【第69章― 音もなく訪れる ―】海難事故
この話から69章です。
いきなり不穏な表題から始まりますが、よろしくお願いいたします。
「どうして、こうなった?」
わたしは思わず呆然と呟くしかなかった。
前髪からは独特の匂いがする冷たい海水が滴り落ちてきている。
それを気にする余裕もない。
わたしが濡れているのは前髪だけじゃなく、全身だったから。
「……さあな」
すぐ傍にいる黒髪の青年も見事なまでにずぶ濡れとなり、自分の服を軽く絞っている。
わたしも自分の着ている服が身体に張り付いて、気持ち悪いけど、ここまで濡れてしまえば、絞る気にもなれない。
周囲には、彼以外の人間の気配はなく、まだ少しだけ揺れている気がする視界には、青く広がる海があった。
今はその変わらぬ青さがただただ腹立たしい。
これまで一緒にいたはずの人たちの姿はこの場になかった。
どうやら、バラバラになってしまったようだ。
「気分はどうだ?」
「最悪」
寧ろ、この状況で気分が良くなる方法があれば、教えて欲しい。
先ほどまで視界がぐるぐる回っていたのだ。
これは確実に酔っている気がする。
お酒ではなく、乗物酔いの方で。
「会話ができるだけマシか」
それでも、護衛はわたしの状態を冷静に判断した。
「状況整理をしたいが、その前に風呂入って着替えるぞ。魔界人でも身体を冷やせば風邪をひくんだからな」
そう言いながら、彼は見慣れたコンテナハウスを砂浜の上に出す。
こんな時、魔界人は本当に便利だ。
どんな状況でも、持ち物を失くすことがない。
例え、港町で借りた船が、転覆の憂き目にあったとしても。
海賊とかの襲撃にあったわけではない。
乗っているメンバーを考えれば、ただの人間たちが相手ならば、後れを取るなどありえないだろう。
船が転覆した原因は海獣だったらしい。
ある意味、大自然の一部による被害だ。
何故、「らしい」なのかは、その時のわたしは眠らされていたために、その事故の状況を知らないのだ。
国境を越えるたびに、状態異常を起こす体質はこんな時に困る。
目が覚めたら、いきなり海中とか、いろいろ酷い話もあったものだ。
自然はいつだって、人類に厳しい。
もうちょっと手加減をお願いします。
わたしはコンテナハウスの中に入りながらそう思った。
本来は、九十九は周囲の警戒のためにコンテナハウスの外にいたかったようだけど、彼自身が「魔界人でも風邪をひく」と言った手前、少しでも早く冷えた身体を温める必要があるのは同じだ。
だから、今回は抵抗することなく素直に中に入ってくれた。
それでも、わたしに着替え袋だけ渡して、さっさと行動する辺り、彼自身は烏の行水程度の時間で終わるつもりなのだろう。
魔界人は身体の温めることぐらい、魔法で何とかできるのだ。
春の海は、体内魔気に護られていても、かなり冷たかったと思う。
まさか、そんな冷たい海を泳ぐ羽目になるとは思ってもいなかったけど。
九十九の体感では、海水温は10度くらいだったそうだ。
地域によるけど、初冬の北海道がそれぐらいの海水温らしい。
そんな余計な情報はいらない。
そして、それを聞いただけで死ねる気がした。
因みに、わたしが10年間過ごした地方は、基本的に過ごしやすく、海水温がそこまで下がらなかったと記憶している。
冬でも、海水は温かかった。
確か、暖流って言うんだっけ?
いや、海だけではなく、雪が少し舞うだけで、お祭り騒ぎになるぐらい滅多に降らなかったからね。
でも、なんで、人間界の海水温チェックまでしてたの? この護衛。
相変わらず、彼のことはよく分からない。
知識を無駄にしていないのは悪いことでもないのだけど。
「ふへ~」
髪の毛と身体をさっと洗って、お風呂に入ってようやく人心地。
魔界の海水も塩分やいろいろな成分が含まれているらしく、しょっぱかったし、ベタベタしたのだ。
全身が海水に浸かる体験なんて、かなり久し振りだ。
海水浴なんて何年もしていなかった。
最後に行ったのは、中学二年生時に部活で、合宿に行った時か。
あれは、海水浴か、キャンプか、練習試合か、何がメインだったのかよく分からないような合宿だった覚えがある。
でも、今となっては良い思い出の一つだ。
ある程度、身体が温まってから湯船から出る。
彼のことだ。
先に出て待っていることだろう。
****
さて、状況整理をしよう。
スカルウォーク大陸の港町マルバから、ウォルダンテ大陸に向けて、レンタル船で出航したがつい昨日のこと。
借りた船は、ジギタリスから乗った船にはかなり劣るが、航行距離はそう長くない。
実際、マルバから、ウォルダンテ大陸は目視確認できるほど近いのだ。
だから、2日とかからずに到着する予定だった。
だが、海と言うのは予想がつかないもの。
今は紅月宮ということもあり、海にすむ巨大魔獣である海獣たちの「求愛期」に当たる。
自分たちが乗っていた船は、その海獣たちのトラブルに巻き込まれたらしい。
問題となった海獣「大型海豚」は、ちょっと特殊な性癖、いや、生態があった。
「求愛期」に入ると、一匹の雄を、雌同士が取り合うのだ。
雷雲を呼び寄せ、多数の雌同士がバトルロイヤル式で戦い、その勝者だけが雄に求愛することが許される。
