からなかった。
「いつか、もし、わたしが本当に化け物になっちゃって、九十九にも止めることができないと思ったら……」
栞はオレの腕の中で震えながら……。
「あなたの手でわたしを殺してください」
そんな残酷な願いを口にする。
本当に、思考が止まってしまったのだと思う。
頭が白くなって何も考えることができなかった。
誰が、誰を、殺す?
「九十九……?」
そんな声を聞くまでは、もしかしたら、呼吸すら止まっていたのかもしれない。
それほどの衝撃をオレは受けたのだ。
オレは大きく息を吸う。
「ふざけんな!!」
そして、そう叫んだ。
「今後、お前がどんな化け物になっても、オレがその選択を選ぶことはねえ!!」
主人である彼女の願いはオレの手で、できる限り叶えたい。
だが、それを聞き入れることだけはできなかった。
それは、オレにとってできないことだから。
「で、でも……」
「なんと言われてもそれを聞く気はねえ。どうしても従わせたいなら、『命令』しろ」
栞の細い肩がビクリと大きく震える。
彼女はオレに「命令」することを好まない。
それを知っているからこそ、そう口にするしかなかった。
「お前が化け物になって世界を滅ぼしたいと願うなら、その意思にオレは従う」
「そんなっ!?」
驚くほどのことでもない。
そして、兄貴も同じことを言うだろう。
この世界よりもずっと重くて大切な存在。
「それでも、わたしは無意識のまま、人を傷つけてしまうことだってあるんだよ? それは九十九たちも例外じゃない。あなたはそれでも良いの?」
「お前に負わされる傷ぐらい問題にならない」
寧ろ、望むところだ。
彼女が他の人間を傷つけるよりはずっと良い。
「わたしは、あなたたちまで傷つけたくないんだよ」
その気持ちは嬉しい。
彼女はそれを本心から言ってくれている。
だが……。
「お前を失うぐらいなら、オレはいくら傷ついても構わない」
それぐらいなら、彼女の手によって齎される死すら喜んで受け入れよう。
「九十九……」
消え入るような声で、自分の名を呼ばれる。
「間違えるな、栞」
これだけははっきりさせておく。
「世界よりも何よりも、オレはお前の方がずっと大事なんだ」
「どうして、あなたはそう……、いちいち重いの?」
彼女は力なく大きく息吐きながら、なかなか失礼なことを口にする。
だが、本心だから仕方がないじゃないか。
「そんな台詞は、好きな人にこそ言うもんだよ」
そして、オレの心はいつものように伝わらない。
いや、伝わらない方が良いのだけど。
「本当のことを言って何が悪い?」
顔も見ずに耳元で囁くと、先ほどとは違った意味で栞の全身がビクリと動いた。
それも、耳を真っ赤にして。
可愛い。
心からそう思う。
それをどこまで伝えて良いのか迷うところだけど。
その基準をオレが持っていないのだからこればかりは仕方がないのか。
「分かった。それなら、九十九以外の人に頼む」
「おいこら」
迷いもなくもっと酷い選択肢を選びやがった。
何故、そんな結論になるのだ?
この女の発想はいろいろおかしい。
「わたしは九十九が止められなかったら……って言ったよ」
「あ?」
「あなたは多分、わたしが本当に化け物になったのなら、全力で止めようとしてくれると思うんだよ。それこそ、命懸けで」
「そりゃ、そうだろう」
栞が望まないことなら、全力で阻止する努力はする。
ただ、もともと栞とオレの間には、生まれつきの大きな差があるのは事実なのだ。
王族の血を引く「聖女の卵」と、素性不明の「護衛」。
そこには悔しいが、常に越えられない壁、埋められない溝のように存在しているものがある。
多少の小賢しい程度の工夫ではどうにもならないこともあるだろう。
「だから、わたしが完全に化け物になっているということは、既に、九十九に何かがあった時ってことかなと思う」
「不吉なこと言いやがって」
だが、恐らくそういうことになるだろう。
栞の状態が手遅れなら、オレが既にこの世にいない可能性が高い。
「それなら、それらの後始末は別の人に頼むべきかなって思い直した」
「さらに不吉なことを続けるな」
ああ、でも、それは少しだけ悔しい。
それだけの信頼は得ていると分かるのだが、それは一番、大事な部分をオレ以外の誰かに任せるということになる。
その役目が兄貴なら良い。
兄貴なら許せる。
ずっとそうだったから。
だが、それ以外の男に任せたくはなかった。
自分の心が狭い自覚はある。
なんとなく、オレの頭のどこかで、紅い髪の男が皮肉気に笑った気がした。
アイツには任せたくない。
だけど、栞は、オレがダメな時に頼るのは、なんとなく、兄貴ではなく、何故かあの男のような気がした。
そして、あの男なら、彼女の願いを叶えることに僅かな迷いも見せないだろう。
「分かった」
「ふ?」
「もしも、お前がどうあっても元に戻らない時は、オレの手で始末をつけてやる」
思わず、手に力が籠められる。
オレだって、そんな役目はしたくない。
だが、他の人間にそれを譲りたくはねえ。
「そっか……」
そう言って、栞は身体から力を抜く。
「嫌な役目を押し付けてごめんね」
「…………」
そんな栞の言葉に、オレは何も返せなかった。
****
「間違えるな、栞」
九十九はわたしを抱き締めたまま、鋭い声でそう言った。
「世界よりも何よりも、オレはお前の方がずっと大事なんだ」
彼がそれをどんな顔で言ってくれたのかは分からない。
だけど……。
「どうして、あなたはそう……、いちいち重いの?」
毎度、九十九はどうしてこんなことがあっさり言えてしまうのだろう?
