2年も先の約束
目が覚めると、朝……、と言うより既に昼が近い時間帯だった。
オレにしてはよく寝てしまったものである。
これは、久し振りに酒を呑んだせいか。
もしくは、あの紅い髪の男に盛られた薬効成分の中に、消しきれなかった部分があったのか分からないが、ぐっすり寝こけていたらしい。
すぐ傍で眠っていたはずの主人は既に起きて、行動を開始していたようだ。
少し離れたところで、動いている気配がする。
時間的に、腹が減っているだろうに、朝飯の要求もせず、ゆっくりと眠らせてくれたことに感謝しよう。
「おはよう」
栞の背中に声を掛けると……。
「おはよう」
彼女は、笑いながら振り返って、応えてくれた。
胸の中に甘酸っぱい感覚が広がる。
だが、それを顔に出さないようにしなければいけない。
「珍しくゆっくりだったね」
「たまにはのんびり寝たかったんだよ」
寝る前にゆっくり栞の可愛らしい寝顔を見て、穏やかな寝息を確認していたら、夢心地となったことだけは覚えている。
そんな風に幸福を感じながら寝ることができたなんて、幸せなことだった。
「あの後、どれぐらい呑んでいたの?」
どこか呆れたような栞の問いかけ。
そんな顔すら可愛いから、困ってしまう。
「そこに転がっていた空き瓶程度だな」
オレが答えると、栞は少し目を見開いた。
「頭は痛くない?」
「頭? 全く」
オレが変な顔をしていたのか。栞はそんなことを確認してきた。
いや、何故に頭痛?
ああ、二日酔いを心配されているのか。
確かに瓶の大きさと数を見れば、かなり呑んだように見えるからな。
だが、酒はあの紅い髪の男が呑んだ方が多い。
「たったあれだけの量ぐらいで、オレは二日酔いになんかならねえよ」
転がっていたはずの瓶は、気付けば、部屋の隅に固められていた。
栞が纏めてくれたらしい。
テーブルに残っていたつまみや、グラスなども厨房の方へ運んでくれたようだ。
「ああ、一箇所に纏めてくれたんだな。ありがとう」
そう言いながら、彼女の柔らかい黒髪を撫でる。
オレは片付けが苦手だから、そんな気遣いが嬉しい。
「それにしても、魔界に日本酒を持ち込んでいたの?」
酒に詳しくない彼女でも、それらが「日本酒」と呼ばれる種類の酒だったことには気付いたらしい。
まあ、「清酒」や「大吟醸」って日本語でしっかりと書かれているからな。
特にオレが気に入った酒なんて、「銘柄」よりも、「大吟醸」の文字の方が大きく書かれているぐらいその酒が大吟醸酒であることを主張しているぐらいだった。
「言っておくけど、それらはオレの酒じゃねえぞ。人間界から酒は持ち帰ってねえ」
だが、恐らく兄貴は何本か持ち帰ったと思う。
「……ってことは、ライトのお酒なのか」
「いや、それは……」
その所有者の名を言っていいものか少し、迷った。
「全部、来島の酒……、だったらしい」
「……へ?」
オレの言葉にきょとんとした顔を見せる。
それだけ、意外だったのだろう。
「処分のために呑むのを手伝えと言われた」
「処分って……」
オレの言葉に呆れたような反応を返す。
だが、今にして思えば、ヤツも「処分を手伝え」というのは口実だったのだと思う。
来島が、どれだけ酒を秘蔵していたかは分からないが、あのペースで呑めるのならば、オレの手、いや、オレの口など借りずとも、呑み切るのにそこまで多くの日数はかからない気がする。
仕込んでおいた薬によって、オレを疑似的に「発情」させて、栞を襲わせようなど、そんなとんでもないことを実行するつもりだったようだからな。
「ああ、そうだ」
ヤツによって準備されていた罠の印象が強すぎて、忘れるところだった。
オレは、桜色の四合瓶を取り出して、栞に差し出す。
「これは……?」
彼女は不思議そうに受け取りながら、瓶の首部を左手で握り、右手でくるくると回転させて、その内容の確認をしている。
「これも、来島の酒らしい。あの紅い髪の男も、それは甘くて飲めないらしいから、流れで貰うことになった」
まあ、正しくはオレの方から「飲めないならよこせ」と言った流れではある。
だから、その酒には変な成分は入っていないだろう。
