無理をする主人
その変化は不意に現れた。
「おっと、危ない」
目の前の主人が急に手を止め、ぐらりとその身体を揺らしたことに気付き、俺はその身体を支える。
そのまま机に激突してしまう前に、俺の手は何とか間に合った。
彼女の身体も心配だが、机に広げられている成果を無駄にさせたくもない。
どうやら、ようやく小柄な主人は、意識を飛ばしてくれたようだ。
そのことに俺はホッとする。
そこまで焦ってやるようなことでもないのに、明らかに根を詰め過ぎていると思っていたところだったから。
それにしても、見事な集中力だとしか言いようがない。
眠りに落ちる直前まで、筆記具を握って、いや、意識を飛ばしても尚、筆記具から手を離していないことに感心する。
俺は、身体を支えつつも、その細い指をゆっくりと開かせ、インクで汚れないように筆記具をその手から離させた。
先ほど、彼女に呑ませた「『甘い薬草』のお茶」の別名は、「甘い罠」という。
まるで、酒に付けるセンスの名前だが、それも仕方ない。
どこかの魔法国家の王女殿下のように、「昏倒魔法」を使うよりはずっと穏当な手段だといえるだろう。
彼女に説明した効果は確かにあるが、俺は全ての効能を伝えていなかった。
眠れない、眠りの浅い人間が、心を落ち着かせ、良い夢を見ることができる薬効成分が入っている。
早い話、少し強めの「睡眠導入剤」であった。
まあ、「甘い罠」の名前の通り、男が目当ての異性に対して悪さをするために使用することもあるらしいが、今回はそんなつもりは一切ない。
純粋に善意ということで主人には許していただきたい。
弟と生活していた時、この主人は22時には寝て、翌朝6時に起きるという健康的な生活だったと報告を受けている。
実際、彼女は22時を過ぎると、瞼が落ちやすくなり、あくびも増えることは知っていたが、そこまで身体が睡眠を必要としていたことは知らなかったのだ。
だが、ここ数日は、度重なる心労と慣れない環境のために、その半分ほどしか眠れていない。
つまり、疲労が溜まっているはずだ。
本人に尋ねても否定するだろう。
そういう女性だから、そこは仕方ない。
だが、今は、そんなに焦っていろいろとする用事も予定もないのだ。
どうせ、トルクスタンと九十九たちが戻るまではこの場所から動けない。
だから、ゆっくりと過ごして欲しいのに、どうしても、何かしていなければ落ち着かないのだろう。
こんな所は、千歳様にもセントポーリア国王陛下にもそっくりだと思う。
間違いなく、この主人は、あのお二人の血を引いている。
脱力状態で寝息を立てている主人の身体を再び抱き上げる。
飲んだお茶の効果か、その頬が緩んでいた。
自然に眠りに落ちた時よりも、緊張が解けていることがよく分かる。
このままぐっすり眠ってくれると良いのだが……。
そう考えるとトルクスタンや愚弟は暫く戻らない方が良いだろう。
トルクスタンは、恐らく時間がかかるはずだ。
国を動かすならばどうしても、時間がかかる。
愚弟の方は分からないが、主人を休ませるためにもできるだけゆっくりしていて欲しいと思う。
あの男がいれば、主人はある意味、気が休まらない。
互いの気配に敏感なのは良いことだが、他者の気配を常に感じるのはどこか落ち着かないものだ。
そのまま寝台に横たえ、寝具をかける。
起きているわけではないだろうが、彼女はふふっと笑みを零した。
良い夢を見ているのだろう。
俺は、彼女の頭を撫でると、黒く艶やかな髪が額から流れ落ちる。
「ふむ……」
再び、机に向かい、彼女が書き起こした記録に目を通す。
ぎこちなく不慣れながらも懸命に書かれた記録は、自分とも弟とも違った視点で面白い。
だが、特筆すべきは、別紙に描かれた絵だろう。
記憶を掘り起こしながら描いたとは思えないほど完成度が高い。
特に「綾歌族」を描いたと思われる絵は、見事だと言える。
惜しむべくは、黒一色で描かれている点だろうか。
「色インクも提供すべきだったか」
彼女の口から「絵日記」という言葉は飛び出したが、まさか、本当に絵を描くとは思っていなかったために、事前準備が足りていなかったところは反省すべきところである。
