珍しい歌声
いや、なんとなく嫌な予感がしていたんだ。
兄貴からの買い出しの指示を受けて、リヒトと、栞を一緒に連れ出した。
まあ、2人の気分転換が目的だったはずだが、栞がリヒトとともに海を見ながら、人間界の童謡を歌い出した途端、周囲が騒めいた。
そりゃそうだ。
誰もが聞いたこともない歌を、可愛らしい女がその無垢な笑顔を大安売りするかのように楽しそうに堂々と歌い出したのだから。
ああ、クソっ!!
面倒ごとになる。
その気配だけで、心が読めなくても察するしかない。
当人が無自覚なのだと思うが、栞の声は可愛いのだ。
しかも、歌となればもっと可愛らしくなる。
歌そのものは、お金をとるようなプロの声が溢れている人間界の基準では、下手ではないが、格別上手いわけではないと思う。
それでも、よく通るその高い声は多くの人の耳に届く。
そして、音楽と言うのは、人間界のように溢れているわけではなく、特殊な場所でしか耳にすることしかできないこの世界ではどんな扱いを受けることになるか。
どう考えても、人目を……、いや耳目を集める結果になるよな?
だから、案の定、遠巻きに見ていた男の一人が堂々と声を掛けてきやがることになるのだ。
「そこの、変わった歌をお歌いの可愛らしいお嬢さん。少しだけ、お話をさせていただけませんか?」
「はい?」
いつものように珍妙は返答ではなく、一応、丁寧な問い返し。
キョロキョロと周囲を確認している辺り、自分に声を掛けられたとは思わなかったらしい。
だが、周囲に可愛らしい女性どころか、性別が女性に該当する人間がいなかった。
どう見ても、野郎ばかりだ。
そして、そのほとんどが、声を掛けられた彼女を見ていた。
許可が下りれば、まとめてぶっ飛ばしたいぐらいだ。
『止めておけ』
「分かってる」
心を読めるリヒトが、オレの物騒な思考に制止をかける。
本気で考えているわけじゃない。
ただ、そこの数メートル先の赤い服を着た太めの男はぶっ飛ばしたい。
先ほどから、栞に向けている視線はあまり気分が良い種類のものではなかった。
『ここでは止めておけ』
「……おお」
同感らしい。
オレの勘が外れていなかったのは良いことなのか、どうなのか。
だが、それなら離れた方が良さそうだ。
「栞、リヒト、行くぞ」
「あ、うん」
オレが促すと、止めていた足を再び動かそうとして……。
「ちょっと、お嬢さん! お願いです!! 話だけでも少々!! 本当に少しだけで良いので!!」
そんな風に男から叫ばれた。
その必死さが、逆に、嫌な予感しかしない。
「なんか呼ばれている気がするんだけど……」
「気のせいだ」
尚も進めようとするが……。
「助けてください!!」
そんな余計な言葉を吐きやがった。
「……助け、呼ばれたよ?」
「気のせいだ」
だが、彼女は足を止めてしまった。
「話だけでも聞こうよ」
「厄介ごとだ」
『まあ、厄介と言えば、厄介だな。代わる人間を捜しているらしい』
「代わる人間?」
おい、こら、リヒト。
この女の興味を引くような余計なことを言うな。
『もう遅い』
「は、話だけでも……。悪いようにはしませんので」
本当に必死なのか、男は追いかけてきやがった。
歳は三十代後半。
小豆色の髪に、瑠璃のような群青色の瞳。
それなりに仕立ての良い服を着ている辺り、港町の従業員という印象はない。
「声をかけるなら他を当たれ。この女は『商売女』じゃない」
「ちょっと、九十九」
「は? いやいや、そんなつもりは……」
当然ながら、そう思って声を掛けてきたわけじゃないらしい。
まあ、どう見ても、栞はそんな感じの女には見えないけど、立場的に分かりやすい牽制は必要だろう。
この港町のように、「ゆめの郷」から離れている場所では、たまに管理、登録されていない自主商売の「ゆめ」がいたりする。
基本的にこの世界では国にもよるが、そういった行為を含めて、届け出されていない人間の身柄の譲渡や売買の契約は容認されないことがほとんどである。
誤解のないように言っておくが、奴隷の認可があるというわけではなく、単純に雇用契約も含めた話である。
いずれかの場所で、商売をするにしても、仕事をするにしても、15歳以上の人間が働くためには、届け出が必要なことだという話だ。
届け出のない無許可の状態で金銭のやりとりがあれば、処罰の対象となることもある。
セントポーリアはその辺り、特に厳しいらしいが、届け出はそう難しいものではなく、その辺で働くぐらいなら、身分や身元証明が必要なわけでもない。
そもそも、戸籍や住民登録なんてものが存在しないのだから。
そして、平民は読み書きができる人間ばかりではないため、口頭での届け出も容認されている。
だから、行商人という職業の人間が、どこでも商売できるわけだが。
但し、当然ながら、貴族や王族に仕えるとなれば、話は違ってくる。
それなりの身元証明が必要らしい。
例外として、オレや兄貴は10歳未満の孤児であったため、城へ住み込む前に、一度、聖堂で孤児の登録をした上で、千歳さんに引き取られたという経緯がある。
そこからさらに、10歳未満のガキどもが、国王陛下と直接雇用契約を結ぶというとんでもない流れになっているのは、今、考えればとんでもない話だと思う。
身元証明は、ミヤドリードだったんだろうな、多分……。
その千歳さんも15歳以上でセントポーリア城に来ているわけだが、それらの書類は全て、当時の王子殿下であり、現セントポーリア国王陛下が完璧に作ったそうだ。
そして、王族の口添え、身元証明は、もはや命令である。
千歳さんの雇用登録はある意味、容易だったかもしれない。
だが、どこも治安を守るための公安官や保安官が常備されているわけではない。
国境に近い辺境となると、かなり緩くなる。
だから、未登録の「ゆめ」が存在することもあるので、引っかからないように気を付けろとトルクスタン王子は言っていた。
いや、オレは、どこの誰とも知れない女を、相手にするつもりはねえけどな。
「話とはなんでしょう?」
「聞いてくださるのですか!?」
栞の言葉に、男が食い気味に反応した。
「聞くだけならタダなので……」
動じることなく、栞は応答する。
確かに、時間は取られるが、そこで金銭が発生するわけではない。
それに、暫く、この場所から動くことはできないのだ。
このリヒトが積極的に止めに入らないと言うことは、危険はないはずだ。
厄介ごとでないのなら、そこまで警戒の必要はないだろう。
だが、男からすれば、こちらの反応は意外だったようだ。
話を始めるどころか、オレと栞を見比べている。
特に栞を上から下まで見ていた。
そこに、邪な感じはなく、何かを確認しているだけにも見える。
栞の立ち振る舞いは、ストレリチアにいる間、王女殿下の指導の元、それなりの所作にはなっている。
生粋の貴族と比べるべくはないのだが、少なくとも庶民には見えない。
当人にその自覚は薄いだろうけど。
そして、分かりやすく護衛のような従者と、幼い従者見習いに見えるリヒト。
どう見たって、貴族や金持ちのお嬢様のお忍びに見えるだろう。
だが、先ほどの台詞はどう聞いても、お嬢様の発想ではなかった。
声をかけてきた男が困惑したくなるのも分かる気がする。
「それでは、話だけでも……。場所を変えましょうか」
「いや、ここで話せ」
人前で話せないような内容なら断るしかない。
「あの……」
大の大人が、縋るような瞳で栞を見る。
「わたし、護衛の意向には基本的に逆らえないので」
その栞も困ったかのようにオレを見た。
男の顔が分かりやすく「普通、逆じゃないか? 」と言っている。
どうやら、腹芸は苦手なヤツらしい。
だが、オレや栞の意思が変わることがないと分かったのか、観念して、この場でポツリポツリと語り始めるのだった。
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