絶望のおとずれ
「ああああああああああっ!!」
頭の内部からナニかに押しつぶされそうなほどの激痛が走った。
片頭痛の脈打つような痛みではなく、脳を直接握られているような圧迫感に悲鳴を噛み殺しきれずにわたしは叫ぶ。
大きいわけではなく、脳内に直接響いてくる音に耐えかね、自分の頭部を両側から挟むように掴んだ。
『まだ耐えるか』
音は止んだが、痛みはすぐに止まってくれない。
先ほどまでの内部に圧迫を伴う強い痛みはなくなったが、自分の脈に合わせたような、一定速度の痛みに変わった。
『この「赤の王族」がいなければ、お前を連れ帰りたいところだが……、残念だ』
そう言って、わたしに近付きながら、両腕に抱えている水尾先輩を見せつけるかのように少しだけ上げる。
そんなことをされても、水尾先輩は目を覚ます様子がなかった。
さっきの大きな音を、わたし以上に至近距離で鳴らされても起きなかったのだ。
だから、それも不思議なことではない。
そして、先ほど、この綾歌族は言っていた。
「神すらも眠らせる綾歌族の音」と。
つまり、水尾先輩は眠っているだけだ。
恐らく、動く様子もないわたしの護衛たちも。
寝ている間にこの場所の仇とばかりに、わたしたちに余計な危害を加えることはなく、ただ水尾先輩を連れ去ろうとしているだけだった。
そのことは、現状の救いと言えなくもない。
だけど、それだけだ。
状況が悪いことに何一つとして変わりはなかった。
「わたしでも良いなら、わたしでも良いでしょう!? その方を放してください!!」
九十九が起きていたら激怒しそうな言葉を叫ぶ。
だけど、仕方ないじゃないか。
ここで、何もせず水尾先輩が攫われたら、わたしは真央先輩やトルクスタン王子になんと言えば良いのか?
『お前たちの意に従う道理など、我にはない。命があるうちに素直に退け』
当然ながら、返ってくる言葉は絶対的な強者のものだった。
そうだよね。
この綾歌族にとってはこのまま、水尾先輩を連れ帰るだけなのだ。
叫ぶだけのわたしの言葉に従う理由などない。
それならば、叫ぶしかできないわたしはその全力をもって抵抗させてもらうだけだ。
距離にして、2メートルほど。
この距離なら、できるかもしれない。
「風魔法!!」
わたしの両掌から、いつもよりもずっと小さい竜巻が生まれ、綾歌族に向かってまっすぐ伸びる。
いつもなら、九十九を巻き込むほどの出力が、今は見る影もない。
だけど、構わなかった。
必要なのは威力じゃない。
『甘いな』
その一言で、視えない何かに至近距離で放たれたわたしの「風魔法」は阻まれた。
『この領域で、人類の術を使えることは驚きだが……、ぬ!?』
言葉の途中で、綾歌族は気付いたようだ。
「風魔法!!」
今度は真下に向かって魔法を放つ。
それは竜巻というより、空気の塊に似た何か。
いつもの「魔気の護り」にちょっと似ているが、足元で破裂した空気は少しだけだけど、わたしの身体を上に押し上げ、その勢いを付けて前方に飛ばす。
「水尾先輩!!」
そのまま水尾先輩を抱えている綾歌族の左腕に向かって両腕でしがみ付いて、さらに体重をかける。
だけど、そこまで。
それ以上の行為をこの綾歌族は、許しはしない。
いや、この行動にしても、自分にはさほど脅威にならないと判断してのことだったのだろう。
実際、相手の左腕一本に対して自分の両腕を絡めて全体重をかけたはずなのに、その腕はびくとも動かずに、わたしがぶら下がったような形になっただけだったのだから。
『我の命とこの娘の命。欲しいモノは一つだけにしておけ』
そう言って、どこに筋肉があるのか分からないような細すぎる腕で振り払われ……。
「がっ!!」
わたしの全身は、見えない何かに叩きつけられた。
床ではない。
壁のような平らなものでもなかった。
だけど、背中と後頭部を打ったことは間違いない。
先ほどとは違った意味で、脳が揺らされる。
これは、まずい!!
