状況を見てから動け
それは、本当に反射だった。
凄まじい、殺意を感じ……、自衛の態勢をとる。
即ち、自分に向かって殺気を放った相手の排除。
これ以外の選択肢などなかった。
目を開いて、自分の体勢を整えるよりも、先に、その殺気に向かって手に馴染んだ剣を向ける。
綺麗で正確な型になど拘らない。
相手が誰かを考えるよりも先に行動した。
「阿呆か。状況を見て動け」
聞きなれた声。
当然か。
先ほどのあの殺気にも覚えがある。
ガキの頃、何度、あの気配をこの身に浴びたことか。
ここ数年、あまり感じる機会はなかったが、どうやら感覚は錆びてはいなかったらしい。
「何のつもりだ?」
ガキの頃ならともかく、今更、鍛錬だと言うつもりもないだろう。
眠っている意識を容赦なく浮上させるほどの強い殺気など、尋常な事態ではない。
「お前こそ、何のつもりだ?」
オレの剣が首元に当たっているような状態で、その殺気の元である兄貴は笑いながらもぬけぬけと言った。
しかし、ここまで兄貴がオレに接近を許したのは少し不思議だった。
昔なら、剣を握った腕ごと破壊しにきたはずなのに。
やはり、ストレリチアの大聖堂での療養生活は、兄貴の感覚を鈍らせているとでも言うのだろうか?
「まず、この刃を下ろせ」
何を言ってやがる?
人に平然と殺気を向けておきながら、自分には向けるなと?
暫く寝ていたせいか、随分、生温い考え方になっちまったようだな。
「断る。あれだけの殺気を向けておいて……」
殺られる前に殺れ。
オレにそう教えた当事者じゃねえか。
「俺は良いが、主人が怯えている」
その言葉で、オレはようやく気付いた。
「え…………?」
兄貴の殺気が強すぎて、微かなその気配にも気付けなかったのは、オレにとって最大の不覚だった。
「あ……」
オレの口から漏れたのは迷いの声。
だが、その存在が蒼い顔で震えていることに気付いたその瞬間、兄貴の首元に向けていた剣の刃を返し、迷いを飛ばすかのように振り払った。
だが、オレの剣は空しく宙を切る。
チッ……。
剣を構え直すような隙を見せてしまったために、避ける暇を与えてしまったらしい。
もともと、一筋でも掠るとは思っていなかったが、それでも、薄皮一枚ぐらいは斬りたかった。
しかし、そのまま突くよりは、力を込めて思い切り払いたかったのだから、仕方ない。
八つ当たりの意味を込めれば、剣の軌跡は大振りにもなりやすいのだ。
「迷いもなく振り抜きに来たな」
移動魔法で場所を移した兄貴は余裕を含んだ声でそう言った。
「……ったり前だ!!」
悔しいが、叫ぶしかない。
「栞から離れろ、このクソ兄貴!」
兄貴と言えど、オレの目の前で、主人に簡単に触れるな!!
「なんで振り抜きにいってんの!?」
気配は弱くなっているが、まだ意識はあったようで、栞が、兄貴に抱き抱えられた状態でそう叫んだ。
「安心しろ、お前を血で染める気はない」
「安心して、キミを血で染める気はないから」
奇しくも、兄貴と同じ台詞を吐いた。
しかも、ほぼ同時に……。
尤も、あの場面で構え直す必要のない突きを選んでも、兄貴は簡単に対処しただろう。
剣に関して、オレの動きはほとんど兄貴から学んだものであるため、兄貴を越えるものではない。
だから、僅かな動きでも兄貴には予測されやすいのだ。
だが……。
「あ……?」
叫んだ直後、栞がいつものように意識を飛ばした。
それも、兄貴の腕の中で。
力なくだらりと彼女の白い腕が下に落ちるのが見えた時、何故か、逆にオレは冷静になった。
栞が兄貴の腕に抱かれたまま、意識を失う瞬間を見て、不意に、頭が冷えたのだ。
本当は逆になると思っていた。
彼女がオレ以外の男の腕に抱かれていれば、怒りのあまり、熱くなって意識が吹っ飛ぶほど我を失ってしまうと思っていたのだ。
だが、阿呆なオレは、昔から、その場所にいるのが兄貴なら仕方ないと諦めてしまう。
オレの一番は昔から、シオリだけなのに。
そして、兄貴の一番は、昔からシオリではないのに。
「栞のその状態は、魔法力の枯渇……、だな?」
オレは確認する。
「ああ、誰かさんとの勝負に、全力を尽くしたらしい」
あの時点で、栞の魔法力は限界に近かった。
それなのに、さらに魔法を使えば、意識が吹っ飛ぶことは避けられない。
「兄貴は、栞から話を聞いたか?」
少し前の勝負について、オレはしっかりと覚えている。
最終的に、混乱して、意識を奪われるあの瞬間まで……。
だから、倒れる直前に、「負けた」と素直に認め、敗北宣言を口にしたのだが、それは彼女に届いたかどうか分からない。
「少しだけな」
栞を抱えた状態で、兄貴はそう答えた。
なんだろう?