そして、その求愛中は、敗者となった雌たちがその雌雄を取り囲んで、求愛行為が終わるのを待つ。
それが、4、5日ぐらい、長ければ一週間ほどかかるそうだ。
その間、安全に航行できるはずだった。
だが、海に棲む海獣はニフロードだけではない。
高速移動しながら求愛行為を行う「海を走る魚」という海獣が、ニフロードたちの求愛行為中の囲いにぶち当たり、まあ、平たく言えば、お邪魔をしてしまったわけだ。
海に生きる者たちに伝わる「海の恋路を邪魔するヤツは、海に呪われ溺れ死ね」。
その言葉通り、ニフロードたちは、シュクフニルフに報復しようとする……、が、「海を走る魚」という異名は伊達ではない。
ニフロードたちより小さく、それでも体長11メートルもある海獣ではあるが、その飛ぶように泳ぐその動きは、視界に捉えただけでも奇跡と言われるほどの早さである。
ニフロードたちが報復の構えになった時には既に遠く離れた場所におり、その近くに浮いている船が何艘かあった。
八つ当たりの同然の雷撃がその船たちの周りを囲み、完全に逃げ場がなくなった後、ニフロードたちの周回行為によって発生した大渦に、次々と飲み込まれてしまったのだ。
船乗りたちは、そんな時のために脱出用の道具を持っていたわけだが、不慣れな素人たちは船に備え付けられていた道具を作動させることよりも、自力で脱出する方法を選んでしまった。
いつものように移動魔法で事態の脱出を図ったわけだ。
これが陸地だったらそれでも問題はなかっただろう。
だが、移動魔法を使ったのは、海上だった。
しかも、予期せぬ事故によって慌てている。
さらに、ニフロードたちの怒りにより、周囲の大気魔気がかなり不安定な状態にもあった。
その結果……。
「今に至る」
「いや、ちょっと待って?」
オレの説明を聞き終わった後、栞が右手で頭を押さえて、左手を突き出し、制止のポーズをとる。
「どうして、そうなった?」
「また最初から説明するか? 何度説明しても、海獣によって船が転覆して、乗っていた人間たちが散り散りになったことが変わるわけではないけどな」
今回の船はカルセオラリア製ではなく、ティアレラ製の安いものだった。
ティアレラは乗物国家だったはずだが、安いものを選んでしまったのだから仕方ない。
海の上空を浮かず、普通に海水に接触して浮くタイプ。
波の影響を受けやすく、だからこそ大渦にも呑まれてしまった。
やはり、近距離と言っても、金額をけちるべきではなかったな。
次があれば気を付けよう。
「あ~、え~、皆は無事っぽい?」
変なポーズをとりながら、栞は確認する。
「……多分?」
まあ、一行の中で、海に落ちたぐらいでどうにかなりそうなのは魔法も使えず、泳ぐ経験もないと思われる長耳族のリヒトぐらいだ。
そして、そのリヒトは、水尾さんが掴むのは見た。
水尾さんならそこから自力でなんとかできるだろうし、真央さんも恐らく大丈夫だろう。
人間界で泳いだことはあるはずだ。
トルクスタン王子だって中心国の王族だ。
多少、溺れたぐらいでどうにかなるとは思っていない。
兄貴は見かけなかったが、心配するだけ無駄だと思っている。
「その妙な間が嫌!!」
「仕方ねえだろ? オレはお前を掴むだけで精いっぱいだったんだ」
「それはありがとう!」
「どういたしまして」
栞は移動魔法が使えなくても、恐らくは普通の人間よりずっと頑丈だ。
だが、あの船に異常が発生した時、オレの手は、近くにいたリヒトや水尾さんよりも、ちょっと離れた場所で眠っていた栞の身体を掴んでいた。
それに関しては本当に申し訳ないとは思っている。
「うぬう。やっぱり『生産期』が終わる蒼月宮までちゃんと待つべきだったのか……」
「結果としてはそうなるな」
だが、他の船乗りたちも同じように海に出ていたのだ。
長年、そこで生計を立てているプロが大丈夫と判断した以上、素人のオレたちができたことなんて限られている。
「通信珠は……、反応なし?」
「ああ」
作動はするが、兄貴と連絡がとれないのだ。
まるで、何かに阻まれているように。
「護衛がオレだけじゃ不安か?」
栞にとっては予期せぬ事故に加え、オレと二人っきりというのは不安要素になるかもしれない。
「いや、そうじゃないよ」
栞は首を振る。
「でも、皆が無事かどうか分からないのは、心配なんだよ」
それは純粋に気遣う気持ち。
二人っきりという状況にやや浮かれ気味だったオレは、人でなしなのだろうか。
「無人島……ではないよね?」
「人の気配は近くにない」
だが、なんだろう?
ずっと妙な気配があるのだ。
ここに来てからずっと、視線のようなものを感じている。
まるで、オレたちを監視するかのように。
「いきなり無人島サバイバル編?」
「生き残るだけなら難しくはない。食える植物も見えるし、周囲が海なら、塩や魚も摂れる」
ここが本当に無人島なら、逆に安全かもしれないのだ。
寧ろ、誰もいない島で、好きな女と2人きりとか……。
ある意味、男の浪漫を凝縮しているだろう。
まあ、どうせいろいろな形で邪魔は入るだろうけどな。
「本当に優秀な護衛だね」
そう言って、オレの妄想を知らない栞は苦笑したのだった。
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