何に対して恐怖を覚えたのか?
わたしが、目覚めた時、目に入ったのは、暗闇だった。
完全なる暗闇ではなく、夜の闇。
周囲に空気が流れ、風による草木の音が耳に届くような場所。
わたしは何故か、九十九に抱き締められていた。
多分、何かあったのだろう。
でも、よく覚えていない。
覚えているのは、怖かったという感情だけ。
だけど、何に対して恐怖を覚えたのか。
それは、目が覚めてすぐには思い出せなかった。
ただ九十九に抱き締められながら、なんとなく、「助かった」と、心の底から安堵したことは間違いない。
「正気か?」
だけど、抱き締められた状態で、九十九の口からはそんな不思議なことを尋ねられた。
「え……?」
どこかぼんやりとして纏まらない思考で、短く問い返す。
「正気って……?」
なんでそんな不思議なことを聞かれたのだろう?
わたしは彼から正気を疑われるような行動をした?
だけど、その疑問に返事はなかった。
そのかわり、九十九は無言で、わたしの後頭部を掴んでさらに抱き締める。
自分の顔に押し付けられた胸元から鳴り響いてくるいつもは心地よくて落ち着く彼の心臓の音が妙に早いことだけは分かった。
「九十九……?」
先ほどの台詞と、この行動の意味がよく分からずに、彼の名を呟いた。
「お前、怪我してねえか?」
どこか慌てたような九十九の声。
「怪我……?」
わたしはいつ、怪我したっけ?
でも、彼が怪我をしているというのなら、わたしは怪我を負っているのだろう。
なんだろう?
どこか自分が、別の場所にいる気がする。
心ここにあらず……。
そんな言葉がなんとなく頭に浮かんだ。
だが、視界が不意に大きく揺れた。
そして、顔から温もりが離れ、腕や足から力が抜ける。
「ふ?」
どうやら、わたしは抱き抱えられたらしい。
九十九の顎や首元が暗闇でもはっきりと見える。
「浜に行く!! しっかり、掴まっていろ!!」
そう言われても、どこに掴まれというのか?
手足は力が入らず、垂れさがっていることだけは分かった。
「じ、自分で……」
動けると言いかけて……。
「ここでも、オレは身体強化の魔法なら使える!! 少し黙ってろ!! 舌、噛むぞ!!」
そんな彼の言葉に遮られる。
それは、いつもよりずっと切迫した声。
思考は纏まらないままだったが、視界に入る暗い景色は次々と移り変わっていく。
かなりの速さで移動しているのだろう。
そんな中、わたしは、ただぼんやりと九十九に運ばれていた。
身体強化ができるなら、わたしが自分で走るよりもずっと速いことは分かっている。
だから、そのことについては何も問題ない。
だけど、わたしは一体、いつ、怪我をした?
思い出そうとすると、何故か頭が痛んだ。
これは、怪我をしているせい?
いや、そんな種類の痛みではない。
何か、凄く大事なことを忘れているような気がする。
でも、思考に黒い靄が掛かっているようで何も思い出せないのだ。
「どうした?」
九十九の低い声が耳に届く。
「頭が……」
「痛いのか?」
「いや、痛いというより、記憶の一部が飛んでいるような……?」
思い出したいのに思い出せない。
それは、まるで夢を視た時によく似ていた。
「そうか……」
九十九はそう言ったきり、何も言わなかった。
もしかして、気を遣われたのだろうか?
でも、この距離をこれだけの速度で移動しているというのに、息を全く乱さない辺り、やっぱり九十九は凄いと思う。
確かに魔法の補助はあるかもしれないけれど、それだって、簡単ではないのだ。
ましてや、ここは変な結界の中。
普通に魔法を使うことは難しいというのに、彼の集中力とかどうなっているのだろう?
あの集落まで行くのにかなり時間がかかったはずなのに、移動魔法が使えるところに行くまでほとんど時間はかからなかった。
しかも、わたしを抱えているのに。
改めて、身体強化魔法って凄い。
「着いたぞ。頭を見せろ」
そう言って、砂浜に下ろされた。
そして、返答も待たずに、九十九はわたしの髪の毛をかき分けながら、後頭部のチェックを始める。
髪が引っ張られる以上の痛みがあり、思わず顔を歪めてしまったのが自分でも分かる。
この痛みは多分、切り傷かな?