本当にもっと苛立つと思っていた。
来島の時はそうだったから。
そして、兄貴が栞に触れても、何度か苛立ったことがあるぐらいだから。
だが、実際に兄貴が栞を抱えているというのに、来島の時ほど激しい嫉妬の感情は湧き起こらない。
これは一体、どういうことだ?
「どうした?」
「いや、別に……」
自分でもよく分からないのだ。
栞のことは好きで好きでたまらないのに、それでも、今、無理矢理、兄貴の腕から奪い取りたいとは思えない。
触れたい気持ちがなくなったわけではない。
許されるなら、今もその柔らかそうな頬を突きたいとかそんな感情は多分にある。
でも、そんな感情的な行動をして、休むための眠りについた栞をうっかり起こしてしまう方が嫌だった。
ようやく、意識を飛ばしてくれたんだ。
ゆっくり休んで、いつものあの呑気な顔を見せて欲しいと願ってしまう。
「お前は、よく分からんな」
「何がだ?」
「いや、もっと色惚けていると思っていたが、存外、冷静だと感心しているところだ」
酷い言われ方だ。
だが、兄貴が懸念していた気持ちも分かる。
オレ自身も先ほどの瞬間までは、そう思っていたぐらいだから。
「単純にオレの欲望と願望を秤に載せたら、願望の方が重いってことだろ」
男としての「欲望」よりは、護衛としての「願望」の方がずっと強いと言うことだろう。
「願望?」
兄貴が何故か疑問を返す。
「今、栞を無理矢理起こして兄貴から引き離すよりは、そのまま、ゆっくりと休ませてやりたい」
この胸の内に、何の「感情」も湧かないわけではない。
多少の嫉妬は勿論、ちょっとだけある。
だが、それでも、来島の時のように、激しく殺意を抱くほどにはならない。
それが、兄貴だからなのか?
それとも、アレが、来島だったからなのか?
その辺りが自分でもよく分からない。
「まあ、良い。行くぞ」
兄貴がオレに背を向けて歩き出す。
「どこに?」
「リヒトが寝ている天幕だ。既に眠っているヤツには悪いが、寝床を変えさせる」
「どういうことだ?」
それはつまり、寝ているアイツを叩き起こすと言うことか。
「暫くの間、俺たちが完全に無防備になる。その状態でリヒトまでも護ることは難しい。防護型の家屋を出す」
それは、この広場で、野宿時に使うコンテナハウスを出すと言うことか。
半壊する前にカルセオラリア城下で新たに購入したアレは、確かに防護結界も保護色も備えた優れモノだ。
そのまま、一般住居として使うことも可能なぐらいのモノを購入したからな。
価格も、店舗で取り扱い、持ち運びできるものとしては最上級に近かった。
まあ、王族の血が流れる人間がいるのだから、そこで金を惜しみはしないのも当然なのだが、一般人に見える兄貴が躊躇することもなく全額即金払いは、流石に店の人間たちが驚愕したらしい。
だが……。
「無防備になる?」
どういうことだ?
「詳しい話は省くが、彼女の夢に入る」
「夢?」
確かに、兄貴は他人の夢に入ることができる。
この「ゆめの郷」に来てからも、何度か、オレの夢に入って来やがった。
だが、何故、栞の夢に入ろうと言うのか?
「だけど、説明を省き過ぎじゃねえか?」
せめて理由ぐらい言って欲しい。
教えてくれはしないだろうけど。
「説明するほどの判断材料がないんだ」
それは、兄貴にしては珍しいほど、戸惑ったような気の弱い言葉だと思う。
だが……。
「師に逢うぞ、九十九」
後に続いたその言葉の方には、一切の迷いはなかったのだった。
この話で、65章が終わります。
次話から第66章「夢で逢いましょう」です。
ここまでお読みいただきありがとうございました




