貴女のことを信じているから
「は……?」
自分の身に何が起きたのか分からず、奇妙な声が口から漏れた。
温かくて、心が落ち着く。
最初に思ったのはそんなことだった。
こんな状況だというのに、こんなことしか考えられなかった時点で、私の頭は全く動いていないことが分かる。
身体の内から暴れだしそうだった炎は、その勢いに任せて爆ぜることもなく、急速にその力を失い、消えていく。
私は、後輩の専属護衛である黒髪の青年に抱き締められていた。
自分の手足から力が抜け、彼に寄りかかるように立っている。
「もう、大丈夫ですから」
自分の耳元で低い声が響いた。
息がかかる気配がするので、相当近い場所に顔があるのだろう。
「怖い思いをさせて、本当に申し訳ありません」
彼は何も悪くないのに謝られた。
訳が分からない。
青年の言動も、今の自分の状況も。
彼は、後輩の専属護衛だ。
そのために私を護る義理ぐらいはあるかもしれないが、責務はない。
だから、私が危険な目にあったって、彼が知らない所で恐怖を感じたって、謝罪の必要など何もないのだ。
それなのに、何故、今、私は彼に抱き締められた上で謝られたのか?
「つ、九十九……?」
自分らしくないか細い声が出た。
この状況はおかしい。
だから、何か言わないといけないと思って、焦ったことは認める。
「相手が違わないか?」
だからってこれもない。
いくら混乱しているからって、この発言は女としてというよりも人としておかしい。
この青年は、魔力が暴走しそうになった私を落ち着かせようとしてくれているだけだ。
先ほどの私は、自分の身に起こりかけたことを意識した後に、分かりやすく体内魔気が変調した。
それを目撃することになったのなら、近くにいる人間の大半は慌てるだろう。
国は消滅しても、私の魔力は健在で、その魔力を暴走させてしまえば周囲を含めて大変なことになるから。
普段は体内魔気を隠すためにある道具の数々も、今は一つも身に着けていない。
だからこそ、今の私の体内魔気は、周囲に対して全く遠慮のない状態となっていた。
そのために、いつも以上にその危険性も分かりやすかったはずだ。
「オレは何も間違ってませんよ」
さらに返されたその発言もどこかおかしくないか?
「少なくとも、オレの行動で、今、水尾さんは落ち着きましたから」
これは、ある程度、自信がなければ口にすることができない台詞だろう。
相手から拒絶、拒否されないと分かっていなければこんなことはできないし、こんな言葉が出るはずもない。
少なくとも、彼にとって私は、いきなり抱き締めても拒絶されない異性として認識されているようだ。
「それでも、いきなり抱き締めるなんて、私が慌てふためいて、かえって暴走するとは思わなかったか?」
精一杯の強がりを吐く。
「水尾さんなら大丈夫でしょう?」
私ならって……。
この男は一体、私をどういう目で見ているんだ?
今も、かなり混乱の最中にあるんだぞ?
今からでも魔力を暴走させてやろうか?
「自分以外の他人の気配を意識しながら、それでも、我を忘れてしまうような人じゃないと、オレは貴女のことを信じていますから」
こういう目だった。
確かに、彼が言ったことが目的ならば、今回のような抱擁は、かなり効果的だろう。
他人との接触は、相手の体温だけでなく、その体内魔気を嫌でも意識せざるを得ないから。
だけど、私に対して、そんな捨て身ともいえるような手段を選ぶ人間は、これまで誰もいなかった。
理性を失いかけている私に、身を挺して存在を意識させようなんて、そんなことを考えるようなバカなんて、どこにもいなかったのだ。
アリッサムにいた頃だって、誰もが攻撃魔法で私の暴走を押さえつけようとして、かえって事態を悪化させたこともあると聞いている。
マオ曰く、これまでの経験から、「数人がかりで強力な結界を張って、気が済むまで暴れさせるのが一番の対処法」らしい。
私が魔力を暴走させた時は、セントポーリア城下で後輩の母親がやったような精神系の魔法すら、ほとんど弾いてしまうらしい。
あの時、効果があったのは、あの人が使った魔法が、実は「古代魔法」だったからだと今なら分かる。
もし現代魔法だったなら、考えただけで恐ろしい。
「九十九は凄いな」
私は素直にそう口にした。
「魔法を使わずに、魔法国家の聖騎士団でもできなかったことをする」
魔力の暴走をしかかった私を抑え込むなんて、あの国でもできる人間はほとんどいなかったはずだ。
「魔法国家」の異名を持つ国でも、王族が一人魔力を暴走させるだけで、多くの人間たちが動員され、対処に当たることは珍しくもない。
それなのに、彼はたった一人で、それも魔法を使わずに私を落ち着かせた。
それがどれだけ凄いことなのか。
彼は分かっているのだろうか?
