二つと存在しないはずのもの
本棚の向こうに開けられた穴を潜り抜けると、周囲が見える程度に薄暗い通路があり、ひんやりとした空気が流れていた。
長い間、誰も立ち入ることなく放置されていた割に、この通路は黴臭さや埃臭さを感じない。
先ほど歩いた城内の通路は埃が舞っていたというのに。
つまり、この通路には状態維持の魔法が施されているとは思うのだが、ここは、王族として女王陛下より賜った空間であり、そこにある技術とかについては、あまり深く考えたことはなかった。
同じような場所を他のアリッサムの王族たちも隠し持っていたはずだけど、恐らく私には開けられないだろう。
マオとは双子だが、体内魔気は分かりやすく違い過ぎるため、恐らく、鮮血認証しても、反応はないはずだ。
遺伝子と身体の中にある魔力は違うということだろう。
血液には、周囲に滲み出る以上の濃厚な体内魔気が含まれていると言われている。
古い時代には、魔力が強い人間の血液をなんとかして飲用できないか画策された記録もあるぐらいだ。
この辺りについては深く考えてはいけないが、残された記録によれば、魔力の強い人間の血液は、他者にとって猛毒にしかならなかったとだけあった。
だが、落ち着いて考えて欲しい。
どんなに魔力の強さに憧れても、他人の血を呑みたいという発想はどうかと思うのは私だけだろうか?
単純に気持ちが悪い。
そして、そんな時代に生まれていれば、真っ先にアリッサムの王族たちはその血を狙われていたかもしれない。
尤も、今も大差はない気もする。
魔力が大きな女というだけで、この身は狙われやすいのだ。
あの紅い髪の男も、かつて、私には他国の王族たちから求婚の申し出がそれなりに届いていたと聞いている。
自分はお世辞にも世間一般でいう女性らしさからは離れているというのに、魔力が強いというだけで、見も知らぬ人間から申し出られても、嬉しいはずがない。
だが、それがどんな相手でも、実の父親よりはずっとマシだとも思ってしまう。
そんな最悪な状態と比較しなければならないなんて、我ながら、末期的な考え方だ。
この通路はそう長いものではなく、すぐに壁に突き当たった。
私は壁に向かって小さな火を指先から出す。
黒い壁が赤く光り出し、その中央に、幼い頃は見飽きたと思っていた印が浮かび上がる。
そして、国が無くなってしまった今となっては、この場所でもう見ることもないとも思っていた。
アリッサムの王家の紋章。
いくつかの方円の中に激しく燃え盛る火を模した図とされているが、自分にはその火とされる部分がずっと分からないままだった。
改めて見ると、この中央にある形は、火や炎というよりも、もっと別の何かに見えてしまう。
それは、私が人間界で生活していた頃の影響だろうか?
そして、いずれ、この身体のどこかにも浮かび上がる印でもある。
国は消滅し、王族を含めた国民たちは散り散りとなっても、この城の機能は変わらないらしい。
国、破れて人民無し。
国、滅びて城、未だ滅びず。
私は苦笑する。
城は多くの国民たちとともに、忽然と消えたと聞いていたのに、実際には、宙に浮いていたなんて、誰が想像できただろうか?
