新たな挑戦
薄暗い中、わたしは目が覚めた。
昨日のように真っ暗な闇の中ではなかったことにほっとする。
寝ぼけた目でそのまま周囲を見回すと、雄也さんが薄い明かりを付けたまま、何かを書いている姿が見えた。
その横顔は真剣で、なんとなく九十九が報告書を書いている姿と重なる。
「目が覚めた? まだ夜明けには早いから眠っていても大丈夫だよ」
雄也さんはわたしの方を見て微笑んだ。
「いえ、起きます」
わたしは目をこすりながら、ゆっくりと起き上がる。
どうやら、一晩、ここにいてくれたらしい。
「魔界人でも目が悪くなっちゃいますよ」
わたしはそう言いながら、明かりを付ける。
この明かりはちゃんと外に漏れないようになっているので、問題ない。
「ああ、ありがとう」
わたしが寝ていたから気を遣ってくれたのだろうけど、それでも目を悪くされても困る。
まあ、雄也さんは眼鏡も似合いそうだけど、それはそれ、これはこれというやつだ。
そのまま、なんとなく雄也さんの前に座った。
雄也さんは手を止めてわたしを見る。
「わたしのことは気にせず、続けて良いですよ」
「いや、ちょうど区切りだったから、丁度良いよ。喉も渇いた所だったから、ちょっと休憩する」
気を遣わせちゃったかな?
「何か飲む? 落ち着くお茶があるけど……」
「睡眠作用がないものでお願いします」
わたしがそう言うと、雄也さんが笑った。
「俺に対してそれを警戒するのは九十九ぐらいじゃないかな」
なるほど……。
つまり、九十九の一服盛るという発想は、兄からの指導結果らしい。
「じゃあ、これかな。『甘い薬草』のお茶」
雄也さんはどこからか薬草っぽいものを出した。
「シンキスヴァル……?」
「心が落ち着いて幸せな気分になるお茶って意味らしいよ」
「……媚薬ですか?」
わたしが思わずそう言うと、雄也さんは目を見張って、困ったように笑った。
「…………栞ちゃんからその発想が出てきてびっくりした」
「いや、最近、その手の薬に関わることが多かったので、つい……」
「ああ、それで警戒しているのか。でも、俺が栞ちゃんに使う理由はないよね?」
それはそうだ。
「失礼いたしました」
わたしは素直に頭を下げる。
「いや、それだけ、最近、栞ちゃんが散々な目に遭ってきたってことだからね。仕方ないよ。それに異性に対して無警戒よりはずっと良い」
「それでも、雄也さんを疑うなんて……」
彼らはわたしの護衛なのに。
「それも大事なことだよ。俺たちが誰かに操られたりする可能性もある」
「操る……ですか?」
なんとなく、人間界の操り人形を思い出す。
しかし、彼らを操ることができる人って、人間界のRPGでいう「魔王」と呼ばれる方たちぐらいではなかろうか?
「精神系魔法の一種だね。つまり、『闇の大陸』の人間たちの得意な手法かな」
「そんな魔法まであるんですか?」
そして、闇の大陸って、多分、ミラージュのことだと思う。
雄也さんはいつのまにそこまで調べたのだろうか?
「混乱魔法、狂化魔法は確実にあるね。他には、幻覚魔法、魅了魔法かな」
そう言って、わたしにお茶を差し出す。
「これが、その『甘い薬草』のお茶だよ。この淹れ方だと効能は、疲労回復、精神の落ち着き、老化防止、あとは美肌……かな?」
「女性向けのお茶ですね」
「味も女性向けだと思っているよ」
色は、茶色。香りは林檎に似ている気がした。
一口飲んでみる。
「甘い……」
砂糖のような甘味料を入れた様子はないのに、甘くて美味しい。
もともとこんな香りなのだろうか?
それとも、アップルティーのように後から香りづけをしているのだろうか?
「まだ朝早いけど、お茶菓子はどうする?」
「このお茶だけで十分です」
この甘いお茶だけで本当に丁度良かった。
寧ろ、普通のお茶菓子だとこのお茶の邪魔になるかもしれない。
それに、朝食前だというのにお菓子を食べるのもどうかという話だ。
「それなら、良かった」
雄也さんはそう言うと、お茶を一口だけ含んで、また目の前の書類に向き合った。
やはり、気を遣わせてしまったらしい。
手を止めさせたことを申し訳なく思うが、基本的に彼らはわたしを気遣ってくれるのだから、起きたことに気付かれた時点で、こうなってしまうのか。
それにしても、書くのが早い。
九十九も早いけど、雄也さんはもっと早い。
多分、速記とも違う。
今、彼の書いている文章が日本語だってわたしでも分かるから。
どの大陸言語とも異なる法則で書かれた不思議な言語文字。
この世界では日本語が読める人はあまりいない。
本当に、たまたま、わたしの知り合いに多すぎるだけで、この世界では少ないのだ。
あの情報国家でも、どれだけ読める人がいることだろうか?
