何故か思い出すのは
「心構えもなくシオリのことを意識すると、俺は意識が飛ぶ体質になったのだ」
そんな言葉を、目の前の紅い髪の男は、世間話のような気軽さで口にした。
この男は、人間界で「高田栞」と名乗っていたあの後輩に、並々ならぬ執着と、好意を持っていたことはこれまでのことから分かっている。
だが、そんな人間が、その相手のことを普通に考えることもできない体質とは……、「お気の毒様」としか言えない。
それは自分が気を抜いた時、「今頃、何をしているのだろうか? 」とか、思い出と重なることがあった時に「こんなこともあったな」とか、似たようなものを見て、「あの娘に似ているな」とか、誰かからの報告を聞いて、「また厄介なことに巻き込まれているな」などと、ふとした時に、彼女のことを考えることも許されないということだ。
あの護衛が同じ体質になったら、僅か数分でも発狂するんじゃないか?
ふと黒髪の護衛を思い出す。
何故だろう?
ここに来てから、何度もあの顔を思い出すのだ。
黒い髪、黒い瞳に強い光を持つ真っすぐな気質と、居心地の良い体内魔気をその身に纏う青年。
だが、私が思い出すのは正面ではなく彼の横顔だった。
その視線の先にはいつだって、同じように黒い髪、黒い瞳を持つ彼の主人の姿があるためだろう。
誰の目で見ても、その視線は主人を見守る護衛の瞳ではなく、惚れた女が遠くに行ってしまわないように牽制し続ける男の顔にしか見えない。
だが、当人は、その自覚は長い間、持っていなかったらしい。
割と、それには本気で驚いた。
そして、自覚をしてからは、一切の遠慮はなくなった。
ただの護衛と主人の距離間ではありえないほど近い場所で、片時も離れず、離さず、彼女を護り続けている。
寝ても覚めても想うのは主人のこと。
さらに、隠し持っていた刃が鋭く研ぎ澄まされたかのように、その体内魔気の変化として表れだした。
半端に近付くようなヤツは、その風の刃で切り裂かれることだろう。
あの後輩のような暴力的な空気の塊を飛ばすわけでも、空気の流れを渦巻かせるわけではなく、瞬間的に放たれる日本刀のような切れ味だと知覚している。
今のところ、それが自分に向けられることはないが、それを意識的に回避できるかどうかは分からないとは思っている。
そんな男が、それだけ想う主人のことを、僅かでも考えることもできなくなるとは想像もできなかった。
「意識が飛ぶと、どうなる?」
だが、実際にその難儀な体質となってしまった男に対して、分かり切った疑問を口にする。
私は既に、その状態を見ているというのに。
「俺に憑依している神のようなヤツに、この身体が乗っ取られるな」
「神!?」
幽霊の方がマシだったと思うのは初めてかもしれない。
私は、人間界で「幽霊」という存在を初めて知ったのだが、本当にソレらのようなモノが苦手なのだ。
ソレらはこの世界でいう「残留思念」のことだという。
人間が生きている時に抱いた強い想いが形になったもので、死してなおも残り続ける妄執でもあるということぐらいは知っていた。
だが、そのために、その想いが薄れない限り、ほとんどの魔法や法力の効果はないと、既知である大神官が教えてくださったのだ。
世界最高の神官である大神官のお言葉である。
疑いようもない。
これが、既知の先輩が言っていたなら、私を揶揄うためだと邪推してしまっただろうが。
「そろそろ完全に乗っ取られてもおかしくないと思っているのだが、存外、俺もしぶといらしい。今も日中は正気の時間が長い」
それは、夜になると乗っ取られているってことじゃないのか?