でも、見えない位置だからよく分からない。
「何で切った?」
「覚えてない」
やはり切り傷らしい。
でも、本当に覚えていない。
九十九に言われるまで、切ったことにも気付いていなかったぐらいだ。
「洗浄して、消毒してから治すぞ」
「お願いします」
洗浄はともかく、消毒……、痛そうだ。
九十九は洗浄魔法なら使えるが、消毒魔法は使えなかったはずだ。
いや、そもそも消毒魔法はないのかもしれない。
「時間が少し経っているみたいだから、消毒はかなり染みるぞ」
余計な気遣い、ありがとう。
「痛っ!!」
頭に付けられた液体から与えられる感覚に、我慢しきれず声が漏れる。
思っていた以上の痛みに、頭から何かが染み出る気がした。
いや、実際に何かが染み出ていたら、いろいろ問題しかないのだけど、そんな感じがする痛みだったのだ。
「少しの間、我慢してくれ」
どうやら、止めてくれる気はないらしい。
スパルタ教育を受けて育った護衛は、時々、主人に対してもその厳しさや激しさを強制する気がするのは気のせいか?
それでも、どんな痛みかが分かっただけでも自分自身に心構えができるのか、先ほどよりはマシになった。
「結構、ザックリ抉れているな。見た目は、切創っぽかったが、よく見ると刺創から、切創になった感じがする。しかも、この形状……。刺さったのは刃物じゃなさそうだ」
「つまり?」
確かに刃物だったら、もっと痛みも鋭かったことだろう。
こんな言われるまで気づかなかった程度のものだとは思えない。
「何かが刺さった後に、それを引っ張るなどして、傷を広げたように見える」
「何それ!?」
なんとなく、心臓に刀を突き入れた後、さらにその刃を上下に動かし、確実に相手を殺そうする武士の姿を思い描いてしまった。
いや、刃物じゃないらしいけど。
「人体の中でも後頭部は固い部分だから、そこまで深くはないのが幸いだな。だが、少し擦過創気味にも見えるから、ちょっと広めに消毒するぞ」
さらりと言われたけど、「さっかそう」って何?
そして、何より……。
「か、髪の毛は無事?」
頭の創って、確か、頭皮の毛穴を傷つけるために髪の毛が生えてこなくなると聞いたことがある。
だから、頭の創は目に見えて分かるそうだ。
「もしかして、瘢痕性脱毛症を心配しているのか?」
「はんこん……?」
耳慣れない言葉過ぎて、漢字変換もできない。
「脱毛症」って言葉から、円形脱毛症のように、抜け毛の一種だとは思うのだけど、抜け毛にそんな種類があることを知らない。
「頭皮の傷によって、毛包がなくなり、毛が生えなくなることだな。だが、魔界人はもともと再生能力が高い。これぐらいの傷なら、禿げ上がる心配はねえ」
禿げ上がる……。
もっと他の表現はなかったものか……。
「でも、わたし、半分、人間だよ?」
純粋な魔界人は確かに再生能力が高いことは知っているけれど、毛穴って、簡単に再生できない部分じゃなかったっけ?
「…………大丈夫だ。………………多分?」
「その間は何!?」
しかも、「多分?」って何!?
なんで疑問形!?
「最悪、植毛という手がある」
「酷い手段だ!!」
ここ、魔法の世界だよね!?
そこはちゃんと魔法でしっかりと治せるって断言してほしい。
「ようやく、調子が出てきたようだな」
「へ?」
「治すぞ」
そう言いながら、後頭部の感覚は、消毒の痛みから、ぞわぞわする治癒魔法独特の気配に変わっていく。
「えっと、冗談だったの?」
「お前は確かに半分人間だが、もう半分は特濃だからな。普通の魔界人よりももっと再生しやすいはずだ」
特濃って……。
人を牛乳みたいに言わないで欲しい。
「王族は、手足を切断しても生えてくる可能性があると聞いたことがある」
「なんか、トカゲみたいだね」
そして、どこまでも出鱈目な存在だなと思う。
「トカゲの自切と一緒にするなよ。ヤツらは骨まで再生はしないんだからな」
「そうなのか」
九十九の雑学は本当に多岐に亘っている気がする。
中学生時点の知識で、トカゲの尻尾切りのことを「自切」という男子は、人間界でもどれぐらいいるものだろうか?
しかも、骨までは再生しないとか……。
わたしはもともとトカゲの尻尾に骨があったことも知らなかったよ。
あれだけグネグネ動くのに、軟骨じゃないんだね。
「よし! ちゃんと綺麗になったぞ」
「ふえ?」
別方向に思考を巡らせていたせいか、いきなりの言葉に反応できなかった。
「禿げずに、ちゃんと髪の毛まで再生してる」
あまり、何度も禿げとか言わないで欲しい。
いや、髪の毛までちゃんと再生したのなら、そこまで気にしなくても良いと思うのだけど、なんとなく気になってしまうのは何故だろうか?
「どうした?」
「いや、何でもないよ」
これ以上、深く追求してはいけない気がした。
そんなわたしの反応をどう思ったのか分からないけれど、九十九は大きな息を一つ吐くと……。
「お前は、これまでのことをどれぐらい覚えている?」
そんなことを聞いてきたのだった。
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