胸が躍るもの
「情けないツラだな」
部屋に入るなり、分かりやすく不機嫌な顔をしている弟に声をかける。
「ノックぐらいしろよ、クソ兄貴」
案の定、そのまま噛みつかれるが……。
「兄の気配も分からぬような無能を弟に持った覚えはない」
そこまで鈍感で危機意識もないような人間が護衛の任務などできないだろう。
「ああ、そうですか」
ふいっと横を向くが……。
「これが、今回の報告書だ」
顔を合わせないまま、書類が差し出された。
公私はつけているつもりらしい。
それでも、感情を表に出している時点で、まだまだではあるのだが。
「分かった」
差し出された数枚の紙に、今回の勝負について纏められていた。
その経緯から結果に亘るまで詳細に。
唯一難点を上げるなら、急いで文章を纏めたためとは言え、字が汚い点は大きなマイナスである。
報告書と言うのなら、誰が見ても読みやすい物であって欲しい。
「以前に比べて、栞ちゃんについての描写が細かくなったな」
特に、ここ最近は意図的に避けている感があった。
だが、ここに来て、本当に開き直ったらしい。
「悪いか?」
「いや、問題ない」
極端に偏り、贔屓目による美辞麗句を並べるだけの中身がない文章ではなく、ちゃんと客観的なものなのだから問題になるはずがない。
寧ろ、こいつに「発情期」の兆候が見られるようになってからの文章の方がおかしかったぐらいだ。
意識的に彼女についての描写を避けているのがありありと分かって、なんとも気分が悪いものだった。
病床と言うには大げさではあったが、文章を読むぐらいしか楽しみがなかった人間に対して、よくもあんなものを読ませられるものだと逆に感心したほどである。
「言いたいことがあれば、はっきりと言っていただけませんか? お兄様」
「いや、自覚があるようで何よりだ」
あえて、何の自覚かはいう必要はあるまい。
そんなものは、当人自身が嫌というほど分かっていることなのだから。
「兄貴に聞きたいことがあるんだけど、良いか?」
「どの件についてだ?」
心当たりがありすぎて、逆に何についての問いかけなのかが分からない。
「兄貴は、野球しかやってなかったはずだよな?」
なるほど、その件か。
素人目に見ても、俺がソフトボールの投球法を少し齧ったことがあるのは、分かったらしい。
「そうだな。本格的にやった競技は野球ぐらいだ」
この世界にはスポーツ競技という娯楽がない。
「魔法」というものがあるためか、対等の立場で同じことをするのが難しいという考え方があるためだろう。
魔力が強い者は、自分の力を制限したくはないし、魔力が弱い者は、自分の力では勝てないことが分かっているのに勝負を挑むことなど無謀と分かっている。
だから、スポーツというモノを知って、胸が躍った。
老いも若きも、男も女も関係なく様々なスポーツに取り組んで努力する。
国を挙げてのお祭り騒ぎになる大会もあった。
世界の大舞台で活躍する人間たちを見た。
同じ条件の元、自分の力で世界の頂点に立った人間の誇らしげな姿を見た。
それに衝撃を受けないはずがない。
その中から、多くを選ぶことはできない。
自分が選んだのは、「野球」。
自分が通っていた中学校は、いずれかの部活動に参加しなければいけないと聞いていたので、その際に選んでみたのだ。
集団行動が苦手だった自分が、他者と協力するための訓練も兼ねていた。
同じ集団競技であり、世界大会も話題に上るサッカーや最大のスポーツ人口を誇るバスケットボールや、老若男女が楽しめるバレーボールではなく、野球を選んだ理由はいくつかあるが、そのきっかけは、単純に目に付いただけだった。
テレビなどを含めた国内メディアで騒ぐことが多かったためだろう。
だが、最終的な決め手となったのは、その難解なルールだった。
長い時をかけて進化してきたことが分かるほどの複雑さ。
攻守のどちらも不利にならないように定められたルールは、読み込むほど考えさせられる。
しかも、一人では絶対にできないという点も気に入った。
だから、もう二度とできない。
あの世界にいる間の限定的な楽しみだったのだ。
