武運を祈って
「大丈夫?」
今にも出発しようとする九十九に対して、わたしの口から出てきたのはそんな言葉だった。
「行ってみないことには分からんな」
九十九はあっさりと言う。
そこには微塵も動揺は感じられない。
下調べも碌にできていない。
事前情報も何もないところに今から乗り込もうというのに。
それに対しての恐怖とかはそんな負の感情は、彼にないのだろうか?
だけど、それは半分以上、わたしのせいなのだ。
彼はそこまでする理由なんかない。
水尾先輩を助けたいというのはわたしの感情なのに、彼は、その意を酌んでくれただけだ。
それは護衛の務め以上の要求だって分かっているのに……。
「ごめんね」
わたしにはそんなことしか言えない。
「あなたが断れないって分かっているのに……」
わたしはその気になれば、「命令」という言葉一つで彼を操れてしまう。
この関係は、始めから対等ではないのだ。
「そんな言葉よりもオレと水尾さんの無事を祈れ」
それでも、九十九は笑ってくれる。
その笑みに迷いも感じられない。
「無事……を……」
無事を祈るって、「ご武運をお祈りします」みたいなやつ?
江戸時代とか、厄除けで火打石を打ち合わせたとか聞いたことがある。
だが、ここは魔界だ。
無事を祈るなら……。
「うん」
ちょっと恥ずかしいけど、やってみよう。
失敗してもともと。
上手くいけば万々歳! ってやつだ。
「九十九、後ろを向いて」
「へ?」
九十九がきょとんとした顔をした。
少し、可愛い。
「良いから、後ろ。身体ごと」
「わ、分かった」
抵抗することもなく素直に背中を向けてくれる。
九十九は、わたしの言うことをほとんど疑わない。
信用してくれているって本当に嬉しいよね。
改めて見ると、かなり広い背中だ。
どうしよう?
上手く出来るかな?
正面からだと九十九の方が大きいからわたしが綺麗に収まってしまうけど、背面なら……もっと広く接することができると思うんだよね。
そう思って、九十九の背中から手を回す。
広っ!?
九十九の腰がもう少し低い位置で、もっと太かったら、腕が正面に回らなかった気がする。
「お、おい!?」
九十九の慌てたような声。
でも、少しの間だけ我慢して欲しい。
「怪我しないで」
祈りを込めて口にする。
「無事で帰ってきてね」
わたしの願いはそれだけだった。
無傷は無理でも、帰ってきて欲しい。
「分かってる」
九十九はそう言って、わたしの両手を掴んで、何故かそのまま前に引いた。
先ほど以上に、九十九の背中に密着する。
本当に広い背中だ。
そして、正面よりも熱を持っている気がする。
「ちゃんと無事に連れ帰るから」
そんなわたしに対して、九十九は真面目に答えてくれた。
「それが一番だけど……」
広い背中に頬を付ける。
背中越しに九十九の心臓の音が聞こえてきた。
いつものように落ち着く音。
正面から聞く音とはまた違う気がする。
「前にも言ったと思うけれど、水尾先輩と九十九なら、ちょっぴり九十九の方が重いんだからね」
水尾先輩には悪い気がするけど、それは事実だ。
そして、三年前にもそう言ったが、今も変わらない。
いや、もっと実感している。
水尾先輩のことは好きで、大切なことに変わりはないのだけど、九十九に対するものとはあまりにも種類が違うのだ。
「そこはちゃんと二人の無事を祈れよ」
九十九は苦笑しながら、そう言って、握っていたわたしの両手を解放する。
二人の無事は祈っているのだ。
だけど、取捨選択をしなければならない時もあるかもしれない。
そして、わたしが心から願えば、九十九は自分の命よりも、その願いを優先してしまいそうな気がして、それが怖いのだ。
「もう、そっちを向いて良いか?」
「え?」
わたしの手を解放した九十九はそんなことを聞いてきた。
「オレは行く前に、お前の顔を見たい」
わたしの……顔を……?
なんで、彼はそんなことを言うのだろうか?
改めて見せられるような顔はしていない気がするのだけど、それでも、九十九が見たいというのなら……。
「ど、どうぞ?」
そう言うしかないよね?
