甘い夢を見よう
夜、何かの気配を感じて目が覚めた。
その気配は、中から外へ出ようとしている。
それに気付いたオレは、大きく息を吐くしかなかった。
「夜は絶対、出るなと言ったのに……」
彼女には、オレの中の常識が通用しないことはこの一ヶ月ほどの付き合いで理解しているつもりだ。
だから、多少言ったぐらいではあまり効果はないかもしれないが、少しぐらい危機感は持って欲しい。
音を立てずに扉を開けて様子を伺うと、やはり予想していたとおり、見慣れた女の後ろ姿がそこにあった。
この魔界は今までいた人間界とは世界が違う。
危険性も増し、常識や倫理観だって異なるのだ。
その辺に関してはこれまでのことから、ある程度は分かってくれていたと思っていたのに、残念ながらオレのそんな考えは甘かったということだろう。
あの危機感のなさはある意味、尊敬に値すると思う。
どの世界も夜は昼と違う顔を見せる。
それはこの魔界も例外ではなく、生きているものは神すら夜の闇にその心を惑わせるという。
昼は幼子すら自由に歩ける空間も、日が沈めば同じように安全地帯という保証はどこにもないのだ。
それでも、護衛対象である以上、何かあっても自業自得と放っておくことができないのが辛いところだろう。
せめて人間界にいた時のように、一声かけてくれたなら、オレの気分も違ったのだろうが、今回はその気配はなかった。
下手すると、通信珠を持っているのかも怪しい。
しかし、文句を言っても仕方がない。
話したくなかった事情もあるかもしれないので、黙って後をつけることにする。
それにしても、こんな夜更けにどこへ行こうというのだろうか。
そこは少し気になった。
彼女はここに来て間もない。
だからこの辺りのほとんどの場所を知らないはずだ。
分かる場所といえば、昼間にオレが案内したところくらいだろうけど、そこは、初めての人間が行けるほど分かりやすい場所ではないことは伝えたはずだよな?
しかし、驚くべきことに、彼女の選んだのは、昼間、一度も通っていない道だった。
オレは、気配を消して対象に気付かれないように後を付ける。
そんなオレに気付かないまま、前にいる彼女は少しも歩みを止めることなく、暗い森へと入っていく。
オレが案内した入口とは全然違うが、立ち止まる様子もなかった。
オレもそのまま後に続く。
彼女の目的が分からない。
森の中に行きたいことは分かったが、一人で歩くのも苦労しているような昼間の様子では、案内人もなしに来ることはなさそうだと思っていた。
正直、迷うなら迷えば良いとも思う。
それで少しは自分の甘さを自覚してくれれば良いのだ。
オレが見失いさえしなければ、何も問題はない。
ここはオレの庭のようなものだという感覚は、あれから10年経っても全く変わっていなかった。
それに……、彼女の気配なら、オレは目を閉じても感じられる。
だが、思っていたよりも彼女は迷わずに進んでいく。
しかも結構な速度で。
昼間に慣れない道でもたついていた人間と同じとは思えないくらいだった。
何かおかしい。
目が覚めた時からある、いつもと違う感覚。
なんで、こんなにはっきりとしているのか分からない。
だけど、今ならば、どれだけ離れていても彼女を探し出せる絶対の自信が湧いていたのだ。
オレは、この感覚に覚えがある。
「この方向は……」
そして、オレはある事に気づいた。
このまま進めば、あの場所に出ることができる。
それも最短ルートで。
しかし、それをあの彼女が知るはずがない。
昼間通った道とは全然違う道。
そして、魔界に来てから一度も通っていないはずだ。
入口が違うのだから当然なのだが、彼女がこの道を知っているのはおかしい。
彼女にこの道の記憶はまったくないはずなんだから。
何故だか心臓が早くなり、その音も大きくなった気がする。
握っている手も汗ばんでいるのが分かる。
そんなはずはないと思いつつ、それしか考えられないとも思う。
もしかして、彼女の記憶が戻ったのではないか? と。
それは、ずっと願っていたことのはずなのに、何故かどこかで、動揺している自分がいる。
これは……どういう気持ちなのだろうか?
