感情の「音」
「でも、普通の歌でも、この薬は喜ぶらしいですよ?」
主人は黒い瞳を瞬かせて俺を見つめる。
彼女が歌う「聖歌」に対して、光り輝く反応を見せた薬は、彼女が歌えば、普通の歌でも感情の音とやらを見せるという。
だが、それについては簡単な答えだ。
「精霊族が見れば、俺や九十九の歌でもその薬が喜んでいるところを見るかもしれないよ?」
もともとこの素材にその性質があっただけの話だろう。
この世界で「音」や「匂い」に反応する動植物は少なくない。
ただその変化を視ることができる眼を持っている人間が、どこにもいなかったから誰もその事実に気付かなかっただけなのだ。
尤も、俺や弟が同じ歌を、同じように歌ったとしても、この主人の歌と同様の効果が表れるとは俺も思っていない。
この主人はあの精霊族の言葉を完全に信じて歌うことにした。
精霊族が言ったとはいえ、「薬が喜ぶ」という普通なら眉を顰めたくなる言葉を頭から否定せず、「この人がそう言うならそんなこともあるだろう」と考えて歌ったはずだ。
そこに込められていた感情は、俺たちが手遊び程度に歌うものとは桁が違うことだろう。
何時間も同じ場所にいて反発するどころか、協力し合って新たな成果を生み出そうとしている辺り、思いのほか、彼女たちの相性は悪いものではなかったらしい。
これは嬉しい誤算だったといえる。
「ただ、あの女性が見た薬の感情というものが、実際の効能として、どんな形で現れているのかが分からないね」
「そうですね……」
眠ってしまった「綾歌族」の女性が視た感情の「音」とやらは、彼女の視点の話だ。
実際に薬に影響があったことは間違いないだろうが、どんな効果が表れるのかが全く分からない。
素直にこの感想の通りの効果なら使いやすいが、そこに劇薬と呼ばれるものが混ざると面倒になる。
要検証だな。
「幸い、治験者には困らない状況にあるわけだが、その方法は、栞ちゃんが嫌だよね?」
俺が念のために確認すると……。
「はい!」
元気よく返答された。
俺としては、彼女を害そうとしただけで、得体の知れない薬に対する治験者として扱うのもかなり優しい罰となるのだが、実際に怖い思いをした本人がそこを気にしていない以上、それは自己満足な考え方にしかならない。
寧ろ、この主人は正当防衛である行いすら、過剰防衛と思っている気がする。
だから、「ゆめの郷」での、愚弟の愚行すら許してしまうのだ。
女性の意思を無視した行為など、生涯、許す必要などないのに。
「精霊族と人間でも効果が変わりそうだから、気にはなるんだけど……」
精霊族に対しては自然物の素材そのものの方が、その効果も出やすいとあの愚弟が言っていた。
そして、人間は加工した薬を服用させた方が、その効果が高いとも。
それならば、自然物自身が満足して変化した薬はどうなるのだろうか?
興味は尽きない。
「少なくとも、本人たちの意思もなく、治験者にするのは嫌です」
俺を説得しようとして強い瞳を向けたのだろう。
だが、それは二重の意味で悪手だというしかなかった。
「栞ちゃんは彼らのことを考えてそう言っているのだと思うのだけど、今のは少し良くない一手かな」
「へ?」
笑いながら言う俺に短い疑問の言葉を向ける。
「この場にいる『精霊族』は、誰一人として、『祖神変化』を起こしたキミに逆らうことができなくなった。その姿を直接見ていなかった『精霊族』たちも、あの瞬間、神に近しい存在が具現化したことをその本能で感じただろう」
それは、俺たち人間には分からない本能的な心理。
絶対的強者に対する単純な恐怖心以外の感情もそこに含まれる。
「そ、それって、つまり、わたしが言えば、彼らは自分の意思と関係なく、断ることができない……と?」
「そうなってしまうね」
先ほどまでそんな話をしていたために、詳細を伝えずとも、すんなりと理解してくれた。
「そしてそれを知っても、キミは彼らの意思を確認するかい?」
それは断ることが前提の問いかけ。
「それは、嫌……です」
案の定、お人好しで、「命令」しなれていない彼女は沈痛な面持ちで首を振る。
だが、彼女は分かっていない。
この島にいる「精霊族」たちは、種族の混ざりによって、本来の世界である「精霊界」に戻ることを許さず、「狭間族」と呼ばれて隔離されていた者たちだ。
そんな人界で生きるしかない「精霊族」たちにとって、本来、この世界にいては出会えるはずのない「神」からの言葉は何事にも代え難い喜びとなる。
しかも、「神」の意思を伝えられ、それを自分が実行する命令など、その魂が震えるほどの歓喜だろう。
その気持ちは俺たち兄弟の中にもある特別で歪んだ感情に似ている。
尤も、その感情を抱くような相手は「神」ではないのだけど。
だが、「聖女」も「神子」も望んでいない主人にとっては、周囲から「神」に向ける想いと重ねられることこそ、邪魔で余計なものだと分かっている。
彼女はどこまでも「人間」であることを望んでいるのだから。
だから、俺は何も言わない。
「まあ、薬の効果については、専門家たちが戻ってくるまで待つことにしようか」
俺はそう言いながら、彼女の頭を撫でると、顔を赤くされてしまった。
「ああ、ごめん」
流石に許可なく、女性に触れるのは良くない行いだ。
彼女も以前のように幼くはないのだから。
だが、この身長差のためか。
昔からの習慣か。
どうしてもこの頭を撫でたくなってしまうらしい。
いや、どう言い繕っても言い訳にしかならないな。
「だ、大丈夫です」
そう言いながらも、仄かに顔を赤らめたままなのに、恥じらいを隠そうとしているその姿は、年相応の女性に見えた。
そして、その一連の動きは、幼くも大人びてもいないことに安心してしまう。
いつもの活気ある言動は幼さを強調し、「聖女」の装いをすれば、妙に大人らしく見える女性。
あえて、個人的な意見を言うのなら、先ほどの強い瞳をもう一度こちらに向けてもらいたいものだ。
彼女が持つ強く輝く意思を込めた黒い瞳は、その視線を向けられた人間の心を的確に射抜いていく。
相手の性質によっては、彼女やその周辺の心と身体を痛めつけてでも、その瞳を自身に向けさせたくなるだろう。
この瞳は彼女の心が何かに対して強く抗う時こそ、光り輝いてしまうのだから。
「早く帰ってこないかな……」
ふと、小さく零れ落ちた言葉が耳に届く。
それが誰に向けられた言葉なのかは問うまでもない。
そして、無意識に込められた言葉に含まれているのは、確実にこの場所へ戻るという強い信頼の表れでもある。
「九十九がいないと不安?」
そんな分かり切った言葉をかける。
「不安というよりも、無事に水尾先輩を助けることができたのかが気になっています」
「大丈夫だよ」
主人から、あれだけの身体強化をされた。
それに目印もあった。
少なくとも、あの王女殿下が連れ去られた場所まではいくことができただろう。
問題は、間に合ったかどうかだ。
相手の目論見は分からないが、この島の在り方からも、連れ去った相手が真っ当な倫理観を持っているとは思えない。
単純な小悪党の犯行なら容易いが、この島の状況から見る限り、恐らくは組織的な犯罪だ。
それを隠匿するために様々な手段を用いることも考えられる。
あの愚弟が簡単に出し抜かれるとは思っていないが、先に連れ去られた方は、お綺麗な世界で生きてきたような人だ。
世界の闇を見てはいるだろうが、人間の闇をどれだけ見てきたかは分からない。
あの方を、魔法国家アリッサムの王女殿下だと分かった上で連れ去ったようだから、それなりの対策をしていることだろう。
そして、明確な目的もあるはずだ。
単純に考えれば、その狙いはあの強大な魔力だと思うが、それにしては行先が少しばかりおかしかったように思える。
さらに、今回は前もって綿密に計画されていたのではなく、何かの巡り合わせで偶然起こったことだったはずだ。
魔法国家の王族に対抗する手段として、前もって良質な「魔封石」を準備していたとは思えない。
慌てて準備するにしても、魔法国家の王族を捉えるなら、A級……、いや、S級の「魔封石」が必要だと思われる。
「魔封石」がなければ、自力で脱出できそうな女性だからな。
だが、「魔封石」の準備に時間がかかっても、ご自慢の魔法を封じることである程度抵抗の意思を奪えると考えるはずだ。
相手もまさか自分たちが補足されているとは思っていないだろうから、そこまで拙速に事を進めていないだろう。
のんびりと準備をしてくれれば御の字だ。
相手の取る手段として分かりやすいのは、良質な「魔封石」を準備し、魔法を封印して、抵抗手段を失った囚われのお姫様を強い言葉で脅し、絶望の淵に立たせた後、本来の目的を果たす……、こんなところか。
時間としては十分過ぎるぐらいある。
だが、そんなことも考えられないぐらい阿呆な奴らが、利用価値がある相手の意識のない間に愚行を犯すなら、時差があった分、難しいかもしれない。
だが……。
「水尾さんを助けるために栞ちゃんが頑張って、その後を九十九が引き継いだ」
努力が報われないこともある。
頑張っても結果に結び付かないことも多い。
それでも……。
「だから、大丈夫だよ」
俺はそう言い切った。
強い意思が世界を動かすこともあるこの世界だから。
俺は「聖女」ではなく、「王族の血」が起こす奇跡を信じている。
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