だから、そんな日本語で書かれているということは、今、書いている記録を誰にでも見せる予定はないのだろう。
九十九と共有する情報か。
もしくは、自分用かな?
「気になる?」
「あ、はい」
わたしの視線に気づいていたのか。
雄也さんの視線は紙に向けたまま、手も止めずに確認する。
同じ机の上で、纏められている書類と、広げられている書類の数が多いのだ。
「今回は落ち着いて記録する時間と環境になかったからね。せっかく時間ができたから、九十九に読みにくいと言われた報告書の清書と、独特な文字で書かれた九十九からの報告書の統合をしているところだよ」
台詞の端々に何らかの含みを感じるのは気のせいではないだろう。
それに九十九から「読みにくい」と言われた後に、あの場で書き直したはずなのに、またさらに書き直しているところが凄いと素直に思う。
でも、明らかに量は多い。
それを目にしておきながら、その目の前でのんびりお茶を飲んでいるって結構、酷い気がする。
だから、思わず……。
「わたしにも、お手伝いできることはありますか?」
専門的な知識などないのにそう言っていた。
でも、分類作業とか整理整頓とかそれぐらいはできると思うんだよ?
文字も日本語やライファス大陸言語、シルヴァーレン大陸言語で書かれているものばかりのようなので、読むことはできる。
これが、勉強を始めて間もないウォルダンテ大陸言語だったらちょっと自信がないのだけど。
「ふむ……」
実は断られると思っていた。
いつものようにやんわりと「栞ちゃんにはさせられないよ」って言われるかと思っていたのだ。
だけど、雄也さんは少し考えて……。
「では、お言葉に甘えようかな」
と言ってくれた。
どうやら今は、猫の手も借りたいほど、大変らしい。
わたしは気合を入れて拳を握りこむ。
どれだけ手伝えるか分からないけれど、やるからにはちゃんとやりたい。
「今回は、九十九と俺以外の視点も欲しかったから、正直、助かるよ」
「ふぬ?」
それは、わたしにも九十九や雄也さんが書くような報告書を記録しろということでしょうか?
でも、九十九が報告書を書いているところを何度か見ているけど、わたしに、あんな綺麗な纏め方ができるだろうか?
人間界では国語は得意科目だったし、要点を纏めることはできるだろう。
でも、それが記録となれば、書き方も違うことぐらいは理解できている。
「栞ちゃんは感想文を書いたことはあるかい?」
「感想文? あの……、読書感想文みたいなものなら……」
いきなりの質問に、深く考えずに返す。
「日記は?」
「基本的にあまり続かないけど、夏休みの絵日記なら小学校の頃は毎年書いていました」
三日坊主ほど酷くはないが、普通に日記を書こうとすれば妙に長くなってしまって、一月と続けられないのだ。
それよりは絵を描きたかったというのもあった。
「じゃあ、感想文や日記のような文体で、この島に辿り着いてから、これまでのことは書ける? 長い文章になっても大丈夫だよ。寧ろ、細かい方が良いから」
まるで、わたしが長い文章を書くのが当然のような言葉だが、否定はしない。
読書感想文も、書きたいことが多すぎて、多い方の指定文字数ギリギリになった小学生時代を思い出す。
中学生になったら、ある程度、文章を削ぎ落とすことも覚えたけど。
「やってみます!」
わたしは、残りのお茶もぐいっと飲み干して、渡された白い紙に向き合った。
やったことがないものに挑戦する時は、いつだってドキドキする。
でも、この緊張感は嫌いではない。
この島に来てからの出来事を文章に起こす……。
感想文、日記のような主観的な内容で良いなら気も楽である。
九十九が書いている報告書は、客観的な内容を中心に自分の見解を含めた主観的な文章を書いているが、生憎、わたしにそんな高等技術はない。
だが、絵日記……。
絵を入れることは、恐らく九十九よりは、棒人間を描くあの九十九よりは描ける気がする。
いや、九十九も図や表ならわたしよりずっと上手いことは知っているのだけど。
絵を描けば、その時のことをもっと深く思い出しやすくなる気がした。
方向性が決まれば、後は、書き出して、描き出すだけだ。
簡単に主だった出来事を時系列順に並べて、さらに肉付けしていく。
その内容を補足していくうちに、薄れていた他のことも思い出し、追記される。
思い出すたびに新たな絵を描く。
しっかりした絵の方が思い出しやすい。
だから、手を抜かず真面目に描こう。
暫く、無心で無言で描き散らし、書き散らしていく。
そして、わたしはまた意識を飛ばしてしまったようだった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。




