試される理性
「お前が気にしていないなら、一つ、頼みがあるんだが……」
それは、先ほどから考えていたことだった。
「今後、同じようなことがあっても、この手段を選んでも良いか?」
「ふえ?」
できるだけ言葉を選んだつもりだったのだが、選びすぎて伝わらなかったらしい。
栞は不思議そうな顔をオレに向けた。
「お前が暴走するたびに、同じ手段で止めて良いか? と聞いている」
できるだけ、平静を装って尋ねる。
「…………良い」
栞は顔を上げたり下げたり、赤くなったり青くなったりしながらも、そう結論を口にしてくれた。
そのことにほっとする。
彼女は自分の感情を抑えることができる人間だ。
表情には出やすいけれど、前ほどではなくなった。
いろいろな葛藤があっても、最善を選ぶ程度に合理的な部分もある。
だから、始めから断られるとは思っていなかった。
我ながら、卑怯だとも思うが、その行為に対して許可があるかないかでは、オレの罪悪感が全然違う。
それに、合理的だと分かっていても、それ以上にオレからキスされることが嫌だというのなら、それも仕方のないことだとも思っていたのだ。
だから、表面上だけでも断られなかったことに対して、安堵した。
「嫌なら、別の手段を考えるぞ?」
尤も、そこに下心はないとは言わない。
寧ろ、許されるなら、暴走を止める目的がない状態でこそしたいと思っている。
先ほどだって、栞だけど栞ではなかったのだ。
それでも、心底、嫌がられるなら、別の手段を講じるぐらいのことはするつもりではいるのだ。
「…………嫌じゃないから良い」
「嫌じゃないって……」
この女はどうして、オレの理性を試すようなことを平気で口にするのか?
「初めてなら嫌だったかもしれないけど、もう初めてじゃないからね」
困ったように眉を下げながら、栞は自分の唇に手で触れた。
その行為は、誘われているかのようにしか見えないけれど、それはオレの心が穢れているだけだろう。
だけど、そこが問題なのではない。
「それについては本当に悪かった」
「ぬ?」
オレが頭を下げると、さっきほどまであった色気は、何故かどこかへ飛んで行ってしまった。
「あの時だよな、お前のファーストキス」
「ほあっ!?」
そこにいるのはいつもの残念な女だが、その反応を含めて可愛く見えるから仕方ない。
オレは、この女にどれだけ惚れているのだろう?
そして、どこまで惚れ込めば良いのだろう?
栞は、人間界でオレと再会した時、男女交際をしたこともなかったと言っていた。
そして、付き合ってもない相手に簡単に唇を許すタイプでもないと思っている。
いや、そう信じている。
そう考えれば、栞のファーストキスは、オレが奪ったことになる。
強引に無理矢理、何も知らない彼女の唇に何度も自分の唇を重ねたし、それ以上のこともしてしまった。
…………改めて、オレ、最低じゃねえか。
「あ、あれは……」
だが、今更、そんなことを言われても栞も困るだけだった。
「大丈夫! もう済んだこと!!」
栞は声を裏返らせながらもそう言った。
「まだ自分からしたことはないから、ノーカウントです!!」
「先の長い話になるな」
場の空気を変えるかのようにそう言ってくれたが、それはそれで複雑な心境になるのは何故だろうか?
オレとのキスはノーカウントなのか。
そう考えると、少しだけ悔しく思えてしまう。
だが、ここで爆弾が投下される。
「九十九のファーストキスは確か、ミオリさんだよね?」
「――――っ!?」
思わぬ発言に一瞬だけ、脳から思考、いや、魂が抜け出た気がした。
当然ながら、オレはそれを栞に言ったことはない。
自慢できるようなことでもないし、何より、自覚する前から栞は特別な女だったのだ。
そんな相手に、自分からそんなことを言えるはずがない。
中学の時、アイツと付き合ったことがあるのは知っているのだから、それで、予想したのか?