弟やトルクスタンから話は聞いていたが、彼女の実際の絵は頂いた自作漫画でしか見たことがなかった。
カルセオラリア城にいた頃にも、九十九は見せてくれなかったのだ。
植物の特徴を的確に捉えた絵だとトルクスタンが評した絵を。
独占欲もここまでくれば、ただの阿呆だと思う。
そして、彼女自身も、俺の前で絵を描く素振りを見せたこともなかった。
顔を赤らめて、改めて人前で絵を描くのは気恥ずかしいと言われてしまえば、引き下がるしかない。
弟の前で平気なのは、単純に慣れの問題だとは思う。
この世界で彼女が最初に絵を描いた時、弟は傍にいた。
彼女がこの世界で絵を描くために手を尽くしたのは弟だった。
何よりも、彼女に絵を描くことを思い出させたのはあの弟だったのだ。
それらの恩があったからというのもあるだろう。
だが、それ以上に、他者とは違う自分の趣味を許容してくれるような相手に気を許さないはずがない。
その報告を聞いた時、弟にしては気を回せたものだと感心した。
それは、自分が見落としていたようなことだったから。
彼女の趣味は読書とソフトボールだと思っていたが、それ以外にもあれほど目を輝かせるものがあったのだ。
改めて、他の絵も見てみる。
絵に描き起こすことができる再現能力と、この記憶力は凄い。
そして、この視覚情報からの再現性の高さが、あの不思議な独自魔法に繋がっていることがよく分かる。
細部の差異は勿論ある。
完全記憶をし、さらにそれを完全に再現することなんて、俺も無理だ。
だが、あの魔法を使う上で、そこは何の問題にもならないだろう。
多少の違和感は、思い込みを貫き通すことで、それを真としてしまうような勢いが感じられるのだ。
豊かな想像力と、面白い発想力。
強い意思と、具体的な体現力。
そしてそれらを可能としてしまう多大な魔法力と強大な魔力。
どれだけ、彼女は魔法に特化した能力を持っているのだろうか。
凡人の身では羨ましい限りであり、ここまで差があれば、羨む心や妬みに走る思考よりも、尊敬に値する気持ちがずっと強い。
「記録も、素直なものだ」
日記や感想文の感覚で書けば良いと言った記録は、先に要点を纏め、時系列順に並べられた後、それを補足するような形で書かれている。
未完成ではあるが、一つ一つの事柄に、起承転結などの構成も練られている。
まるで、物語を作るような流れだ。
そこに推敲の言葉があちこちに書き加えられ、書き方については確かに、記録の付け方、報告書の作り方に慣れていない人間ではあるものの、ある程度、文章を書き慣れているような印象はあった。
小難しく気取った書き方でもなく、回りくどい言葉では書き表さず、ある程度、文章を読んでいる人間ならば理解できる文体でもあることにも感心する。
読書好きな人間の中には、画数の多い難しい漢字や、あまり一般的ではない言葉を使って、自分の国語力をアピールすることもある者も少なくはないが、そんな傾向もない。
誤字もなく、読みやすさを重視した、誰かに見せることが前提の報告書であった。
この完成形を見ることができなかったのは少々、残念に思える。
尤も、彼女のことだから、起きたらまたこの続きを書いてくれるだろう。
全くの別視点が欲しかったのは本当だ。
自分と弟の視点だけでは似たような角度から、似たようなものしか見ることができない。
だが、これ以上、この島に関わらせたくもない。
彼女にとって良い思い出とはならないはずだから。
それを記録して残すということは、彼女が負った傷をさらに深める行為となってしまうかもしれないが、自分の身に何が起こったのかを彼女自身が客観的に見ることは必要だとも思う。
俺は弟と比べて酷い護衛なのだろう。
彼女の身体はともかく、その心まで守ろうとはしていないのだから。
だが、それでも、俺は彼女が自分の受けた傷と、その結果、犯してしまった罪から逃げて欲しくはないのだ。
それに、俺の主人はそこまで弱い女性でもないだろう?
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