【第64章― 追う風たち ―】後に残るもの
この話から第64章です。
よろしくお願いいたします。
いよいよ、この「ゆめの郷」から出て行けると思っていたのだが、残念ながらもう一泊することになった。
あの最初に泊まった施設ではなく、栞と数日過ごした施設でもなく、あの広場からそこまで離れていないごく普通の「ゆめの郷」の施設だった。
理由はいくつかあるが、まあ、トルクスタン王子の回復が遅かったことと、水尾さんの様子も考えて……、だった。
それだけ、水尾さんにとって、兄貴にあっさりと負けてしまったことがショックだったのだろう。
だが、あれは仕方ない。
手段としては、魔法を主体に戦う人間に対しての王道だと思っていたが、彼女は魔法国家出身だ。
真央さんの話では、聖騎士団すら「魔法勝負」と呼ばれる立ち合いで、あんな戦い方をすることはかなり少ないらしい。
水尾さん相手には、物理攻撃を試みても、「体内魔気」によって吹っ飛ばされることが分かっているからだろう。
だから、魔法国家の攻撃手法、その戦法は、魔法中心……、つまり、魔法撃ち放題になってしまうそうだ。
それだけ、ずっと他国との争いもなかったということだろう。
そして、魔法国家の魔法を越える魔法耐性の人間も現れなかったということでもある。
まあ、彼女の精神的な対応は、栞や、真央さんに任せることにした。
ここ数日、栞と一緒に過ごす時間があまりにも長すぎたせいか。
一人だけの部屋がやけに広く感じた。
いや、実際、この部屋がずっと広いのだが。
もともと一人で過ごすことは苦ではないのだが、これまで傍にいた存在がいなくなるというのはそれだけで落ち着かない。
それに、無意識にその姿を探そうとする。
近くにその気配がないことに落胆してしまう。
本来は、この状態が自然なはずなのに……。
「ああ、そうか」
これが、淋しいという気持ちなのか。
シオリたちに置いて行かれたあの時とはまったく違う感情がこの胸の内にあった。
なんとなく、胸部に手を当てると、いつものように規則的な音が聞こえてくる。
オレは首を振って、自分の中に生まれた「心」を振り払う。
ここ数日が非日常過ぎたのだ。
それが、全て元に戻っただけの話。
栞がいなくなったわけでもなく、ただ、ずっと見える位置にいないだけのことだ。
あの黒い瞳がオレを映す時間が減っただけ。
あの黒い髪が視界に入る回数が少なくなっただけ。
オレとの他愛ない日常会話にも変化するあの豊かな表情を見続けることができなくなっただけ。
そして、互いの温もりを感じる距離にいることがなくなっただけ。
「すっげ~、大きな変化だよな」
それは本当に特別な時間だった。
夢のように甘く、この胸の奥底から優しく温かな光を感じ続けることを許された貴重で尊い時間。
指に伝わる胸の鼓動が少し早まった。
分かっている。
彼女は、主人でオレはただの護衛。
だから、それ以上進むことは許されない。
それでも、思いがけず与えられることになった時間は、あまりにも眩しく、泣きたくなるほど切なくて、それ以上の夢を見たくなってしまった。
いや、それ以上の夢を見てしまった。
それはどこまでも純粋で、どこまでも自分本位な餓える望み。
―――― 栞が欲しい。
それが、自分の中に芽生えてしまった生物としての本能であり、雄としての欲望であり、男としての願望であった。
この手で触れて、あの柔らかさと温かさを知らなければ、そんなものに気付くこともなかっただろうか?