同時にあの瞳の濁った状態はそういうことかと納得もできる。
こうしているとその赤紫の瞳はやや暗くはあるが、綺麗だと思う。
だが、自分に圧し掛かり、衣服を切り裂いた時のこの男の瞳は、別の色が混ざり込み、それが濁ったように感じさせたのだ。
完全な深紅でも赤紫でもない中途半端な色。
体内魔気の判別ができる状態だったなら、もっと細かく分かったのだろうけど、こればかりは仕方ないし、知らない方が良かったかもしれない。
本当に、この男の中にいるモノが、神やそれに等しい存在なら、ただの人間の王族に過ぎない私には太刀打ちできるはずもないのだから。
「尤も、そう思っているのは俺だけかもしれん。知らないうちに取って代わられても、その行いに気付かないぐらいだからな」
ふとその視線が自分の腰辺りを見ている気がした。
先ほど破られた衣服は、今は、被せられた黒いマントによって覆われている。
幾分、不格好ではあるのだが、身体はまだ動かせないのだから仕方ないと諦めた。
「破られてその通信珠を取り出されただけだ。それ以上のことはされてない」
気付くと私はそう口にしていた。
確かにその前に身体を弄られてはいたが、それも、あの「高田栞」の気配がする通信珠を探されていたのだろうと今は分かっている。
もっと艶っぽいコトが目的なら、もう少し触り方というものがあるだろう。
あんなに、自分に対して何の感情も込められていない冷たい手で触れられても、これは違うなという感覚しかないのだ。
少なくとも、昔、「発情期」の男に襲われかけた時は、あんな無感情な触り方ではなかったから。
「だから、貴方がそこまで気に病むことはない」
「別に気に病んでなどない。ただ、貴女に無礼なことをしないと言った手前、それを自ら破るのは何か違うとは思っただけだ」
どこか不服そうにそっぽを向かれた。
そして、それを世間では気に病むという。
「手……」
「あ?」
「少し貸して。身体を起こしたいから」
長椅子に中途半端に倒れている姿勢もそろそろ疲れてきた。
眠った時はそうでもなかったが、圧し掛かられた時に少し、身体がずれ、さらに衣服を引っ張られたのだ。
顔だけ動かせるようになったが、それだけでこの体勢が変えられるはずもない。
まだこの身体を一人で動かせる気もしなかったから、手を借りたくなった。
それぐらいは、この男に気を許しても大丈夫だと判断したようだ。
口調は悪いが、どこかあの護衛青年と重なる。
彼らは全く似ていないはずなのに、どこか似ている気がした。
例えば、たった一人にしか興味を持っていないが、そのたった一人が大事にする相手に対してはそれなりに敬意を払う辺り本当にそっくりだ。
私が「王族」であることを理由に助けた上、これ以上の危険がないように手元で保護してくれているようだが、それだけが理由でここまでする男ではない気がする。
「命令し慣れているところは、どこかの『聖女』と違ってちゃんとお姫様だよな」
紅い髪の男は、苦笑しながらも手を出し、身体を支えてくれる。
確かに、私はあの後輩とは違う。
あんなに可愛げのある女にはなれない。
ちっこくて、キラキラした黒い瞳を持つ可愛い娘。
顔の造形は悪くないけれど、美人というタイプではなく、笑顔が印象的で、とても愛嬌のある娘。
こんな世界だというのに、世の穢れに流されず、我が道を進もうとするその姿はまさに「聖女」の名にふさわしい。
普通なら自身の境遇を呪ってもおかしくないのに。
だが、あの娘は、ただ平穏に生きたいだけだというのに、周囲が彼女を放っておかない。
出会った先で、それぞれの事情に巻き込まれるように、そして、自分の事情に巻き込むように、彼女の身は少しずつ雁字搦めとなっていく。
あの後輩を思い慕う人間が増えれば増えるほど、その彼女を縛り付ける見えないイトが増えていくところを何度も見せられた。
それはまるで、あの後輩がそう遠くない未来に「聖女」となる道が定められているかのようで嫌になる。
そんなことを、彼女は全く望んでいないことを知っているから。
それでも、周囲に担ぎ上げられ、祭り上げられている「聖女」は、その本人がの意思とは無関係に、前へ進んでいく。
一度、進み始めた道はもう戻れない。
尤も、そう考えている私自身が、その彼女を担ぎ上げてしまっている人間の一人だと、とっくに自覚はしているのだけど。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました




