その瞳に映るのは
おいおいおい?
最初にオレが思い浮かんだのはそんな言葉だった。
栞が樹液入りの小瓶を自分の前に置き、玻璃棒を両手でしっかりと握りしめた。
その握りしめた様が既におかしい。
それだけのことなのに、オレには何かに祈りを捧げる姿にしか見えなかった。
まるで、聖杖を持ち、神事に臨もうとする大神官のように。
惜しむべくはその表情だ。
秘めた決意が目に見えて分かり、そこには厳かさの欠片もない。
そして、小瓶の蓋を開け、玻璃棒で薬を混ぜながら、いつものように歌い始めると、栞のその表情の変化に息を呑むしかできなかった。
いつもと表情が全く違うのだ。
選曲のせいもあるのだろうが、これまでに見たこともないぐらい、優しさと慈愛に満ちた表情をしていた。
人間界には、この世界と同じように「聖女」という言葉もあったが、「聖母」という言葉もある。
確か、「聖人」を生み出した母親のことだ。
もし、そんな存在がこの世にいたとしたら、こんな表情をしているのかもしれない。
オレは母親という存在を覚えていないが、やはり、こんな顔をしてオレを見つめてくれただろうか?
そう思いかけて首を振る。
今は、栞のことだ。
そんな感情に気を取られてはいけない。
部屋に響き亘る声。
決して大きな声ではないのに、掻き混ぜられている小瓶に入った樹液が、彼女の動きと異なる揺れを見せ始める。
そこは予想していた。
薬の製作は常に変化のあるものだ。
何の変化も反応もないとは思っていなかった。
だが、周囲の状況がオレの予想を遥かに超える。
港町ではここまでの変化はなかった。
それははっきりと言いきれる。
自分が演奏者側に回っていたとしても、栞の傍にずっといたのだ。
僅かな変化すら反応できる自信があった。
だが、今はどうだ?
栞の周囲が薄い橙色の何かが集まってくるのがオレの眼にも分かる。
兄貴からはこんな話は聞いていない。
歌った時に大気魔気の変化があったとは聞いてたが、これはただの大気魔気の変化じゃねえぞ!?
どういうことだ!?
歌は昔、聞いたことのある子守歌だった。
この歌、4番まであったのか。
2番までは覚えていたが、3番、4番は知らなかった。
似たような歌詞だから、確かに、一回で覚えられる気がしない。
そして、一度、歌い終わっても、栞は止まることなくその歌を繰り返し始めた。
それはオレのためではなく、薬のためだろう。
5分以上、きっちり歌ってくれるようだ。
昔、カラオケで聞いた時、栞の歌は正直、上手いわけではなく、だからと言って極端に音を外したり、テンポが崩してしまうような音痴というほどでもないと感じた。
良くも悪くも普通だなと思ったのだ。
声は可愛い。
それは間違いない。
それはオレ以外のヤツらも認めている事実だ。
それでも、単純に技術的な話であれば、一緒にいた若宮や高瀬の方が上手いと思う。
だが、もともと人間界で培われた音楽の知識と技術。
そして、ストレリチア城に滞在している時に、演劇経験があるという若宮によって、割と本格的に見えるボイストレーニングというやつをさせられていた。
その上、「聖女の卵」として、「聖歌」の練習をする機会もあった。
それも、大神官直々の指導によるものだ。
中途半端は許されない。
さらには、この女は日常生活において、気分転換にする筋トレメニューに腹筋運動を取り入れ、腹筋を鍛えている。
それらのことから、本人が深く意識していない所で、歌の技術が上がっていくのも道理だろう。
特に童謡や合唱曲は、彼女にとって感情を込めやすく、伸びやかに歌えることも大きいようだ。
何よりも、彼女自身、歌うことが大好きだと知っている。
御機嫌な時は無意識に鼻歌、いや、小さな声で邦楽や合唱曲、童謡だと思われる歌を歌っているのだ。
歌が嫌いな人間ではありえない。
オレはぼんやりと彼女の歌を聴きながらそんなことを考えていた。
―――― 自由に歌わせてやりたい
オレがそう願っても、これだけの現象を見せつけらてしまえば、歌うことそのものを禁止せざるをえなくなるかもしれない。
彼女の歌声で影響が出るのは、「聖歌」だけに留まらない証明となってしまっている。
だが、何故だ?
