何に感謝すれば良いのか
「お前は、これまでのことをどれぐらい覚えている?」
そんな九十九の言葉の意味が分からなかったわけではない。
あまりにも突然の出来事が多すぎて、自分自身がいろいろ混乱していたのは確かだと思う。
だけど、傷も癒され、頭も冷えて、心もかなり落ち着いた今ならはっきり思い出せることがあった。
「水尾先輩がっ!!」
「水尾さん?」
九十九が不思議そうな顔をした。
どうやら、気付いていなかったらしい。
「多分、『綾歌族』の人に、連れ去られた」
「は? 『綾歌族』ってあの女か?」
「違う。あの人じゃなくて、もっと別の、灰色の羽の人」
そうか……。
九十九はあの「綾歌族」を見ていないのだ。
あのおね~さんよりももっとずっと手強そうな男の人を。
「水尾先輩が、わたし、何もできなくて!! でも!!」
自分でも何を言っているのか分からない。
思考が纏まっていないのに、言葉だけが先走ろうとしている。
あの時、わたしの意識は遠のいた。
そして、その後に……。
あれは夢だったと思いたかった。
だけど、あれが夢ではないことはわたしも分かっているのだ。
何故なら……。
「落ち着け」
「ふえ?」
九十九に両肩を掴まれた。
「ゆっくりで良い。お前が目を覚ましたところから話せ」
「わたしが、目を覚ましたところから?」
それにゆっくりって……、そんな暇は……。
「恐らく、お前はオレより先に目覚めている。だから、状況を知りたい」
その言葉で、わたしはあることに気付く。
「そ、その前に……」
これだけは確かめておかないといけないことだった。
「九十九が目を覚ました時、わたし、どんな状態だった?」
「あ?」
「その、わたし、九十九に抱き締められていたところからしか記憶になくて……」
あの意識が遠のいた時の状況を考えると、自分が何事もなく無事でいられたとは思えない。
そして、抱き締められながら九十九から言われた言葉。
それを思い出せば、どうしても嫌な結論に達してしまう。
「そ、それは……」
九十九は視線を逸らし、言葉を濁す。
「やっぱり、酷い目に遭っていた?」
しかも、それを九十九に見られたってことになる?
それって……。
「あ?」
だけど、わたしの言葉を聞いて、九十九の声のトーンが変わった気がする。
わたし、変なことを言った?
「酷い目って、どういうことだ?」
さらに続いたそんな言葉。
「い、いや、あの建物って、良くない思考の殿方しかいないと聞いていたから、その、寝ている間に、襲われちゃったかと……」
自分でも、あの状況をどう説明して良いのか分からず、言葉が上手く出てこない。
だけど、九十九はその表情を変え、またわたしを抱きしめた。
それは目覚めた時よりもずっと力強くて、苦しい。
「大丈夫だ」
「ふ?」
「大丈夫だ!」
「つ、九十九?」
「大丈夫だった!」
繰り返される「大丈夫」の言葉に、強く締め付けられるたびに、わたしはほっと息を吐く。
「そっか……」
助かったと思ったのは願望から来たものじゃなく、本当に助けられたことが分かって、ようやく、力を抜くことができた。
「怖い思いをさせて、ごめんな」
「ううん」
わたしは首を振る。
九十九が謝る必要なんかないのだ。
「オレ、護衛なのに、お前を護れなくて、怖がらせたんだな」
九十九は何も悪くない。
それなのに、その声も、身体も震えている気がした。
「九十九……?」
「栞が、無事で、本当に良かった」
こんな九十九の声を初めて聞く気がする。
不安で、心細そうな声。
九十九はわたしを抱きしめているはずなのに、その力の込め方は、わたしにしがみ付くようでもあり、彼から縋りつかれているようでもある。
それだけ、わたしを護るということが、彼にとって大事なことだってよく分かった。
「大丈夫だよ」
先ほど彼がわたしに言ってくれた言葉をそのまま返す。
「もう怖くないから」
意識を落とす直前は、本当に怖かったのだ。
目を覚ましたら、世界が変わっている気さえしていた。
だけど、世界は何も変わっていない。
わたしの護衛は、今も、わたしの心も身体もしっかり支えてくれている。
「このまま、話を聞いてくれる?」
「このまま?」
「うん。このままで」
顔も合わせることはできないけれど、今はその方が良い。
「あのね……」
わたしはそうしてできるだけ、思い出したことを口にするのだった。
****
一瞬、何を言われたのかが分からなかった。
「九十九が目を覚ました時、わたし、どんな状態だった?」
「あ?」
どんな状態って、あの時の栞は「魔力の暴走」以上の状態だったといえるだろう。
栞の身体が変化して、髪の毛も金色に染まっていた。
何よりも、外に形作るような魔法が全く使えないはずの場所で、その能力を振るい、精霊族の血を引く「狭間族」の男たちを次々と恐怖の淵へと追いやっていったのだ。
「その、わたし、九十九に抱き締められていたところからしか記憶になくて……」
だが、本人はそのことを覚えていないらしい。
彼女を止めるために、オレがしでかしたことも。
「そ、それは……」
合わせる顔なんてない。
だけど、それを口にして良いものか。
だが、続いた言葉で、そんな平和な思考に冷や水をかけられた気分になる。
「やっぱり、酷い目に遭っていた?」
「あ?」
酷い目に遭っていた?