「オレは、アリッサムの聖騎士団や魔法騎士団ほど魔法が使えませんから」
一瞬、彼が何を言っているのか理解できなかった。
私が知る限り、この青年の魔法の種類は多く、威力もあり、効果も高い。
何よりも、状況に応じた使い分けは、まだ若いのに、聖騎士団や魔法騎士団に所属する人間たち以上だと思っている。
「九十九は十分、魔法が使えていると思うぞ」
「水尾さんにそう言われると自信が持てますね」
私の言葉に笑ったのか、少しだけ彼の身体が揺れた。
不思議……、というか奇妙な感じだ。
私は今、知らない場所で、後輩の護衛に抱き締められている。
そのことについて、違和感は確かにあるのだが、安心している自分も確かにあった。
三年近くその成長を見てきた青年。
気が付けば、私よりもやや低かったその身長は、すっかり追い抜かされてしまった。
出会った頃はまだ少年の面影が強く、危なっかしい印象がかなり強かったのに。
「落ち着きましたか?」
低く甘い声。
いつも主人に向けられている優しい声が、私に向けられている。
「十分だ」
だけど、自分から離れてくれとは言いだせなかった。
それだけ私が人肌に飢えてるってことか?
それならば、無事に戻れたら、あの後輩を存分に抱き潰そう。
そうしよう。
最近、見せつけられてばかりだったからな。
たまには、この男に見せつけてやるのも良い気がしてきた。
溺愛している主人が、目の前で他の人間に抱き締められている様を見たら、同性同士だって分かっていても、面白い反応を見せてくれそうな気がする。
それを思えば、少し笑いが出た。
まだ無事に帰れるって保証もないのに、気の早いことを考えている自分に対して。
「どうしました?」
私が笑ったのが分かったのだろう。
彼が手を緩めた。
「こんな所で、九十九から抱き締められるなんて……。高田に知られたら、妬かれるかなと思って」
「…………栞は絶対に妬かないと思いますよ」
その不自然な間に、どれだけの彼の想いが詰め込まれたのだろうか?
それを思えば、さらに笑いが出てきてしまう。
そして、彼が言うように、多分、彼女は妬かないと私も思っている。
この状況を報告すれば、少しぐらいは驚くかもしれないけど、妬く後輩の姿を想像することができなかったのだ。
「不憫だな、九十九」
「いや、十分、幸せですよ、オレは」
その言葉には呆れるぐらい迷いがない。
「今は傍にいることを許されていますから」
そう言いながら、黒髪の青年の身体が私から離れる。
思わず、手が伸びかけ、思いとどまった。
これはただの反射だ。
離れようとしたから、捕まえたくなっただけ。
それ以上の感情は何もなかった。
何も考えずに手が伸びたということは、そういうことだと自分を納得させる。
―――― その感情と向き合うのは辛くないか?
そんな声が聞こえた気がした。
辛くない。
この感情は向き合うべきもので、誤魔化すものではないと分かっているから。
一番じゃなくても良いのだ。
嫌われなければ、良い。
この青年も言ったように、近くにいることが許されているだけで、私はそれで十分だ。
その気持ちには、偽りなどないのだから。
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