でも、わたしの顔を見た瞬間、九十九は何故か、フッと笑った。
あれ?
さっきの台詞って、よく考えれば恥ずかしい?
「は、恥ずかしいことを言っているって分かっているけど、言わずにはいられなくて……」
思わずそんなことを言っていた。
いや、無事を祈る気持ちはあるし、いざという時は、九十九を優先して欲しいっていうのも本当のことだ。
でも、改めて口にするのは恥ずかしいかもしれない。
「栞は、オレが信じられないか?」
「違うっ!!」
九十九のことは誰よりも信じている。
こんな面倒な主人だというのに、わたしの気持ちを尊重してくれる人だ。
だけど……。
「でも、不安で……」
これまでと違って見えないところなのだ。
しかも得体の知れない相手。
不安に思うなという方が難しい。
「それなら、祈れ」
「ふ?」
また、祈り?
「祈りは天命をも動かす。この世界はそういう世界だ」
「祈り……?」
そう言えば、前にも九十九が言っていた。
思い込みが強い方が、この世界では一番強いって。
だから、わたしはいつだって、強く信じようと思っているのだ。
「お前の祈りはあの若宮をも超える『時砲』並なんだろう?」
ぬ?
そう言えば、リヒトがそんな酷い表現をしたような気がする。
わたしが魔法を使う時の声が大きいって。
「ならば、その思いは、間違いなく世界一だ。胸を張れ」
九十九は笑いながら力説してくれるが……。
「嬉しくないなあ……」
言われた当人としてはそう答えるしかなかった。
だけど、そうだね。
強い思いが世界を動かすというのなら、それを願う声は強くて大きい方が良い。
「そうだね。こういう時こそ、健気に待つ女らしく笑顔で見送らなきゃ」
気合を入れるために自分の顔を両手で軽く。
戦国時代の大名の妻たちはどれだけこんな不安を押し殺して、夫が戦場に向かうのを見送ったのだろうか?
だけど、わたしは武運を祈るだけの大名の妻ではない。
いや、祈ることもするけど、それ以外だってできることはある。
「よし! 気合入った!!」
わたしは、拳を握りしめて、気合溢れるポーズをとる。
そんなわたしを見る九十九の目があまりにも優しくて、それを絶対に、誰にも奪わせたくないと強く思った。
「九十九!!」
「お?」
わたしの呼びかけに、九十九の目はいつもと同じようになる。
「顔、貸して」
「まさか、気合注入のために、頬でも叩く気か?」
何故か、警戒された。
「九十九がそっちの方が良ければそうするけど……」
でも、その反応は酷いと思う。
水尾先輩の時と、えらい違いではないでしょうか?
「でも、これじゃあ届かないからもう少し屈んでくれる?」
「本当に殴る気か?」
わたしをなんだと思っているんだ、この男。
人が、一大決心をしたというのに……。
「じゃあ、そのまま目をつぶって、歯を食いしばって!」
思わず、勢いのままそう言ってしまった。
いや、だって、この反応ってかなり悔しいじゃない?
「おいこら!! 本当に殴る気か!?」
「失敬な。わたしがそんな狂暴に見える?」
「見えねえけど……」
見えないのに、何故、ここまで警戒されるのだろう?
日頃の行い?
でも、九十九相手にそんな狂暴な姿を見せた覚えはない。
それでも、九十九は屈んで目を閉じてくれた。
……。
…………。
………………。
目線の高さが同じになったところで、軽く手を振ってみるが、薄目を開けている様子もない。
ここまで顔を近づけても、まるで警戒されていないのだ。
九十九はわたしの気配が分かるはずなのに……。
今から何をされるのか、分かっていないから?
それとも、それほど、わたしを信じている?
唾を呑み込むのも、呼吸することすら戸惑われる。
そして、目を閉じていても、九十九の顔は綺麗だ。
寝顔とはまた違った印象で、緊張が増した気がした。
距離を間違えないようにするために、軽く頬に指を添えても動かない。
ただ、その瞳がよりぎゅっと閉じられたことだけは分かった。
すっごく緊張するけど、女は度胸!!
自分もぎゅっと目を閉じて、そのまま九十九の口に自分の唇を軽く当てたのだった。
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