酷い目に遭わせた……ではなく?
「酷い目って、どういうことだ?」
オレが、目が覚めた時の話……だよな?
栞の言いたいことが分からない。
「い、いや、あの建物って、良くない思考の殿方しかいないと聞いていたから、その、寝ている間に、襲われちゃったかと……」
その途切れがちな言葉で、栞が何を言いたかったのか。
そして、何を気にしていたのか。
それ以上に、どんな目に遭いかけたのかを理解した。
ここがどんな場所なのか。
兄貴からの報告で理解していたはずなのに。
どこか、既に片付いたことだと思考の端に追いやっていたのだ。
そんなわけがないから、こんな状態だっていうのに。
思わず、栞を力強く抱きしめていた。
彼女は自分の身を自分で護っていたのだ。
魔法も使えない。
助けもない。
阿呆な護衛は寝こけているような状況に絶望しながら。
何もできない彼女が、自分の身体を護るためには、「高田栞」としての意識を捨てるしかなかったのだ。
だけど、それが彼女を救った。
そうすることでしか救われなかった。
肝心な時に、阿呆な護衛が寝こけていたせいで!!
「大丈夫だ」
「ふ?」
なんと声をかけていいのか分からない。
「大丈夫だ!」
「つ、九十九?」
栞の戸惑いが伝わってくるが、オレにはこんな言葉しか口にできない。
「大丈夫だった!」
自分の身を自分で護り切った彼女に対して、阿呆な護衛はこんなことしか言えないのだ。
元に戻った彼女を見た限りでも、大きな危害を加えられた様子はない。
体内魔気は落ち着きを取り戻していた。
強いて、気になる点を言うならば、先ほど癒した頭の切り傷ぐらいで、身体そのものには特に何もないように見える。
後頭部の傷も、抵抗する時に付いたにしては不自然なものだった。
視界に入らない場所を使う脅しは、何をされているか分からない状態の方だからこそ、効果的だと個人的には思っている。
だから、後頭部に何かで刺した後に、そのまま頭皮を切り裂くとか、脅しにしてもやり過ぎだし、見えない位置の傷ではあまり付ける意味もない気がした。
「そっか……」
栞の強張っていた身体から、力の抜ける気配がする。
彼女が感じていたのが、どれほどの恐怖だったのかなんて、男のオレに分かるはずがない。
「怖い思いをさせて、ごめんな」
その恐怖は、少し前にオレが与えてしまったものと似た種類のものだ。
それを、まだ疵が癒えていない彼女に再度、与えてしまった。
肝心な時に意識がないなんて、何のための護衛だ?
いや、護衛以前に、惚れた女をこんな形で危険に晒すなんて、男としてどうなのか?
「ううん」
それなのに、栞はオレを責めずに首を振る。
オレをこれ以上、甘やかすな。
逆に居たたまれなくなる。
「オレ、護衛なのに、お前を護れなくて、怖がらせたんだな」
もしも、栞が普通の女だったら、無惨な目に遭っていたかもしれないのだ。
いや、違う。
今回、「祖神変化」という奇跡を起こさなければ、栞は確実に周囲の野郎どもに襲われていたはずだった。
護衛であるオレや兄貴は、手の届くほど傍にいながらも、気付くこともなく、栞を助けることができず……、その先にある悲劇は避けられなかったことだろう。
栞に「聖女」の素養があることは疑いもなく、それを当人自身は負担に、いや、重荷にすら感じていた。
だが、結果として、そのおかげで助かったなんて、一体、オレは何に対して感謝するべきなのだ?
「九十九……?」
「栞が、無事で、本当に良かった」
栞の無事を確かめながら、そんなことしか言えない。
これは、完全にオレたちの慢心から生じた油断だ。
情けなくて、情けなくて、それ以上、言葉にならなかった。
それなのに……。
「大丈夫だよ」
栞は気丈にもこんなオレを慰めようとする。
「もう怖くないから」
それは本当に、どこまでも、オレに甘い女だった。
もっとオレを責めろ。
そうでなければ、オレは……。
「このまま、話を聞いてくれる?」
だが、栞はいつものように、オレに向かって罰を与えることはしなかった。
「このまま?」
「うん。このままで」
それはどこか甘い囁き。
「あのね……」
だが、その言葉からかなり時間が経った後。
その口から紡がれた話は、甘い物とは全く無縁の話となるのだった。
ここまでお読みいただきありがとうございました