だが、断言している辺り、彼女はそれを確信している気がする。
「なんで、お前がソレを知っているんだ!? 深織が言いやがったのか?」
当事者以外からの情報源を思いつかなかった。
栞はアイツと、直接接触し、会話をしている。
そして、あの女は栞に対して余計なことを言う女だったから、その可能性は否定できなかった。
「いや、ミオリさんじゃなくて、ソウからの情報」
「あの野郎!!」
側頭部をぶっ叩かれ、思考が横薙ぎされた気がした。
そっちかよ!!
そりゃあ、言うよな。
あの男も栞のことが好きだったのだから。
彼女の近くにいる男の過去の黒歴史を告げ口して、牽制ぐらいはする男だったよな!!
どこかで、来島のキツネ顔が笑っている気がする。
余計な火種を置いていきやがって、いなくなっても邪魔するヤツだ!!
「言っておくが、オレも自分からしたのは栞が初めてだからな!!」
「ふえ!?」
栞の顔が驚きの色に変わるが、これだけは今、言っておかねばならない気がした。
「深織のはアイツが勝手にしたことだ。それ以降は、記憶にねえ!!」
「そ、そんな主張を声高にされても……」
そんな栞の正論で、オレは正気に返る。
何、言ってんだ、オレ……。
確かに大きな声で言うことでもないし、言われた方も困ることだろう。
「悪い、忘れてくれ」
そのまま頭を押さえてしゃがみこむ。
いきなりだったとはいえ、なんてことを言ったのだ。
いや、それ以上に今はこんな話でもたついている場合じゃねえのに。
それでも、事実だ。
オレは、栞以外の女にしたいとは思わねえ。
ああ、くそ!!
失敗した。
栞はオレの気持ちを知らないんだ。
だから、そんなことを言われても困惑しかないだろう。
それに、今の一言でオレの気持ちに気付かれた可能性はある。
栞は鈍い女に見えるけど、実際、変なところで勘が良い女だ。
だけど、それを問われても、オレはどうすることもできない。
栞に嘘を吐く気はないが、本当の気持ちなど言うことは許されていないのだから。
ちらりと横目で栞を見ると、何故か膝を抱えて座り込んでいた。
気付かれたのか、そうではないのか。
この状態では判断できない。
いや、栞から気付かれる分には良いのか。
オレが直接、伝えるわけじゃない。
許されないのは、オレが伝えることだけ、だったはずだ。
寧ろ、これまで、何故、気付かないんだ?
水尾さんや真央さんも気が付いているような「だだ漏れ」と言われ続けているこの気持ちに。
だが、いつまでもこうしてはいられない。
そろそろ、気持ちを切り替えようか。
「栞……」
「ふわいっ!!」
今のは返答なのか?
「お前から許しをもらえたところで、そろそろ、行ってくる」
「行くって……、水尾先輩の所に?」
栞は、どこか不安気な顔を見せる。
そんな顔をしないで欲しい。
いろいろ、鈍るから。
「ああ、行ってくる。お前もようやく、いつもの状態に戻ったみたいだからな」
「…………あ」
「祖神変化」を引き起こした影響もあったのだろうが、どこか先ほどまでの栞は本調子ではなかった気がする。
何より、怖い思いもしたのだ。
何事もなかったとしても、そう簡単に気持ちが落ち着くはずもない。
「もしかして、さっきまでの会話って、わたしの……ためだった?」
「いや、オレのためだが?」
オレ自身、落ち着きたかったのは本当の話だ。
結果として無事だっただけで、一歩間違えれば、取り返しがつかなくなるような状況だった。
そこに動揺が残らないはずもない。
「そっか……」
栞は一瞬だけ、目を丸くして、何故か嬉しそうに笑った。
本当ならずっと傍にいたい。
一瞬たりとも離れずに栞だけを護りたいとすら思う。
だけど、本当に栞の心も身体も護りたいのなら、オレは彼女が大切にしたい人間も護らなければいけないのだ。
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