これまでにこんな現象はなかった。
港町で、一瞬、風景を変える程度の現象は起こしたが、あれは、独自魔法と似たようなものだと思ったが……。
いや、待て?
それ以外も……、「故郷」という唱歌で、港町の男どもを号泣させている。
オレたちには影響がなかったから単純に聞き慣れない歌を聴いて感動しただけだと思ったが、よくよく考えれば、そのこと自体、おかしいのだ。
あの酒場に来ていたのは、もともと元神女だったという歌姫の「聖歌」を聴いたことがある奴らばかりだったはずだ。
つまり、これまでに全く歌を聴いたことがない人間たちとは違う。
確かに感動する歌詞ではあるが、あそこまで大の男が揃いも揃って感情を剥き出して大泣きするほどのものかと問われたら、流石に首を傾げざるを得ないのだ。
一人なら感受性の豊かな人間だと思えた。
だが、あの場で泣かなかったのは、例の神官たちと、オレを含めた栞の関係者ぐらいだったのだ。
そんなことがあり得るのか?
そして、オレはともかく、兄貴や大神官は本当にそんな事実に気付かなかったのか?
「九十九~、もう5分以上経ったよね~」
どこか呑気な声が聞こえてきた。
オレは顔を上げると、いつもの可愛い主人が笑っている。
そこには先ほどの面影もない。
オレがよく知る目の離せない主人の顔だった。
「結局、一人で歌えるじゃねえか」
オレは先ほどまでの思考を隠して、彼女に応える。
「いや、どうせ歌うなら、薬の実験用を一つ終わらせたくなっちゃって……、つい……」
照れくさそうに笑う姿は、いつもの「高田栞」だ。
「それで、覚えれそう?」
「無理。何回か歌ってくれたのに悪い」
正直、それどころじゃなかった。
歌を聴いて歌詞を覚えるよりも、それ以外の思考で頭が占められてしまったのだ。
「それで、何か分かった?」
「あ?」
「考え事をしてる顔してたよ」
そう言われて、なんとなく、口元に手を当てる。
栞が歌ってくれていたのに、思考に没頭していて気もそぞろだったことはしっかりバレているらしい。
「いや、何も分からない」
それなのに、オレの中には具体的な答えは出なかった。
「まあ、まだ疲れているんでしょう」
オレのことを気遣うように栞はそう言って笑ってくれる。
「仕方がないから、もう一曲、歌ってあげよう。何が良い?」
「は?」
「もう少し、考えたいのでしょう? わたしの歌について」
その言葉を聞いて、自分の心を見透かされたのかと思った。
「この島に来て、なんか変な感覚なんだよね」
さらに、栞が不意に話題を変える。
「へ、変って……?」
急な話題変更になんとかついていく。
「正確には、この島の中央で、ああ、あの『綾歌族』の人に会ってからかな? 歌う時に周囲の大気魔気が凄い勢いで流れているのは分かるのだけど……」
そう言って栞はオレをまっすぐに見る。
「あなたのその眼には、何が映った?」
栞も自分に変化があったことには気付いていたようだ。
「オレ自身もよく分からない」
先ほどのあの現象が何であったのかなんて、本当に分からなかった。
推測はいくらでも立てられる。
だけど、それが事実であるかの確証がない。
「じゃあ、言葉を変えようかな」
栞が少し寂し気に微笑む。
「あなたの眼には、ちゃんとわたしは『高田栞』のままかな?」
そんな不思議なことを尋ねられた。
何を言っている?
どこをどう見ても、目の前にいる女は「高田栞」以外の何者にも見えない。
それ以外に考えられることは……。
「まさか、記憶が……、戻ったのか?」
オレがそう尋ねると栞は静かに首を振る。
「違う。そんなんじゃなくて……」
栞はそのまま俯いて……。
「あなたの眼に映っているわたしは、化け物じゃない?」
消え入るような声でそんなことを口にしたのだった。
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