甘い誘い
いろいろなことを考えるこの人も、わたしがこんな行動に出るなんて予想もつかなかったことだろう。
寝台に座っていたわたしが立っている人の腕を掴んで自分のもとへ引き寄せれば、大半はバランスを崩してこうなる。
わたしは雄也さんに押し倒されたような形になっていた。
いや、バランスを崩されつつも、なんとか体勢をとろうと雄也さんが少し身体の向きを変えたので、実際は押し倒したというよりも、両腕を支えて、上から覗き込まれているような形となっている。
「栞ちゃん……」
そこにあるのは分かりやすく困惑した顔。
「駄目ですよ。雄也さん」
先ほどまでわたしを「押し倒す」とか言っていたのに。
「そこで迷いを見せている時点で、やはりわたしはあなたを信用するしかなくなるじゃないですか」
本当にそれを企んでいる人なら、この体勢は据え膳ってやつのはずだ。
それでも、動こうとしない。
寧ろ、倒れてわたしの上に圧し掛かるまいと両腕で支えてくれている。
「…………」
だが困惑の色が消え、雄也さんが考え込む。
「駄目だよ、栞ちゃん」
再び、妖艶な笑みが浮かんだ。
これって、もしかしなくても反撃が来るかな?
「そんな風に誘われてしまったら、俺は、応えるしかなくなるだろう?」
そう来たか!?
流石の経験者。
いや、場数が違い過ぎる?
だけど、これは多分、我慢比べだ。
雄也さんの言動が、彼の言う通り、「試し行動」だというのなら、その先にあるのは酷いことをしても、それでも、相手から許されたいという思い。
それは、絶対的な信頼を欲しているってことだ。
それならば……。
「わたしと母からの今ある信頼を失ってもよろしければどうぞ」
相手を信頼できても、相手から信頼されなくなることを望みますか?
常に損得や利害を頭に入れている雄也さん。
だから、そこまで愚かではないでしょう?
そして、これがこの状況にあるわたしの切り札でもある。
わたしからの信頼よりも、母からの信用を失う方が恐らく、この人には衝撃が大きい気がしていた。
心身ともに弱っていた時に、わたしと母を間違えて抱き締めてしまうほど、母を想っているような人だ。
あの時は「親愛」とか「敬愛」とか言われた覚えがある。
そして、本人も本当にそう思っているのだろう。
でも、実際はもっと深い感情だったのではないだろうか?
先ほどの言葉を聞いた後だからそう思えた。
彼ら兄弟は、幼い頃に両親が亡くなり、愛情に飢えてしまった。
そうなれば、欲するのは「親愛」よりも、もっと無償で与えられるべき「恩愛」や「慈愛」と言われる「肉親の情」だったかもしれない。
だから、わたしでは駄目なのだ。
雄也さんのことは、お兄さんのように思えるかもしれないけど、流石に息子のように思える気はしない。
当然ながら、彼もそんなことは望まないだろう。
望まれても困るし。
だけど、母ならば?
恐らく、彼らが幼い頃は、息子のように思って、ミヤドリードさんとともに、彼ら兄弟を育ててきたはずだ。
きっとそれはずっと、彼らが欲しかったもの。
だから、雄也さんは母のことを今でも想っている。
自分に欠けたモノを埋めるために。
渇いたモノを満たすために。
まあ、それを俗に言う「男女の情」ってものかと問われたら、微妙に違う気もしているのだけど。
「栞ちゃん」
雄也さんがいつものように優しく微笑んだかと思うと……。
「ふおっ!?」
「まだまだだね」
そう言って悪戯っぽく笑われる。
今、頬にキスされましたよ!?
それだけなのに、顔が一気に赤くなった。
「身体を張った駆け引きはキミには向いていない。そして、これが俺だから良いけど、九十九を含めた他の男には通じないことだけは絶対に忘れないでね」
そう言いながら、雄也さんは自分の身体を起こして、わたしに向かって片手を差し出してくれた。
先ほどまで雄也さんの身体の陰に隠れていた室内灯が目に入り、少し眩しさを感じて目をつぶる。
「さっきも言いましたけど、こんなことは雄也さんと九十九以外にはしませんよ」
そう言いながら、その差し出された手をとって、わたしも身体を起こした。
「九十九にも止めた方が良い」
「ふ?」
「経験の浅い男は刹那的な欲望を抱くこともある。そんな甘い誘いをされたら、後のことを計算できずに行動に出てしまう危険性が否定できない」
そう言う雄也さんに、先ほどまでの危うさはなかった。
そして彼の言った「甘い誘い」って、「魅惑的」の方ではなく、「浅慮」って感じの意味で使われている気がする。
「分かりました」
要は雄也さん以外にするなということは分かった。
「雄也さんだけにします」
九十九でも大丈夫だと思うけどね。
「いや、俺にも止めてくれると助かるかな」
「ふ?」
「先ほどの行動はキミが主人という立場になければ、俺も誘い込まれたかもしれないから」
「ふわっ!?」
なんか、凄いことを言われた!?
「栞ちゃんはその辺りを自覚して欲しいかな。その気がなくても、機会があればその気になってしまう男だっているんだからね?」
思わず首を縦に振る。
男の人って、そんな単純なの!?