「わたし、お酒は飲めないよ」
下がり気味の眉をさらに顰めながら、栞はそう言った。
「分かってる。だから、その酒は、お前が二十歳になるまではオレが預かるつもりだが、良いか?」
栞は、使える魔法は増えたのだが、収納魔法や召喚魔法はまだできないらしい。
だから、護衛でもあり、身の周りの世話をする従者でもあるオレが彼女の私物を預かって保管することは自然の流れだが、今の言葉には、二重の意味で確認することがあった。
「お酒って、そんなに長期間、保存できるものなの?」
「人間界の冷蔵庫だと、一度、開封した後は酸味が強くなってしまう酒らしいが、魔界の、いや、オレの空間収納なら問題はない。まあ、あの男はわざわざ未開封の瓶をくれたみたいだから、保存は大丈夫だ」
基本的に日本酒のほとんどは賞味期限表示がない。
酒精の殺菌作用によって、腐食が進まないとされているためだ。
そして、魔界では、酒精の入った飲み物は永久保存も可能だと言われている。
この世界に存在する神や精霊たちは、酒好きが多いことがその要因だと言われているが、それを確かめる術は当然ながら存在しない。
だが、少なくとも、過去の記録として、百年単位で貯蔵されている酒もあるらしいから、その事象について、否定もできないようだ。
しかし、百年ほど昔の酒を呑むような勇者がいる事実に驚愕してしまう。
だが、魔界人の気質が酒好きである以上、そんな勇者はかなりの数に上るのだろう。
「未開封?」
「その酒の味を知っていたから、試飲した分は別にあったんだろうな。だから、これはもともと、お前にやるつもりで持っていたんだと思うぞ」
少なくとも、オレはそう受け止めた。
来島は、いつか栞に渡したかったのかもしれない。
その酒は、彼女の生まれ月を思い出させるような「はる」の名が入った名前の酒だったから。
いや、本当なら、彼女と供に呑みたかったのだとも思う。
だが、厄介なことに、彼女は、魔界人としては、異色の「お酒は二十歳になってから」と、酒を呑もうとしない女だった。
だから、その意を汲んだライトがオレを通じて渡すことになったのだろう。
尤も、それについては確認をしていない。
これは単なるオレの想像に過ぎない話だった。
「じゃあ、悪いけど、そのお酒。九十九が2年ほど預かっていてくれる?」
栞は、ごく自然にそう言った。
そう言ってくれたのだ。
「……おお」
ある程度、予想はしていたものの、思わず返答が遅くなってしまう。
「2年の保存、保管はやっぱり長すぎる?」
その不自然な間が気になったのか。
栞は困ったような顔でオレに確認する。
「いや、それは大丈夫だ。2年どころか10年先だってちゃんと預かっていてやるよ」
そう言いながら、オレは先ほどと同じように、その桜色の瓶を収納する。
「ありがとう」
そう言って、栞はいつものように笑った。
先ほどの自然なお願いが、オレにとってどれだけ嬉しかったのかも知らないで。
それは、数年先の約束事。
2年後も、今と変わらず、この可愛らしい主人の傍にいても良いと言う許可を得たようにも思える。
勿論、彼女にそこまでの考えがあるのかは分からないけれど、オレにとってはそれだけで十分なのだ。
こんな口約束など、2年後には忘れているかもしれないし、その前に彼女が収納魔法や召喚魔法を手にする方が早いかもしれない。
でも、できる限り、傍にいることを許して欲しいのだ。
それ以上、多くを望む気はなかった。
もしかしたら、すぐ傍で、別の男の手を取るかもしれない。
現状では、その可能性の方がずっと高いだろう。
これだけ魅力のある人間がいつまでも、誰の目にも止まらないはずがないのだから。
だけど、それでも今は、自分の目の前で本当に嬉しそうに笑顔を見せてくれることが何よりも幸せなのだ。
だが、実際、彼女が別の男を見た時、オレは猛烈な嫉妬に狂うことになるのだが、それはまだ少しだけ先の話。
この話で、62章が終わります。
次話からは第63章「向かう風たち」です。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。




