帰ってこない
「つ、疲れた」
わたしはその場でへたり込んだ。
「お疲れ」
その疲労の原因となった人間は何事もなかったかのように、ごく自然に、わたしに向かって、飲み物を提供してくれる。
「ありがとう」
反射的にお礼を言って、そのまま口に含む。
「甘い」
すっとした甘さが口に広がって、何も考えずに感想が口から出てきた。
なんだろう?
甘いけど、べたっとした甘さじゃなくてもっとすっきりしている。
ああ、語彙が欲しい。
「疲労回復に良いだろ?」
「九十九が疲れさせなければ、もっと良かった」
「だから、悪かったって言ってるだろ?」
反省したかどうかも分からないような謝罪。
でもわたしだって、彼に悪気があったとは全く思っていない。
それでも、自分がされたことと、その後に彼から言われた感想が、そう、特にその感想が良ろしくはなかった。
確かに褒められてはいるのだろうけど、素直に喜べない。
そもそも、女性の太股に触れておいて、「柔らかくて良い感触だった」とセクハラのような感想を言われて素直に喜べるものなのか?
確かに撫で回されたわけではなく、軽く触れられただけのこと。
胸を鷲掴まれた時よりはずっとマシだし、彼の「発情期」中にされた行為とは比べるべくもないだろう。
それでも、完全に気を抜いていた時に、太股に感じたぞわわっとした感覚。
これは、似たようなことをされた水尾先輩が思わず、凶器攻撃をしたくなったのも理解できる気がした。
まだ、言い分を聞こうとしただけわたしはマシだったと思いたい。
聞かない方が良かったみたいだけど。
結果、疲れるまでの言い争い、というか、九十九が謝って、わたしがさらに立腹するという妙な構図が出来上がってしまったのだが、これは多分、わたしも悪くない。
ただそれでも、露骨に言われると困ってしまう。
しかも「男だから仕方ない」と言われてしまえば、それに対して発露した感情だって、「女だから仕方ない」と言いたくもなる。
『終わったか?』
既に傍観すらしていなかった長耳族の青年からそう声をかけられた。
なんとなく、横眼で九十九と目を合わせる。
「終わった」
わたしは大きな溜息を吐きながらもそう答えた。
「悪かった」
「別に怒ってないよ」
彼の悪気がない行為に、しかも、謝罪までさせている以上、この誰の得にもならない言い争いは、幕引きはわたしがするべきだろう。
恥ずかしかったからと言って、このまま意地を張り通したところで、生まれるのは大きな溝しかない。
だから、この辺りが潮時だ。
でも、落ち着いたら、新たな感情が湧いてくるわけで……。
少なくとも、九十九にとっては、わたしの太股が柔らかくて気持ちが良いとうっかり口にしてしまう程度には、良い感触だったわけだ。
自分で触ってもよく分からない。
服の上からだったのに、良い感触なの?
いや、流石に自分の生太股の上に九十九の頭を載せたいとは思わないけれど……。
髪の毛、擽ったそうだし、チクチクするかもしれないし。
「どうした?」
「うひゃおうっ!?」
目の前にいきなり現れた顔。
動揺のあまり、この上なく奇怪な悲鳴が口から飛び出た。
「初めて聞く種類の奇声だな」
「わ、わたしも、初めて出したかもしれない」
少なくとも、これまでに自分の口から聞いた覚えはない。
そして、心臓が一生懸命にお仕事をしている。
かなり動揺したらしい。
「大丈夫か?」
そう言いながら、九十九はわたしの額に手を当てて顔を覗き込んでくる。
ああ、もう!!
どうしてくれよう、この好み顔!!
「大丈夫だよ」
できるだけ顔に出さない努力をする。
頭の中で「平常心」、「平常心」、「解熱」、「解熱」と唱えながら。
そうでもしないと、また発熱したような状態になって、九十九は心配してしまう。
それにしても、彼は自分のことを客観的に見た方が良いと思う。
毎回、同じような状況でわたしが発熱しているのを覚えていないのか?
自分の顔が凶器だとそろそろ自覚していただきたい。
『それは、言わなければ伝わらないぞ』
そうなんだけど!!