「だが、中学校には、ソフトボール競技という選択授業があってだな。そこで、投げ方を教わる機会があった」
野球を選んだ理由の一つに、意外と体育の授業でできないという点もある。
サッカーや、バスケットボール、バレーボールは小学校、中学校で経験があるのだが、野球だけは経験できなかったのだ。
そのかわりに、授業で選ぶことができたのが、よく似たスポーツのソフトボールだった。
「オレたちはあんなに本格的な投げ方は習ってないぞ」
上投げが主流の野球ですら、投手経験の有無でその実力差が変わってくる。
投手は下投げしか許されないソフトボールで、本格的な投球法で投げられたら、未経験者は手も足も出ないことだろう。
「教師からではなく、クラスのソフトボール部所属の女子から手解きを受けた」
よくある話だ。
戦力増強のために、投手ができそうな人間に声をかけて、形だけでも投げさせたくなる。
だが、問題は……。
「手取り足取りと言うか、その……」
少しばかりその女子から気に入られ過ぎてしまったことだろうか。
投手の姿勢の矯正という名目の元、かなり身体のあちこちを触られた覚えがある。
「あ~」
何かを察したのか、弟は、同情的な視線を俺に向けた。
「後は独学だな」
「独学?」
「基本の型さえ間違えなければ、そこそこの球は投げられるようになる。まあ、本格的にやっている者からすれば、児戯に等しいレベルではあるのだがな」
野球だけでなく、ソフトボールという競技を知りたいと思うきっかけがあった。
ソフトボールという競技に打ち込んでいた少女に救われた日から、ずっと、彼女の見ている景色を見てみたくて。
「無駄に見えることでも無駄ではなかったと言うことだな。現に、主人の気分転換にはなっただろ?」
「まあ、確かに」
弟は疑問を持つことなく納得する。
必要以上の追及をしない部分は美徳か、悪徳か……。
「栞がソフトボールをやっていた時の顔を見ることができたのは、オレにとっても良かったとは思ったな」
どこか眩しそうな顔。
そこで、彼女に近い位置にいるはずの男が、意外にもソフトボール競技中の彼女を全く知らなかったことに気付いた。
バッティングセンターなどで遠目に見かけることも、他校の練習試合を観戦することもなかった。
暫く接点を持つなという俺の言葉を律儀に守り、己を鍛え続けていたのだ。
それはなんて……、阿呆なのだろう。
「尤も、アレをソフトボールと言っても良いかは分からんが……」
弟はそう言うが、彼女は言うだろう。
あれは、立派にソフトボールだと。
確かに、人数は足りない。
本来、一対一でやるような競技ではないのだ。
だが、彼女にとって大事なのはその部分ではない。
本格的な競技が望めないことは分かっているのだから、その真似事でも十分、満足してくれる。
「大事なのはソフトボールかどうかではない。主人の気分転換ができたかどうかだ。そこをはき違えるな」
だから、俺はそう言った。
「そうだな」
勿論、それに気付かない弟でもない。
「単純に、オレが面白くないだけだ」
隠すわけでもなく、そう続ける。
あの主人のことを、ある程度知っていると思っていたのに、自分の全く知らない面があった。
そこが嫌なのだろう。
「欲張りな男だな」
全てを知ることが、必ずしも良いわけではないのに。
「うるせえ。自分の器が小さいことぐらい承知している」
「そうだな。『ぐい呑み』程度か」
「『お猪口』よりはマシってか」
俺の言葉に対して、皮肉気な笑みを返してきた。
随分、この弟も図太くなったものだと感心する。
「器の小さい自分ごと飲み込め」
自身の器を過剰に見誤るよりはマシだ。
ここ数年で、誰も、この男を小さいものとして見なくなった。
過小評価しているのは、当人だけだろう。
わざわざ言ってやるつもりはないがな。
「分かってるよ」
弟は真剣な瞳を向け……。
「もう昔のオレとは違うからな。負けてやる気も、隣を譲る気もねえ」
そんな宣言を俺に向かって口にしたのだった。
ここまでお読みいただきありがとうございました。




