帰還
ぼんやりとした感覚。
そして、その気配が大きく動いたことだけが分かった。
「……ん?」
温かい蒸気に包まれ、うっとりとしていた時だった。
思わず、顔を上げて、その居心地の良さから逃げ出すようにわたしは扉に向かった。
「栞ちゃん!?」
背後から雄也さんの声。
だけど、それよりももっと聞きたい声がある。
その扉が壊れてしまうんじゃないかって思うほど勢いよく開けて、わたしは外へ飛び出した。
そこには暗い海があった。
波の音は静かで、吹き付けてくる風の音に消されてしまいそうだった。
「……あれ?」
わたしは首を捻った。
外に出ればもっと分かりやすく感じるはずの気配が不意に消えてしまったのだ。
だが、後ろにいた護衛の判断は早かった。
ぼんやりとしていたわたしの腕を引き、そのまま、自分のもとに寄せる。
わたしは雄也さんに肩を抱かれるような態勢になった。
なんとなく唾を呑み込むと、思いのほか、自分の耳に大きく届いた。
自分も緊張している。
だけど、恐らく、雄也さんも緊張している気がした。
わたしを抱き寄せている手が少しだけ、いつもより固く感じる。
移動魔法独特の空間が歪む気配が、先ほどまでわたしの立っていた場所にあった。
そこにいたら巻き込まれていたかもしれないと思うほどの距離。
尤も、それはありえない。
それを計算できないほどの相手ではないと知っているから。
そして、その場に一組の男女の姿が現れた。
わたしはその目をいろいろな意味で疑うしかない。
九十九が水尾先輩をお姫様抱っこしている事実にびっくりだし、それが妙に絵になっていることも驚きだ。
さらに、その腕の中にいる水尾先輩の様子が明らかにおかしい。
いつもの体内魔気の猛々しく燃えるような気配がなく、別の人間のように思えた。
しかも、その表情は、彼女自身の意識があるのかないのか分からないほどぼんやりとしている。
「み、水尾先輩!?」
雄也さんに肩を掴まれたまま、叫んだ。
わたしの声に反応して、水尾先輩が顔をこちらにゆっくりと向けてくれる。
「た……、高……?」
そして、そのまま、意識を落とした。
「水尾先輩!!」
思わず駆け寄ろうとしたが雄也さんに肩を掴まれたままだったために、身動きができない。
その手はいつもより力強く押さえつけるようにわたしをその場に縫い留めている。
こんな状況で雄也さんがわたしを止める理由などそう多くないはずだ。
だけど、わたしにはその理由が分からなかった。
「雄也さん?」
雄也さんの顔を見ると、厳しい目で前を見ている。
「九十九……?」
その視線の先にいるのは弟である九十九だった。
そして、その九十九の様子もどこかおかしい。
わたしはまた唾を呑み込んだ。
その九十九の表情が、以前見たことがある何かと重なったのだ。
それを思い出してしまったその瞬間――――、わたしの背中から全身に、大きな震えがきた。
わたしはまだ忘れていない。
ふとした時に思い出す感情。
それは、この身を今も激しく震わすほどの恐怖と、内側から迫りくるナニか。
「後で話す」
そんな低い声が聞こえ、わたしは顔を上げる。
彼はわたしを見ないままだったが、その声には僅かながらも、気遣う感情があった。
それだけでも、あの時と似ているようで違うことがはっきりと分かる。
わたしは、自分の腕を掴んで、唇を噛み締めた。
―――― 情けない
表面の変化だけでなく、その本質こそ見落としてはいけないのに。
この状況で言葉少なな彼に何の事情もないはずがないのだ。
「水尾さんを頼む」
九十九は雄也さんに対してそんな言葉を口にした。
雄也さんは頷き、わたしの肩から手を離してくれた。
わたしは一歩、後ろにさがる。
邪魔をしてはいけない。
彼らには、今、わたしを気にしているような余裕はないのだから。
雄也さんが九十九から水尾先輩を受け取る。
それでも、水尾先輩の目が開く様子はなかった。
「悪いが、暫く、一人にしてくれ」
「分かった」
珍しく報告らしい報告もないままの九十九の頼みに、雄也さんにしては珍しく事情を少しも聞かずに返答した。
「ならば、そっちの建物を使え。今は誰もいない」
「おお」
それだけなのに、互いに何かを理解しあっている。
それは、彼らが兄弟だから……なのだろうか?