「で、でも、わたし……ですよ?」
わざわざわたしみたいな女性として魅力に欠けるのを相手にしなくても、雄也さんは相手を選べそうなのに……。
「栞ちゃんは十分、俺の範囲内だけど?」
「ふわっ!?」
そう言えば、九十九もそんなことを言っていた気がする。
だから、自分を信用しすぎるなと。
さらに、わたし自身でも気を付けろって。
九十九以外の人から言われて、改めて彼の言葉を実感する。
でも、それってどうなのか?
「後、先ほどの言葉だけど、俺がキミに手を出しても千歳様の信用を損ねない方法もあるよ」
「ほ?」
わたしに手を出しても母の信用を損ねない?
どういうこと?
わたしが首を捻っていると……。
「俺が禁止されているのは、いろいろあるけれど、一番は『栞ちゃんを傷つけること』。だから、傷付くようなことをしなければ問題はないだろう?」
「ぬ?」
わたしが傷付くようなことをしなければ問題ない?
「でも、押し倒した先にある行為って、間違いなくわたしの『傷』になりませんか? 痛かったり、血が出たりするのでしょう?」
経験はないけれど、それに伴う痛みの一部を九十九から与えられ、その時の疑似体験をソウからもされている。
それらを統合すれば、絶対に痛い行為なのだろう。
「…………」
あれ?
何故か、雄也さんが絶句した。
「?」
「あ~、え~、栞ちゃんが自分の性別と俺の性別を考慮していないのはよく分かったかな」
ぬ?
それって遠回しに九十九がよく口にする「お前、オレの性別を忘れてないか? 」ってことを言われている?
「それでは栞ちゃんの問いかけに対する答えを。『押し倒し』イコール『性行為』ではないことは分かるかい?」
「ふおっ!?」
ゆ、雄也さんにしては直接的な単語を使ってきた!?
「そして、先ほど、栞ちゃんが口にした言葉はこれに近いぐらい、俺の性別を忘れた言葉だってことは理解できるかな?」
「ふ?」
わたしは考えてみる。
「男は妄想する生き物だからね。ソレを連想させる言葉だけでも十分、いろいろな感情を刺激されてしまうことをまず、頭に入れておこうか」
「そ、そうなんですか?」
そんなこと誰からも教わって、ああ、だから、今、教えてくれているのか。
あまりにも考え無しなことを言う「主人」に対して。
「そして、男が女性を押し倒す最終目的はそこかもしれないけど、その前に止まることも止めることもできる。そこも分かる?」
「そ、それは、分かります」
実際、彼らは止まってくれたから。
九十九は苦しみながら。
ソウは呆れながら。
「だから、最後までするかしないかで傷も変わるだろうね」
最後までしなければ、物理的な意味でも変わる気がする。
少なくとも、口の両端を引き裂かれるのと似たような痛みはないだろうし、出血もしないことは間違いないだろう。
「それに人間だから、その場の雰囲気に流されたりすることもある。まあ、相手に対する感情と身体の反応は別物だから、ある程度仕方のない面はあるのだけど」
「……そうなんですか?」
あれ?
そういうのって、好きな人とするから良いのでは?
「そうなんだよ。特に男側はね。女性よりももっと単純な造りになっているから」
「ぐ、具体的には?」
「精神的に無理な状態じゃなければ、若いうちは、僅かでも触れるだけでも過敏に反応する」
笑顔で言われた。
そして、どこを? と聞くまでもない。
「わ、若いって、雄也さんもまだ若い……、ですよね?」
いや、何言ってんだ、わたし。
「あ~、流石に反応については十代ほどじゃないかな」
いや、なんてこと言ってるんですか? 雄也さん。
確かに雄也さんは二十歳だけど!
でも、まだ半年も経っていないのだから、それって、十代と変わらないんじゃないんですかね?
その言葉はなんとか呑み込んだ。
今、わたしは明らかにおかしい心理状態になっているのは分かっている。
これはアレだ。
深夜のハイテンションってやつだ。
真夜中で、眠れないから、毎度ながら変な状態になっている。
「だから、あまり九十九を刺激しないでね?」
「しません!!」
なんてことを言うんですか!?
しかも、刺激ってこの場合、心ですか?
身体ですか!?
「まあ、何が言いたいかって言うと……、『双方の合意なら問題ない』ってことかな」
「へ?」
「千歳様からも雇用主からも怒りを買うのは栞ちゃんの意思を無視した時だけ。つまり、キミが受け入れるなら何も問題ないってことになる」
なるほど……。
なるほど?
「そうじゃないと、栞ちゃんは誰とも恋愛ができなくなるだろ?」
「なるほど!!」
それは大問題だ。
「意外な反応だけど、恋愛、したいの?」
雄也さんに言われて考える。
わたしが恋愛?
「まあ? 縁があれば? ……ですかね?」
なんとなく疑問符だらけの解答となる。
少女漫画みたいな恋愛に興味はあるけれど、この世界であんなふわふわキラキラしたものは望めないだろう。
さらに考えて……。
「まあ、やっぱり、縁があれば……ですね」
だけど、自分の中に明確な答えがない以上、今はそう言うしかないのだった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。