失われたはずの城。
あれから既に三年の月日が流れていた。
それなのに、ここは変わっていなかった。
私は王家の紋章に触れる。
すると、熱い熱が一気に全身を駆け巡っていく。
普通の人間には耐え難いと言われるこの灼熱は、私たちアリッサムの王族にとって心地よいものだ。
だが、今はそんな感傷に浸る暇はなかった。
私は大きく息を吐いて、もう一度壁に触れると、さらに奥への扉が現れる。
そして、その扉を開けて、奥の小部屋へと足を踏み入れた。
そこには、本棚が並んでいた。
隙間なく並べられた中身を見る限り、その量に変化はないように見える。
流石に、幾重にも特殊な鍵があるため、この場所には誰も手を付けることなどできなかったらしい。
その本棚にはどこにでもあるような大衆的な読み物をはじめとして、古い歴史書や、様々な図鑑、他国の地図まで幅広い種類の本がぎっしりと並べられている。
これだけの量、我ながらよく集めたものだと感心してしまう。
だが、残念ながら今の私は、収納魔法が使えないために、この全てを持ち帰ることはできない。
今回、ここに来たのは中身の確認のためだった。
あの紅い髪の男には全て回収すると言ったが、現状、それが不可能なことは自分が一番、よく分かっている。
あの男にはそれすらもバレていたかもしれないが、知識があっても、その手立てを手にしていなければ、ここに立ち入ることができないのは間違いない。
それが分かっただけでも私には大きな収穫だ。
自分の手に二度と戻ってこなくても、これらの価値が全く分からぬ他人の手に渡らなければ良い。
趣味の蒐集物というのはそんなものだ。
それでも、手放したくない物は確かにあるので、それらはしっかりと持って部屋に出ようとは思う。
特別、私が大事にしていた本は、最奥にあった。
紅い髪の精霊の絵本だけは、いつでも取り出しやすいように外に置いていたが、貴重な魔法書はあまり外に出したくなかった。
どこにでもある絵本の価値は自分にしか分からないが、魔法書となれば、誰の眼にも分かりやすく価値あるものとして映るものだ。
最奥の本棚の中身は、周囲に比べるとそう多くない。
それでも、数十冊はある。
やはり、取捨選択は避けられないことはよく分かった。
この本棚にある物は、古代魔法書こそないが、現代魔法書としてはそれなりに価値のあるものばかりだった。
手に取るだけで、全部持っていきたくなるが、今の私は意識的な「印付け」すら怪しい。
体内魔気を通すだけの行為も、うっかり加減を間違えて、魔法のように実体化してしまえば、書物なんてすぐに燃えてしまう。
こんな時、体内魔気の主属性が火属性だと困る。
あの後輩や黒髪の青年のように風属性なら、吹き飛ばしはしても、焼失させることはないのに。
そんな今更なことを考えても仕方がない。
それに、自分が火属性だったから救われている面も確かにあるのだから。
「……っと」
最奥の本棚の中に、明らかに魔法書とは違う種類の物があった。
「これは……」
その冊子の装丁には見覚えがあり、思わず手に取って中を開いて確認する。
中身は思っていた通りのものだった。
だが、この冊子の価値は、ここに置いた時よりもずっと高いものとなっている。
少なくとも、この世界には二つと存在しないはずのものだが……。
「複製……、いけるか?」
私は真っ先にそんなことを考えていた。
いつもならともかく、体内魔気が不安定な状態にある今の自分は複製魔法を使うことは不可能だろう。
だが、あの黒髪の青年ならできそうな気がした。
複製魔法や複写魔法には、使用するにあたって様々な制限があるが、この冊子に使われている技術を再現するよりはずっと簡単だ。
「まあ、反応を見てから考えるか」
貴重な魔法書とともに、その冊子も入れ込む。
身体強化もできない自分は本当に非力だ。
数冊の魔法書と冊子を重ねただけだというのに、この時点で既に腕がプルプルと震えてしまっていた。
あの後輩でも、私よりは持てるだろう。
どれだけ、私は鍛えていないのか。
仕方なく、さらに2冊、諦める。
それでも、分厚い冊子は下ろさなかった。
重ねられたどの魔法書よりもずっと価値がある物。
そして、外で待つ男たちにとっても、先を争って手にしたくなるほど垂涎ものではあるだろう。
本来の所持者である私は、うっかりここに置いていたことも忘れていたぐらいの物ではあったが、この最奥の本棚に押し込む程度の価値は、当時から見出していたらしい。
うっかり、外の本棚に紛れ込ませてなくて良かった。
外にあれば、カムフラージュ用に詰め込んでいた他の本たちのように、何者かに回収されてしまっていたことだろう。
他の魔法書以上に、これを価値の分からぬ人間たちに触れてほしくはない。
私はそう思って、元来た道を戻ることにしたのだった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました




