罪悪感を覚える者たち
「リヒトが言ったのが、どの件か、分からんな」
兄貴はオレをまっすぐ見てそう言った。
「ふざけるな! オレが怒るようなことなんかそう多くねえ!!」
「お前は割とよく怒っている気がするが?」
「兄貴が怒らせるからだ!!」
「お前が些細なことでキレてるだけだ」
その言葉でさらにカチンときた。
「些細なこと……だと?」
オレが大きく息を吸った瞬間、結界の気配がした。
「……あ?」
「今から何を叫ぶ気か知らんが、ここは往来だ。人の気配がなくても誰が聞いているとも知れん。少しは考えろ」
その余裕がさらに腹が立つ。
そして、その台詞は今から叫ぶことを知っているも同然だ。
「兄貴、正直に答えろ」
オレが凄んだところで、兄貴が動じることはない。
「夢の中で、栞にキスしたって本当か?」
「ああ」
迷うことなくあっさりと認めやがった。
「だが、悪いが、お前の思うような感情からではない。単純に感謝の気持ちだ」
さらにそんなことまで付け加えやがる。
「ふざけるな。どんな感情からでも、キスはキスだ。それに、それを見ていたリヒトに口止めした時点で、兄貴に多少の罪悪感があったってことじゃねえのか?」
どんなに誤魔化そうとしたって、その事実がある。
ただの挨拶、感謝の気持ちというのなら、口止めをする理由にはならない。
「それに、わざわざオレを戻した後で、こっそりって部分が気に食わん」
「ほう。つまり、お前の目の前ですれば良かったか?」
「おお。少なくとも、それなら止める余地があるからな」
流石に目の前で堂々とさせる気はない。
……と言うか、許されるならオレがしたい。
「一番、危険な護衛が何を言う」
「少なくとも今のオレは安全だ」
自分で言うのもなんだがな。
「よく言う。隙あらばと、狙っているのが丸分かりだ」
「は?」
「緩急をつけ、言葉巧みに警戒心を解いた上で、どこまでの行為ならば、主人に許されるかを計りながら……、とは、ご苦労なことだと思うがな」
「なっ!?」
心当たりがあるだけに、思わず口元に手をやってしまった。
「同時に、よく我慢できるものだと感心もする」
兄貴はそう苦笑する。
「『発情期』が来てなければ、我が弟ながら不能を疑うほどだ」
「余計なこと言ってんじゃねえよ。今は兄貴の話だ」
このまま話を有耶無耶にする気はなかった。
兄貴は肩を竦める。
「やれやれ。恋に狂うと言うが、お前がそこまで行くとはな」
「誤魔化すな」
「別に誤魔化している気はない。お前にそんな感情が根付いていることは、純粋に兄として喜んでいる」
兄貴が穏やかな笑みを浮かべた。
「あ?」
「それが、あの主人でなければ、少しぐらい後押ししたくなる程度には……、な」
兄貴の後押し……。
なんだろう?
崖から突き落とされる図しか思い浮かばねえ……。
「まあ、本当に軽くとはいえ、彼女にキスしたことは認めるし、そのことを覚えていない当人に言ってくれても俺は構わん」
「はあ!?」
当人にって、何考えてんだ?
そんなこと、オレが言えるわけねえだろ?
「夢の中とはいえ、本物のミヤドリードに会わせてくれた。ミヤに少しだけ成長した姿を見せられた。その喜びが押さえきれなかっただけだ」
兄貴は俺もまだ修業が足りんと言っているが、どうにも納得できない。
「知るか。言いたければ自分で言え」
何故、それをオレの口から言わせようとするのか?
「覚えていないとはいえ、俺が彼女にしたことはあまり褒められたことではないだろうからな」
「『あまり』……じゃねえ! 『全く』だ!」
護衛の立場で、主人にキスして褒められる世界がどこにあるってんだ?
主人公にとって都合の良い展開しかないエロ漫画やエロゲーか?
そこまで考えて自分の思考が停止した。
この発想は少しマズい。
思わず漫画やゲームに例えるなんて、オレの思考回路が、どこかあの主人に似てきた気がしたのだ。
「あと、リヒトに口止めしたのは別の理由だ」
「あ?」
兄貴の言葉で現実に戻される。
「ヤツが夢に入って来た原因が分からん。俺の魔法によるものなのか。それとも長耳族の能力の一種なのか。それとも、ヤツ固有の能力なのか」
「それと口止めに何の繋がりがあるんだ?」
「栞ちゃんが、夢の中の出来事とは言え、第三者に自分がキスしているところを見られて喜ぶような女性に見えるか?」
見えない。
だが……。
「それは、兄貴が悪い」
どう考えてもそうだろう?
「まさか、俺たち以外の存在があの場にいるとは思わなかったからな」
「そこじゃねえ! 夢の中とはいえ、護衛が主人に対して軽々しく、キスしてんじゃねえ!! って話だ!!」
そこが一番の問題だろ?
「お前が言うな」
兄貴が鋭い目を向ける。
「いや、これはオレが言わなきゃ逆に誰が言うんだよ!?」
だが、それぐらいでオレがビビると思うなよ?
「俺は夢の中の話。お前は、現実でもっと酷いことをしていたはずだが?」
「オレは現実だが、『発情期』中だった。でも、兄貴の場合、確かに夢の中だが正気だ。自分の意思だ。全然、状況が違うじゃねえか」
一緒にされては困る。
確かに「発情期」だって、ある意味、自分の意思だ。
あの時のオレは、栞以外目に入らなかったし、本気で手に入れたかったことは認めてやる。
だけど、今回は明らかに違う。
「それとも、兄貴は夢の中なら、現実でなければ、何でも、どんなことでもして良いって思うのか?」
確かに現実ではない以上、彼女自身が本当の意味で傷つくわけではないのだろう。
仮に覚えていたとしても、その傷が癒されるのも早いはずだ。
所詮は夢の中のことだと。
だが、オレは納得できない。
現実だけではなく、夢の中でだって、栞に少しも傷ついて欲しくないって思うのは欲張りなのか?
「ふざけるな」
兄貴は低い声でそう言った。
「現実だろうと、夢の中だろうと、彼女たち母娘を傷つけて良いはずがない」
「それなら……」
なんで、そんなことをしたのか?
そう続けようとして……。
「まず、九十九」
「あ?」
兄貴から止められた。
「俺から感謝のキスを受けたことは、彼女にとって、そんなに傷つくことなのか?」
「……さあ?」
兄貴の問いかけに思わず首を捻ってしまった。
こればかりはなんとも言えない。
当人に聞く以外は……って聞けねえ。
栞は、どう思うだろうか?
兄貴からキスされることを喜ぶ女だっているだろう。
確認して、顔を赤らめて嬉しそうな反応を見せられても嫌だから、やっぱり本人には聞きたくもねえ。
「自分の感情を中心にして物事を見るな」
それは分かっている。
分かっているのだけど……。
「オレが本当に感情だけで動いていれば、聞いた時に問答無用で殴っている」
少なくとも、話を聞こうとしただけマシじゃねえか?
「物騒な弟だな」
兄貴は苦笑する。
「『先手必勝』がミヤの教えだからな」
「『事前準備』という言葉も習っているはずだが?」
「ああ、言葉だけは知っている。他には『用意周到』、『暗中飛躍』?」
尤も、それらは全て、兄貴に任せている。
オレがするのは実働ではない。
陽動……。見せかけだけの派手な行動だ。
裏方が舞台効果まで考えて演出し、役者がその指示に合わせて目立つように激しく動く。
だから、そんなオレに必要なのは、その場に合わせた即興演技をする度胸だけ。
「実が伴っていない言葉ばかりだな」
「『面従腹背』と言わなかっただけマシだろ?」
「それは今更だ。それに、お前は表面上すらこの俺に媚び諂うようなことはしていない」
「そんな無様ができるか。昔から、オレが自分を捨てるのはシオリのためであって、兄貴のためではない」
オレたちは同じ血が流れる兄弟であり、様々な知識を得るための教師と生徒のような関係でもあり、今は仕事を遂行するための上司と部下の関係でもある。
だが、兄貴の御機嫌取りのために生きているわけじゃない。
そんな心にもないことをすれば、真っ先に、兄貴自身から突き放されていることだろう。
状況によっては消されていたかもしれない。
「『ゆめの郷』でお前が自分の立場を忘れていないのなら、それで良い」
だが、と兄貴は付け加える。
「主人たちの前で、無様を見せるなよ」
不敵な笑みをオレに向ける。
だから、言ってやる。
「それは、お互い様だ。兄貴だって、主人たちの前や、聖霊界にいる師が見守る中で、これ以上の醜態を晒すなよ?」
既に栞に対して、いろいろやらかしているオレが言うのもなんだが、例え、感謝の気持ちがあったからって、主人に許可なく触れて良いわけではない。
そこだけは間違えるな。
兄貴がしたことは、オレ以上の逸脱行為だと。
「分かっている。貸し一つだ」
つまりは、当人に黙っておけと。
やはり、罪悪感はあるらしい。
あるいは、関係の変化を恐れているのか。
それならば、やらなければ良かったのにとも思うが……、感情に突き動かされて身体が勝手に動くとはよくある話だ。
特に夢の中は、意識が剥き出しなので、感情の抑制、自制が難しい。
他者の夢への介入は、肉体を現実世界に置いたまま、意識を同調させる行為なので、自分の夢に近しいのだ。
まあ、もともと兄貴の失態を当人に言うつもりもない。
今の関係が変わってしまうことを恐れているのは、オレも、同じだから。
この話で66章が終わります。
次話から第67章「高らかに響く歌」です。
ここまでお読みいただきありがとうございました。