それとも、同性だから?
どちらにしても、何も分かっていないわたしが、下手に口を挟んでこの場を荒らしてはいけない気がした。
それに、九十九は「後で話す」と言ってくれたのだ。
それなら、わたしは主人としても、友人としても、彼のその言葉を信じるしかない。
そのまま、九十九は、最初に雄也さんが出した住居型建物の方へ向かった。
確かに、そちらの方は今、誰も使っていない建物だ。
一人で使う分には広いかもしれないが、ちゃんとそれぞれ専用の個室もあるため、落ち着くこともできるだろう。
「ゆ、雄也さん……」
九十九が建物に入ったことを確認すると、わたしは、事情を理解してそうな顔の雄也さんに呼びかける。
「話よりも先に、水尾さんを休ませようか」
雄也さんが笑いながら、わたしの言葉の続きを制止させる。
でも、優先すべきは確かにそっちだ。
「は、はい!!」
そう返事して、わたしたちが先ほどまで過ごしていた建物に向かった。
彼らが戻ってきたら、飛びつきたくなるほど喜ぶだろうと思っていた。
でも、何故かそんな気持ちが全く湧かなかった。
水尾先輩が意識を落としてしまったことが原因の一つではあるが、それ以上に、わたしは九十九の表情と態度が気になってしまったのだ。
目も合わせてくれないなんて、随分、久しぶりな気がする。
でも、あの時はそれだけの事情があった。
わたしが気付かなかっただけで、九十九はそれでも、わたしを気にかけて、それで、突き放そうとした。
結果、その優しさに気付くことないまま、この上なく近付いてしまったのだが……。
先ほどの九十九はあの時とよく似ていた。
―――― 発情期。
この世界の異性経験のない男性限定で発生する生理現象であり、その身近にいる女性にとっては恐怖の対象となる期間。
でも、それはもう九十九には縁がなくなったはずだった。
彼はもう異性経験がある。
それは人伝とはいえ、その当事者から聞いたのだから、間違いはない。
それに、あれだけ赤裸々な話を聞かされたのに、それが全部、本当はなかったことだったと言われたら、いろいろな意味で「ふざけるな! 」と叫びたい。
―――― ああ、駄目だ
先ほどから九十九のことしか考えていない。
目の前で意識を失っている水尾先輩がいるというのに、それでも、わたしは彼のことしか考えてないのだ。
わたしは薄情な人間になってしまったのだろうか?
「九十九が心配?」
水尾先輩を先ほどまでわたしが眠っていた寝台に横たわらせた後、雄也さんが尋ねる。
「はい」
嘘ではない。
最後まで彼はわたしを見なかった。
そんなの「発情期」の症状が出ている時ぐらいだったのに。
「大丈夫だよ。ヤツは健康そのものだったから」
それは分かっている。
彼の体内魔気は乱れていたけれど、大きな怪我をした様子もなかった。
それでも、気になってしまうのだから、仕方ない。
「ちゃんと分かっているようで良かったよ」
雄也さんが水尾先輩の額や首に手を当てたり、手首を確認しながらそう言った。
でも、分かっているって何のことだろう?
雄也さんは言葉を抜くことが多い。
それも、意図的に。
それはその相手を迷わせるためか、自分から情報を渡さないようにするためか、大事なことには自分で気付くようにするためか、いろいろな理由があると思うけど、同時に意地悪だとも思ってしまう。
わたしに全てを教え、伝える義務は雄也さんにはない。
「わたしは何も、分かっていません」
わたしは素直にそう言った。
「だから、教えてください」
確かに彼らに義務はないのだけど……。
「九十九と水尾先輩の身に何が起きたのですか?」
わたしが願えば、彼らは拒むことができないのだ。
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