絶望の中で祈ろう
半端な時間に眠ったせいだろうか。
それとも、考え事をしながら眠りについたせいだろうか。
夢を視た――――。
ここはかなり暗い場所だった。
不自然なほど真っ暗で、今の自分の姿すらよく見えない。
少し前に視た昔の自分との会話も似たような空間ではあったけれど、それでも自分の姿ぐらいは見えたのに。
だから、今、この身体が意識である「高田栞」のものなのか。
それ以外の人間のものなのかもよく分からない。
でも、少なくとも視界の共有はしているようで、夢にありがちな、視点の切り替えができる感じはしなかった。
恐らく、目線の高さなんかもいつもとそんなに変わらないだろう。
……とは言っても、実際のところ周りがよく見えていないので、それすらも間違いないと確信できないのだけど。
多分、自動的に足が動いているような感覚があるから、前に進んでいるのだとは思う。
でも、この足を意識的に止めることはできそうにない。
なんとか声を出そうとしても、手を伸ばそうとしても喉も手も動く様子はないから、残念ながら、自分の意思でこの身体を動かすことはできないようだ。
だけど、不思議とこれが夢なのは、はっきりと分かる。
こんな場所に来たことがないとかそんな見当違いなことを口にする気はない。
魔界に関わった以上、いつ、どこで、どんな目に遭うか分からないことは流石に今までの経験から理解しているつもりだった。
だけど、これは夢だ。
それだけは、何故か本当にはっきりと分かる。
わたしは勘が鋭いわけではないけれど、ここに漂っている空気が普通ではない事くらいは分かる。
だから、普通とは違うけれど、これは夢だ。
そして、人間界にいたときから何度か視た妙な夢とも違うことは分かる。
あの夢はかなり、リアルだった。
そんな現実に似た空気の中で悲劇を繰り返し見せられるのはあまり嬉しいものではない。
それでも何度か視ているうちにある程度展開が分かっているので、多少の耐性は付いたのだと思うけど。
昔の自分と会話した時の空間に似てはいるけど、それもなんだか少し違う気がした。
確かに、真っ暗ではあるのだけど、なんと言うかあの時とは、空気……いや、匂いが違う気がするのだ。
それに夢は、不思議とどこか懐かしいような感じもあって、居心地は悪くなかった。
でも、ここはまったく違う。
ひんやりとして生きた心地がしない。
できることなら、一刻も早く、この場所から立ち去りたいぐらいだ。
このまま、誰も、何も、出てこないうちに。
それにしても、この身体はどこまで進む気なのだろうか。
結構な距離を歩いた感じがするのだけど、それでも足を止める様子がなかった。
この身体は現実のわたしより体力がある気がする。
体力の方は大丈夫そうだけど、何も見えないところを何もせずにひたすら歩くだけって精神的には結構辛い。
そんなことを考えている時だった。
不意に、この身体の左手首にひんやりとした何かが触れたような気がする。
何故だか分からないけれど、その感覚に背筋が凍る気配がした。
そして、この身体はようやく歩みを止め、奇妙な感覚がした手首を確認しようとする。
暗くてよく見えないけれど、この腕は女性のものだ。
でも、これはなんとなくだがいつも見ている「高田栞」の腕とは少しだけ違うような気もする。
……でも、そうなると……、これは一体、誰の身体だと言うのだろうか。
『……トラエタ』
突如、闇から聞こえてきた謎の声に、この身体が総毛立ったのが分かる。
いや、多分、わたしの以外の人間でもこの反応になるだろう。
これは完全にホラーだ。
恐怖の世界だ。
おかしい!!
魔界とか魔法とか、心ときめくファンタジー要素は一体どこに消えた!?
『ヨウヤク戻ッテ来タナ』
何のことやらさっぱり分からないままだけど、全身が凄く震えているのは分かる。
どうやら、この身体はこの声の主から逃げていたようだ。
捕まえたってことはもう逃げられないということだろうか?
『モウスグ会エル』
そんな熱烈なお言葉をいただきましたが、正直、お断りしたい。
いや、自分に対してじゃないと思うけど、感覚を共有しているっぽいし、精神衛生上、この状況は良ろしくない。
『我ガ印ヲ……』
そんな声が聞こえて、この身体の左手首に再び悪寒が走った。
ひんやりとした何かが触れ、そこからこの身体の中にゆっくりとじっとりと少しずつ何かが入り込んでいくのが分かる。
そこで理解する。
似たような夢の中で、昔のわたしが言っていた「恐ろしい存在」。
人間の身であるなら、決して抗うことはできない絶対的な何か。
確かにこんなのに逆らうことは無理だ。
しかも、現実ではなく夢を通じて現れるなんて、どうすることもできない。
人間である以上、魔法が使える魔界人であっても、生物として、寝ないわけにはいかないだろうし。
ゆっくりと細い黒い筋のようなものが、手首を中心に広がっていくように見える気がした。
実際には真っ暗なこの世界で、そんな細かく分かるわけがない。
それでも、魔界に来る前に見た夢の中で、昔のわたしがイメージとして見せてくれたものが頭にあるのか、それがこの身体に染み込んでいくような気がした。
いやだ……。
このままじゃ……。
そう思っても、どうすることもできない。
相手は王族の血を引く魔界人すら「恐ろしい存在」と言ってしまうようなものだ。
なるほど。
これならどんな手段を使っても全力で逃げたいのは分かる。
例え、記憶や魔力を犠牲にしたとしても、それでこれから逃げることができるのなら、いくらでも捧げたい。
『愛シキ魂ヨ』
いやいやいや!
謹んでご辞退致します!
こんなよく分からないモノに言われても嬉しくない!
『……早ク……』
嫌だ!
消えない!
昔の自分に負けるのも嫌だけれど、こんな風によくわからないまま、魂が飲み込まれるなんて冗談じゃない!
『……早ク』
ああ、でも……。
この声が……、圧迫感が、わたしを飲み込もうとする。
―――― それでも不安があるってなら消えないように強く祈れ
―――― 魔界では思いが強い者が一番強い
耳に残る別の声。
ふぉ……、Fortune……、favors……、the brave!
その声に応えようと、心の底からその言葉を祈る。
祈れ! 祈れ! 祈れ!
強い祈りがこの世界を動かすならば…………。
『……ホウ』
不意に圧迫感が緩み、素早く、左腕をぶん回す。
それでも、残念ながら、この手首に染み込んだ感覚は元に戻らない。
だけど、絶望しない!
魔法も使えないわたしが、何の抵抗もできないわたしが、簡単に諦めてどうする!?
心を強く持つ以外のことなんてできないのだから!
『運命の女神は勇者に味方する』
全てを諦め、祈ることすら止めた人間に、運命の女神が味方なんてしてくれるはずがない!
運命の女神は……、あの方は、活きが良い人間が好きだから。
無様でもかっこ悪くても、最後まで必死に抵抗するような人間が大好きだから!
だから祈るのだ!
祈れ! 祈れ! 祈れ!
強い祈りが、この世界を動かすならば、誰よりも強く、誰よりも激しく!
決して誰にも負けないように!
『我ノ領域デ祈ルカ……』
当然!
祈れ! 祈れ! 祈れ!
誰よりも強い心で!
何よりも強い意思で!!
『ダガ…………』
再度の圧迫感が身体を襲う。
捩じ切れそうなほどの圧力に思考が離れようとする。
『マダ甘イ…………』
ギリギリと全身のあちこちを押しつぶそうとする力。
痛い、痛い、痛い……。
自分の頭には苦痛の文字しか浮かばなくなった。
『印ハ刻マレタ……』
意識の遠くで響く絶望の調べ。
その言葉の意味は頭で分からなくても、心が理解する。
ああ、この身体はもう……。
「い……や……だ……」
それでも、拒むかのように震える声。
精一杯の抵抗。
そして、この耳に届いた声は確かに「高田栞」のものだった。
ここで、第7章は終わります。
次話から第8章「出会いは突然やってきた」に入ります。
ここまでお読みいただきありがとうございました。




