定形から外れた器
「寝ているだけだね」
「はい?」
俺の見立てに対して、全くの予想外だったのか。
黒髪の主人はその大きな瞳をさらに見開いた。
「呼びかけに反応はないけれど、呼吸は安定している。脈も乱れはなく、落ち着いているみたいだ。体温は俺たちよりも高いけれど、『綾歌族』はもともと平熱が高いからね。何よりも、倒れているにも関わらず、表情は穏やかだから、眠っていると考えるべきかな」
「精霊族」に関して、資料が少ないものが多いが、「綾歌族」は人間と関り、交わることもあるほどよく知られた「精霊族」だ。
その中には高温の余り、抱擁だけで、自身の身体が溶かされると錯覚してしまうこともあるらしい。
実際、あの「綾歌族」の女性の腕を掴んだ時、人間よりは体温が高いと感じた。
主観で、40℃前後の体温と推測。
自身の翼で飛ぶためにエネルギーを必要とするからだろう。
「な、何かの状態異常では……?」
その表情から、俺の眠っているだけという言葉が信じられないわけではないようだが、それでも、主人は確認する。
「作っていた薬の効果を考えれば、確かに状態異常と言えなくもないけれど……、少なくとも、外部から攻撃された気配はないよ」
そんな攻撃をされたなら、俺やリヒトが気付かないはずがない。
彼女にお願いしたのは、薬品製作。
それも、睡眠薬だった。
それを思えば、その因果関係は分かりやすいだろう。
「で、ですが、わたしは彼女に飲ませてませんよ!?」
そんな疑いは全くない。
基本的に温厚で、争いごとを好まない彼女が、いきなりそんな凶行に出るとは思えない。
尤も、ここにいる「精霊族」に対して、突如として彼女がそんなことをすれば、それはそれで、興味深いし、見直してしまうとも思うが。
「俺たちを警戒している彼女が、リヒトの頼み以外でその薬を口にするとは思っていないけれど、栞ちゃんが魔法を使ったわけでもないよね?」
「使った覚えはないですね」
先ほどの彼女の表情からもそれは明らかだった。
自分の意思で魔法を使う時には、信じられないほど集中し、強すぎるほどの思いを込める主人だ。
無意識で魔法を暴発させることはあるかもしれないが、それでも、何の前触れもないとは思えない。
「そうなると、彼女が誤って口にした? でも、それならリヒトが気付くはずだ。少なくともあそこまで慌てるとは思えない……」
周囲の人間の心の声が流れ込んでくる長耳族だ。
好奇心から薬を誤って口にするにしても、その声が伝わってくるはずだろう。
「リヒトも気付かなかったんですか?」
「いきなり、彼女の意識が途絶えたと言っていたよ。でも、その理由が分からないとも言っていた」
つまりは不測の事態だ。
その場にいた誰もが予想もしなかったことが起きたと考えるべきだろう。
それが、彼女の身に起きなかったことを幸運だと思うしかない。
「分かっていることは、ここで何かが起きて、彼女が眠ってしまったということかな」
流石にこのまま、ここで床に伏したままの状態を放置するわけにはいかない。
俺は「綾歌族」の女性の身体を持ち上げる。
この女性は味方とは言い切れないが、今のところ、数少ない協力者でもあるのだ。
長耳族のリヒトを「番い」として傍にいたがっていることもあるが、同時に、そのリヒトが慕う人間たちも見定めようとしている。
自分の眼で自分にとっての善悪を見極めようとする心は悪くない。
多少、曲がらない思い込みの激しさと、状況判断の甘さはあるが、それはこの場所の極端に偏った教育によるものだ。
生来、素直であるために吸収力もある。
このままリヒトを追い続ければ、同じように手強くなってくれることだろう。
本来、「精霊族」は神の遣いとして気高くも誇り高い種族だ。
純血でなくても、下賤な人間に飼われて良いように扱われる存在ではない。
「しかし、困ったことに栞ちゃんの護衛を任せた女性が寝てしまったね」
「そうですね」
そうは言っても、そこまで困る事態ではなかった。
もともと、眠ってしまった女性は本当の意味で安心できる存在ではないのだ。
ただ、じっとしていることが苦手な主人に、仕事を与える口実を作るために都合が良かっただけで、いてもいなくても変わらない。
何故なら……。
「では、彼女が目覚めるまで、俺が栞ちゃんを護ることにしよう」
愚弟がいなければ、俺がその役目をするだけの話だ。
この島の一時的な管理も、このお人好しな主人が望むから行うだけで、俺たちは見捨てて出ていくこともできる。
他国、他大陸の問題に配慮する義理すら始めから存在しない。
「ふえ?」
だけど、不思議そうな顔を返される。