言えるものじゃない。
長耳族の青年の心を読んだ声に、思わず、そう思ってしまった。
「ところで、トルクと水尾さんは?」
九十九が周囲を見回す。
「……と言うか、今、何時だ?」
「正午ぐらい?」
わたしの体感時計は当てにならないが、流石に太陽の位置でお昼かどうかぐらいは分かる。
正午で太陽が一番高い位置に来るのは、地球もこの惑星も一緒なのだ。
「ああ、太陽がほぼ正中だな」
「水尾先輩は先に、奥に行った」
「は?」
九十九を起こしたくはないけれど、先の様子も知りたいからと言って、奥に向かってしまったのだ。
「トルクは暫くして、水尾先輩を追いかけた」
「ちょっ!? ちょっと待て。あの2人、もう行ったのか?」
「うん」
「どうして、止め……、無理か」
「うん」
九十九がそれに気付いてくれた。
まず、わたしに水尾先輩は止められない。
それは九十九にも分かったらしい。
実際、止めたけど止まらなかった。
魔法が使えるギリギリの範囲に行きたかったらしい。
そして、数分の後、水尾先輩が戻ってこないので、トルクスタン王子も彼女を追ったわけだ。
流石に数分では水尾先輩も戻れないと思うけど……、心配なら仕方ない。
敵意がある人間が近くにいれば、九十九はどんな状態でも飛び起きる。
万一のために夢の中でも叩き起こす通信珠もある。
だから、2人を見送ったわけだが、2人とも帰って来なかったのだった。
「2人が行って、どれぐらいだ?」
「二時間くらい……、かな」
「二時間……」
どう考えても、何かあったと考えるべきだろう。
でも、わたしとリヒトだけではどうすることもできない。
それに……。
「リヒトが、九十九が目覚めるまで待てと言ったんだよ」
「リヒトが?」
九十九が訝し気に長耳族の青年を見る。
『この奥にいるのが、生物を生け捕りにできるほどの知性がある者なら、すぐにどうにかなるということはない。何より、ユーヤがいる』
「その兄貴に対する絶対的な信頼はどこから来るんだ?」
九十九が苦笑した。
『それに、どちらにしても向かうなら、万全の方が良い。一番の戦力はツクモだ。だから、身体が回復したと見なすまでは動かせなかった。それに、そこの家もツクモしか消せないみたいだからな』
このコンテナハウスを出したのは九十九だった。
わたしと行動することが多い九十九は、雄也さんから生活の基盤となる物をいくつも渡されているそうだ。
わたしの着替えとかを含めた私物も、そのほとんどは彼が保管してくれている。
そして、食料を一番多く持っているのも当然ながら、九十九である。
それは作り手であるためでもあるのだけど。
因みに雄也さんは、その予備として、もっと規模の小さいコンテナハウスと、食料やその他に必要となる物を持っている。
わたしにその土地に応じた新たな服を渡してくれるのは、雄也さんだ。
流石に下着はない。
それだけは自分で買うようになった。
そして、手渡されても困る。
だけど、本当に、わたしは自分の生活を彼らに依存していることが分かるね。
収納魔法、召喚魔法……使える気がしないのだけど、使えるようにならないとね。
「仕方ねえ。向かうか」
コンテナハウスを片付けながら、九十九はそう言った。
さらに、大きなリュックサックを召喚して、手早く荷物を纏めていく。
そのリュックサックは、かなり大きい上、硬そうな棒状のものが横に付いていたりして、いかにも重そうだった。
「ん」
そして、短すぎる言葉だけで、九十九はわたしに手を差し出した。
「何?」
「水尾さんたちが昨日いた場所までなら、恐らく、ここから移動魔法で行ける。そこからは難しいだろうけどな」
実際、昨日、水尾先輩たちも移動魔法であの場に出たらしい。
流石に、今回はあの場所へ直接、移動魔法は使っていないだろうけれど。
そうなると、そこに移動してからが問題だと言うことか。
この場所を知らない雄也さんたちはともかく、水尾先輩やトルクスタン王子が戻ってこないところをみると、簡単に戻れる気はしなかった。
「行きはよいよい帰りはこわい?」
「こわいながらも通りゃんせってか?」
わたしの言葉に、九十九が軽口で返した。
元より、行かないという選択肢はない。
それならば、進むしかないのだ。
この話で70章は終わりです。
次話から第71章「狭間で生きる者たち」に入ります。
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