それも、今となっては分からない。
分かっていることは、既に、オレは彼女を以前よりも深く知ってしまって、知らなかった時に戻ることはできないということだ。
「情けないツラだな」
不意に声がした。
待ち人がようやく出向いてきたらしい。
「ノックぐらいしろよ、クソ兄貴」
「兄の気配も分からぬような無能を弟に持った覚えはない」
「ああ、そうですか」
いつもは気にならない程度の兄貴の言葉が一つ一つ癪に障る。
いや、いつも気に障っている台詞がより苛立ちを増すと言うか……。
正直、あまり顔を見たい心境でもなかったのだが、それはそれ、だ。
自分のやらなければならないことを見誤ってはいけない。
「これが、今回の報告書だ」
「分かった」
いつものように事務的に書類を渡すと、兄貴はにこりともせずに受け取って、その内容を確認していく。
「以前に比べて、栞ちゃんについての描写が細かくなったな」
「悪いか?」
「いや、問題ない」
どこか皮肉気な笑みを向ける。
「言いたいことがあれば、はっきりと言っていただけませんか? お兄様」
「いや、自覚があるようで何よりだ」
その言葉すら何か含みを持たせてくる。
その態度が今はどうしようもなく腹立たしい。
「兄貴に聞きたいことがあるんだけど、良いか?」
再び、報告を確認している兄貴に思わず、声を掛けていた。
「どの件についてだ?」
兄貴は書類から目を離さないまま、問い返してくる。
「兄貴は、野球しかやってなかったはずだよな?」
そんな分かりやすい言葉に、一瞬、兄貴は目を閉じ、再びオレに顔を向ける。
「そうだな。本格的にやった競技は野球ぐらいだ」
それはどこか懐かしむような笑み。
「だが、中学校には、ソフトボール競技という選択授業があってだな。そこで、投げ方を教わる機会があった」
確かに授業で草野球のようなソフトボールをやった覚えはあるが、特別、印象には残っていなかった。
強いて言えば、野球部の連中が妙に張り切っていた覚えがあるぐらいか。
「オレたちはあんなに本格的な投げ方は習ってないぞ」
あんな本格的な投球方法では授業にならないだろう。
「教師からではなく、クラスのソフトボール部所属の女子から手解きを受けた。手取り足取りと言うか……、その……」
「あ~」
兄貴が珍しく言葉を濁した時点で嫌な予感しかなかった。
恐らくは、そのクラスの女子とやらに、セクハラじみた教え方でもされたのだろう。
モテる男と言うのは、その分、苦労が多いことを、オレは兄貴によって、教えられている。
異性にモテ過ぎるのは、羨ましくないと心から思える程度には。
オレが女に縁がなかった原因に、この兄貴の存在がある気もしなくはない。
「後は独学だな」
「独学?」
「基本の型さえ間違えなければ、そこそこの球は投げられるようになる。まあ、本格的にやっている者からすれば、児戯に等しいレベルではあるのだがな」
なんでそんなことをしたのだろうか?
ソフトボールの投球方法を身に付けたところで、今後、役に立つとは思えない。
そんな無駄に等しいことを、兄貴がわざわざ時間をかけてやるのは不思議な気がしたのだが……。
そんなオレの視線に気付いたのか。
「無駄に見えることでも無駄ではなかったと言うことだな。現に、主人の気分転換にはなっただろ?」
どこか挑発的に見える笑みを浮かべてそう言った。
いや、これはいつも通りの兄貴だ。
単にオレが、そう言う風に捻じ曲げて捉えているだけだろう。
「まあ、確かに」
栞の表情は確かに変わったのだ。
どこかスッキリしたようなやり切った顔だった。
「栞がソフトボールをやっていた時の顔を見ることができたのは、オレにとっても良かったとは思ったな」
同じように真剣なのだけど、絵を描く時とは全く違う顔だった。
オレが初めて見たあの表情は、今回のような機会がない限り、恐らくは一生、見ることもなかったのかもしれない。
「尤も、アレをソフトボールと言っても良いかは分からんが……」
投手が投げて、打者が打つだけの行為。
だが、あれは、野球で言うようなキャッチボールとは違うし、トスバッティングと呼ばれるものとも違うだろう。
どう見たって、あの球速が普通ではないことぐらいはオレでも分かる。
しかも、距離は多分、野球よりもずっと近い。
加えて、同じ女性ではなく、男が投げる球だ。
同じ男だって、気後れしても可笑しくないと思う。
だけど、栞は全く怯むことなく打ち返し、転がしていた。
それも、かなり嬉しそうに。
その姿と表情がどこか、栞に向かって魔法を放った時のセントポーリア国王陛下と重なった。
男女と言う性別の違いはあるのに、あまりにも、あの2人は似すぎていることを改めて実感する。
栞は性格的な部分が母親に似て、性質的な部分は父親に似たのだろう。
「大事なのはソフトボールかどうかではない。主人の気分転換ができたかどうかだ。そこをはき違えるな」
「そうだな」
兄貴の言葉は尤もだった。
大事なのは内容ではなく、その結果だ。
そして、栞がかなり楽しそうに、そして、幸せそうな顔をしていたのだから、兄貴の言う気分転換としては最良だったのだろう。
ただ、あの結果を出したのが、自分ではなかったことが、たまらなく悔しいだけなのだった。
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