「ん? 俺では力不足かな?」
「い、いえ!」
黒髪の主人は慌てるように手と首を振りながら否定してくれる。
「でも、雄也さんはまだいろいろとやらなければならないことがいっぱいあるのではないですか?」
「今、ちょうど落ち着いている所だから大丈夫だよ」
あの眠らせている「精霊族」たちが悪さをしない限り、特段、火急の用事もない。
リヒトの話では、主人が「祖神変化」したことによって、この島の「精霊族」たちに対して、完全掌握が可能な状態となってしまっている。
それだけ、「精霊族」にとっては、「神力」を使う「人間」は脅威なのだ。
大神官の話では、「聖女」の素質を持っているこの主人は、何かの条件が整った時、「神力」の行使が可能となってしまうらしい。
それが「王族」の血なのか、「創造神」に魅入られた母親の血なのか、「聖女」の血筋なのか、神の「ご執心」を頂戴しているからなのか、生まれる前からの「分魂」の影響なのかは分からないが、その力は、今代の大神官を瞬間的に凌駕する可能性が高いとも言っていた。
少なくとも、今代の大神官は「神扉」と呼ばれる門を開け、祈りによって神の意思を人界に伝えることはできても、神そのものの召喚は難しいと言っている。
それを思えば「祖神変化」を何度も行ったり、「神扉」を開けたとはいえ、多くの人間の前で分かるほどの「神降ろし」をしてしまったこの主人は、間違いなく「神子」どころか「聖女」の名を掲げるに相応しい存在なのだろう。
俺たち護衛にとっては、厄介なことではあるが、この主人は、あの千歳様の娘なのだ。
だから、彼女が定形外の器であってもそれぐらいで驚く必要性を感じない。
「それに……、俺も少しぐらい息抜きをしたいからね」
むさくるしい男たちの呻き声を聞くのも飽いたところだ。
少しぐらい癒されても良いだろう。
「でも、こんな所で息抜きなんてできますか?」
「可愛い女の子の傍にいて、息抜きできないと思うかい?」
確かにこの部屋は蒸し暑いが、人間界のサウナほどではない。
これぐらいなら、適度に水分補給をとれば人間でも耐えられる程度の環境ではあるし、意識的に体内魔気を調整すれば、魔界人ならば苦にもならない。
「本当に可愛い女の子の傍なら、やっぱり雄也さんは気を抜けないと思います」
だが、主人はそんなことを口にした。
その発言の意図を考える。
「なるほど、言われてみれば確かにそうだね。女性の前で気を抜くことは許されない」
俺はあらゆる意味で女性に隙は見せられないと思っている。
そして、女性自身も、家の外に出れば常に誰かの目を意識し、気も抜けないし隙も見せられない生活を送っている。
分かりやすいのは服装、髪形、化粧などの容姿だ。
一定年齢以上の女性は、外に出るたび、どうしても周囲の目を気にせざるを得なくなり、ある程度、整えていることだろう。
それを思えば、確かに不特定多数の女性の前にいながら、気の抜けた顔を晒す男はどうかしていると言ってやりたい。
いや、今はそんな愚考はどうでもいい話だ。
「でも、俺は栞ちゃんの前だけなら息を抜くことができるんだよ」
俺がそういうと主人は黒く大きな瞳を瞬かせる。
「栞ちゃんは女性である前に、主人で、誰よりも信用できる人間だからね」
少なくとも、現時点で誰よりも信用している。
素直で流されやすそうに見えるが、その内面に強く固い意思を持ち、必要とあれば、常に傍にいる護衛にすら何も告げないこともできる女性。
そんな彼女に重い枷を付けてしまった。
それにも関わらず、彼女はいつもと変わらない。
俺たち兄弟の重荷を背負わせたにも関わらず、笑顔を浮かべて今まで通りに振舞える強を持っている。
強い女性だと知っていたつもりだったが、それを本当の意味で理解できたのは、あの日からだろう。
弟も知らない彼女の強さを俺は知ったのだ。
「えっと、わたしを理由にすれば、なかなか休むことができない雄也さんが、休息を取れるってことで良いですか?」
そして、そんな俺に対して、主人はどこまでも気遣いを見せる。
俺は思わず声を上げて笑ってしまった。
こんなに相手のことしか考えていない女性がいるか?
普通ならもっと自分に都合の良い方向性で深読みをする。
だけど、目の前の女性は「普通」ではない。
だから、俺なんかの型に嵌められるはずがないのだ。
なんて手強い母娘だろう。
どこまでも、いつまでも、どんな時でも、俺の予想を裏切ってくれる。
「その通りだよ」
だから、俺はいつでも主人の期待に応える答えを返すしかないのだ。
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