これは、わたしの方が慣れなきゃ駄目なのかな?
「そんな台詞は、好きな人にこそ言うもんだよ」
いや、恋人相手にでも重すぎる気がする。
本当に彼の未来の恋人や奥さんには同情するしかない。
「本当のことを言って何が悪い?」
だが、わたしの心配も無視して、彼はわたしの耳元で囁く。
蕩けるような甘い声と微かな吐息がわたしの耳を擽り、分かりやすく身体が震えてしまった。
揶揄われていると分かっているのに、思わず過剰反応してしまう我が身が憎い。
「分かった。それなら、九十九以外の人に頼む」
悔しいからそう言うしかない。
「おいこら」
流石に不服そうな声になる。
「わたしは九十九が止められなかったら……って言ったよ」
「あ?」
「あなたは多分、わたしが本当に化け物になったのなら、全力で止めようとしてくれると思うんだよ。それこそ、命懸けで」
「そりゃ、そうだろう」
迷いもなく即答される。
その言葉に嘘がないから困る。
それに、彼が命を懸けてもわたしが止まらない時というのは……。
「だから、わたしが完全に化け物になっているということは、既に、九十九に何かがあった時ってことかなと思う」
「不吉なこと言いやがって」
でも、そんな気がするんだよね。
「それなら、それらの後始末は別の人に頼むべきかなって思い直した」
「さらに不吉なことを続けるな」
既に九十九が何らかの形で行動不能になっているなら、わたしを止められる人はいない気がする。
そして、そんな状況なら雄也さんや水尾先輩でも無理だと思う。
寧ろ、そんな状態のわたしとは絶対的に相性が悪い。
なんとなく、そんな気がするのだ。
その理由はよく分からない。
でも、そう考えるってことは、やはり、九十九はわたしの最後の砦ってことなのだろう。
「分かった」
「ふ?」
わたしの話をどう解釈したのか。
暫く考え込んだ後、九十九はそんなことを言った。
「もしも、お前がどうあっても元に戻らない時は……、オレの手で始末をつけてやる」
抱きしめられている両腕に力が込められたのが分かる。
それが、どれだけの苦悩の果てに導き出された結論なのかは分からない。
彼だって、そんな役目は嫌だろう。
わたしもライトから言われた時、反発したのだ。
それなのに、今、自分からこんなことをお願いしている。
なんて矛盾なのだろうか。
でも仕方がない。
あの頃よりずっと強く深く理解してしまっているのだから。
―――― 人間の意思程度では、神に勝つことなんかできないって。
「そっか……」
だけど、それでも、九十九は引き受けてくれた。
「嫌な役目を押し付けてごめんね」
誰だって親しい友人を殺せと言われて簡単に納得もできないし、ましてや、承知することなんてできないだろう。
だけど、それでも迷いながらも主人であるわたしの意思を尊重してくれた。
一度は「命令しろ」とまで言って拒んだほどなのに。
そのことが凄く嬉しい。
なんだろうね?
これも試し行動の一種になるんだろうか?
勿論、わたしだって、簡単に化け物になる気などない。
わたしの意識を飛ばさなければ大丈夫だ。
もしくは、大神官である恭哉兄ちゃんに相談するべき……、だろうか?
「ねえ、九十九……」
その前にちゃんと九十九に話すべきだろう。
わたしがそう言いかけた時だった。
「あのな~」
ふと後ろから声がした。
「いくら私が寝ているとはいっても、そのすぐ傍でイチャイチャするのはどうかと思うぞ?」
そんな呆れたような声で紡ぎ出される言葉と……。
「ひぃあああああああああああっ!?」
九十九に抱き締められたままだったわたしの、どこか、いや、かなり情けない奇声が部屋に響き渡るのはほぼ同時だった。
ここまでお読みいただきありがとうございました。