そうして、彼女は正しい道を歩き、森で一番開けた場所へと辿り着いた。
昼間の木漏れ日とは別の光で満ちる場所。
光り輝くミタマレイルの花々が揺れる湖のほとりに。
そこで彼女はふわりと自然な動作で座り込んで、何故か目に入れているカラーレンズと金に似た色のカツラを外し、短い黒髪、黒い瞳の外見に戻した。
ぼんやりと記憶にある景色が重なる。
それは10年も前のことなのに、ほとんど何も変わっていない気がした。
それでも、あえて違うところを探すとすれば、この場にいる人間たちの身体の大きさぐらいだろう。
流石に10年も経てば、互いに身体は成長している。
「し……」
それでも懐かしさのあまり、オレは黙っていることができず、思わずあの頃のように声をかけそうになった。
だが、その前に彼女がこちらを振り返る方が早い。
「ツクモ……?」
きょとんとオレを見つめるその顔に覚えがある。
オレの知っている高田栞ではないダレかの顔だ。
「どうしたの? そんな所でぼんやりして……」
にっこりと微笑みかける少女。
自分の記憶と混ざり合って、まるで夢でも見ている気分になっていく。
いや、もしかしたら本当にこれは夢なのかもしれない。
目が覚めたら全て消えてしまう淡い夢。
だから、少女の姿がぼんやりとしていて、はっきりと見えない。
「どうして、泣いてるの?」
そう言われて、頬に何かが伝っていることに気付く。
それが酷く熱い。
だが、拭うことはしなかった。
「こっちに来て」
その言葉に引き寄せられるように、オレは彼女の前に跪く。
ふんわりとした何かがオレを包み込んだ。
柔らかくて温かい……、オレがずっと欲しかったもの。
「相変わらず泣き虫だね」
優しく抱きしめられ、髪を撫でられる。
ああ、間違いない。
オレは確信してしまう。
この雰囲気、大人びた口調、何よりこのオレに対する態度。
どれをとっても、今、ここにいる少女は、「高田栞」とは違った。
オレの記憶の中にいた少女。
ずっと長い間、探し続けていたとても大切な存在。
「これは……、夢だ……」
オレはそう口にした。
どうしても、言わずにはいられなかった。
「どうしてそう思うの?」
「あまりにも現実離れし過ぎている」
夢だと思わねば、現実として受け止めるには残酷な話だ。
これを現実としてしまえば……。
「おかしなことを言うね」
彼女がそう言いながら無邪気に笑う気配がする。
今も撫でられている髪がくすぐったくはあるが、決して嫌な感覚ではなかった。
そのまま自然に目を閉じる。
彼女の温もり、香り、感触については、あの頃のものとは完全に違うことは分かっている。
当時も柔らかかったりしたが、それとは根本的なところが異なるのだ。
そのことが少しだけ悲しく思える。
どうせなら、そこまで再現した夢であってほしかったのに。
「ワタシは、いつものようにツクモとここにいるのに」
甘く耳に響く声。
その言葉で周囲に咲くミタマレイルの光が揺れた気がする。
そのことが、ますますこれが現実だという気がしなくなってくる。
彼女から見ても、オレの姿は成長しているはずだ。
そこに至る過程を知らず、身体の大きさもかなり違うのに、そのことを動揺すること無く受け止めていることが既におかしいと思う。
仮に外見ではなく体内魔気だけを見ていたとしても、オレの魔気だってあの頃から変化している。
あの時と全く同じではないのに、オレだと違和感なく呼びかけていることが不自然だ。
そんな様々な疑問が頭を巡る。
でも、今だけは深く考えたくなかった。
夢なら夢でも構わない。
彼女を追いかけて魔界を離れ、人間界で生活して10年。
その長い間、一度も会うことができなかったのに、魔界に還った途端、あっさりと再会することができるなんて出来すぎている。
こんなオレにとって都合の良い話が夢でなかったら何が夢だというのだろう。
これは夢だ。
魔界に戻ったのなら、一度くらいは本物に会いたいとずっと思っていたオレの願望が形になっただけのこと。
人間や、神、精霊の想いを吸って光ると言われる「御霊光草」の花が見せた一時の幻。
だが、もし、これが現実だというのなら、「高田栞」はどこへ消えてしまったのだろうか?
ここまでお読みいただきありがとうございました。