先ほどとは違う種類の痛みがする。
打ったというより、何か刺さったような痛みだ。
そう言えば、この建物は木製で、造りも良いとは言いにくいものだった。
雄也さんが暴れたせいもあったかもしれないけれど、あちこち傷が入っていたし、板のずれとかもあった。
そのどこかに当たってしまったのかもしれない。
水尾先輩の身体は、その弾みで下半身が下に降りたようだったが、上半身は支えられたままだった。
そして、わたしを振り払った後に、再び抱え直される。
『ふむ……。今なら……』
再び、あの「音」が聞こえた。
「あぁあっ!!」
先ほどより、脳に響いてくる。
「い、いやぁ……」
今の自分にできる限りのことはした。
でも、足りない。
もっと、もっと、確実な手を打たなきゃ、水尾先輩が……。
『少々、幼いと思ったが、なかなか良い声で鳴く』
綾歌族が何かを言っているけど、もう思考が白くなってきて、よく聞こえない。
『お前も連れ帰る方が、我が主も喜ぼうが、時もない』
それなのに、大きな鳥の羽音だけははっきりと聞こえた気がした。
『周囲より早く目覚めよ。その身を穢されたくなければな』
なんか、嫌な言葉が耳に届いた気がする。
『ここに住まう雄どもは、薬によって常に「発情」させられていると聞き及んでいる。孕んでいない成熟した雌を見れば、見境がなくなるほどだとも。寧ろ、強化も加えられているはずなのに、人類の術が使えない状況で、雄どもを鎮圧していることは驚きだ』
その中でも気になった単語に、一瞬だけ、意識が覚醒した。
だけど、それは本当に一瞬だけ。
脳は休みたがっているし、身体も重くなり、その感覚をなくしていく。
ああ、コレに九十九も雄也さんもやられてしまったのか。
これは本能に訴えかける術。
神の遣いである精霊族に許された行為の一つだ。
そんな相手に神の劣化模倣でしかない人間の意思程度で抗えるはずもない。
『尤も、それも、意識があればこその話のようだな』
その声が少しずつ遠ざかっていく気配がする。
それは同時に、水尾先輩もいなくなるということでもあった。
「み……お……」
『加護があるとはいえ、その人類にしては強すぎる意思には敬意を表するぞ、「橙の王族」よ』
そんなもの、どうだっていい。
「く……っ!!」
右腕に力を込めようとするが、まったく握られた感覚もない。
だが、扉の軋んだ音がして、さらに羽音が耳に届く。
土を蹴るような飛び立つ音がして、全てが終わってしまったことをわたしは理解した。
「あ……」
全てが無駄だったとは思わない。
何もできなかったとも思っていない。
やれることはやった。
だが、問題はこれから先のことだ。
本当は、まだ何も終わっていないことはわたし自身も分かっている。
状況は変わっていないのだ。
ぐらぐらして闇に溶け込もうとする意識を懸命に繋ぎとめる。
眠ってはダメだ。
眠っては……。
なんとか右手と左手を少しだけ、ずらすことはできた。
でも、それは摩擦を感じるほどではなかった。
せめて、叩きつけたい。
少しでも意識を……。
……少し、飛んでいた。
しかも、まだ意識は飛びたがっている。
そして、状況はさらに悪くなる。
人の動く気配がしたのだ。
意識が薄れかかっていても、不思議と自分の背筋が凍りついたことが分かった。
さらに心臓が大きく跳ね、早鐘のように鳴り続けている。
だけど、分かってしまう。
少なくとも、この気配は九十九ではない……と。
それならば、動いたのは雄也さんであって欲しいと願うしかなかった。
漏れ聞こえていた言葉だけでも不吉なものを覚えるような場所だ。
しかも、女性にとって最悪な方向で。
仮にも女性と呼ばれる性別である以上、わたしも危険なことだけは、薄れている思考でもしっかりと理解できてしまう。
身を縮めて身体を丸くする。
凄く怖い。
いろいろな人たちから追われたこともあるし、命の危機を感じたことだって一度や二度の話ではない。
だけど、それらとは別種の恐怖を感じている。
わたしは息を殺して、じっと待った。
だけど、現実はいつだって無情なものだ。
『――――女の気配がする』
ほとんど動かなくなってしまった頭と身体に届いた声は、わたしの知らないモノだったのだから。
この話で72章は終わります。
次話から第73章「起死回生」です。
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