一夜明けて
部屋の客も外にいた客もいなくなったようなので、結界を解いて、辺りを見回した。
先ほどまでの酒盛りの痕跡は残っているけれど、なんとなく、転がっている空瓶を片付ける気にはなれない。
だが、酒と思われる液体が入っている物だけは、収納していく。
その中には、酒以外のものが混入されている可能性もあるようだが、普通の酒もあると信じよう。
ヤツの置き土産としてありがたく頂戴しておくことにした。
防音の結界を解いた後の方が、妙に部屋が静かに思えるのは何故だろうか?
考えてみれば、同年代の男と呑んだのは、身内である兄貴を除けば、これが初めてだった。
魔界人は魔力が強いほど、酒好きになる傾向が高いと言われている。
だが、人間界の友人たちとは、年齢的に呑めなかったし、この世界に来てからオレが酒を呑む時は、いつも兄貴か、最近では何故か水尾さんがいることが多い。
兄貴は昔から、人間界に魔界の酒を持って帰ってくれた。
今にして思えば、アレは毒見の意味もあった気がする。
もしくは、オレに、毒耐性や薬効耐性を付けさせるためか。
兄貴が持ち帰ってくる酒は、普通の酒ばかりではなかったから。
水尾さんは、オレが試しに作った酒の試飲という名目で、呑むことが多い。
いや、批評が的確なので、つい、オレも水尾さんの感覚と舌で確認したくなるのがいけないのだろうけど。
栞の前では基本的に呑まないようにしている。
彼女の護衛ということは勿論あるのだけど、主人が呑まないのに、オレが呑むのは何か違う気がするのだ。
オレが作った果実水を嬉しそうに飲んでいる栞の傍で、水尾さんのように何も気にせず呑むことができなかった。
二年後に酒を解禁する予定の栞は、オレと呑む機会はあるのだろうか?
酒を呑んだ栞は、頬を赤らめていつもより色っぽい表情をオレに向けて、……などと夢想してはいけない。
栞は、あの千歳さんの子だ。
涼しい顔をして特注のグラスを片手に、ジュース感覚で酒精の強い酒を次々と呑む未来しか見えない。
仮に父親に似たとしても、そこまで未来が変わらない。
情報国家の国王や千歳さんの嗜む量が異常なだけで、セントポーリア国王陛下もかなり呑む御方なのは目の前で見たのだから。
天上人たちと呑むまでは、オレも酒には強いつもりだったんだけどな……。
どうやら、井の中の蛙だったらしい。
ふと寝台の方を見る。
膨らんだ布団が微かに上下している姿が見えた。
それだけのことが妙に安心する。
結界を張った時も、その気配をずっと感じていたのだが、それが感覚的なものだけでなく、視覚を伴ったためだろう。
起こさぬように、ゆっくりと布団を捲ると、いつもの可愛い栞の姿があった。
護衛がいるとは言え、いつ敵に回っても可笑しくない人間が近くにいたと言うのに、寝息を立てていられる彼女の神経は相当、図太いのだろう。
いや、考えようによってはそれだけ信頼されているということでもあるのだが、そこまで全面的に信頼されるほど、オレは強くない。
言葉でを含めた駆け引きだって、まだまだだ。
だけど、足りない身だと分かっていても、この場所だけは誰にも譲りたくなかった。
「ふふっ……」
良い夢を見ているのだろうか?
栞が不意に、笑みを零した。
体内魔気は安定していて、彼女が起きている様子もない。
だが、これだけで、胸の内が温かくなる。
この笑みをできる限り護りたくなる。
足りないなら、足りるまで足していくだけだ。
届かないなら、届くまでこの手を伸ばすだけだ。
髪を撫でると、少しくすぐったそうに動いた。
この「ゆめの郷」に来るまでには全く考えられなかったことだ。
たったこれだけのことで、自分がこんなにも幸福で満たされてしまうなんて。
ずっと苦しかった。
護るべき彼女を邪な視線で見てしまうことがある自分のことが、心底、嫌いになったこともある。
だけど、今の自分は悪くない。
彼女を深く傷つけた自分を許すことなど当然、できないのだけど、それでも、自分は、一番、大事な部分だけは守り抜いた。
そこだけは、自分を誇りたい。
「栞……」
その名を呼ぶことが許された幸運を。
この場所にいることを許された信頼を。
今後も、彼女から男として見られることはないのだろうけど。
それでも、今はここにいることを感謝しようか。
****
わたしが目を覚ました時、窓からは光が差し込んでいた。
そして、すぐ横には黒髪の青年が、わたしに背を向けて眠っている。
この時間まで眠っている辺り、わたしが寝た後も、彼はあの紅い髪の青年と語るべく、遅くまで起きていたのだろう。
近くのテーブルには、片付けもされずに瓶が何本も転がっているのが見える。
どうやら彼は、あの紅い髪の青年と語りながら、飲み明かしたようだ。
警戒心が強い彼が、いつの間にそこまで仲良くなったのかは分からないけれど、ここでこうして眠っているところを見る限り、何か危害を加えられた様子もない。
眠っているのも、魔法の影響ではなく、普通に眠っているようだ。
そのことに胸を撫でおろした。
彼が強いことは知っているけれど、対峙していたその相手も油断がならない人だとわたしは知っている。
不安が何もなかったわけではないのだ。
でも、気付いたら寝てしまったのは不覚だった。
物音が全く聞こえない状況と言うのは、実に眠りを誘うものだと自分に言い訳をする。
九十九は、わたしの前でお酒を呑むことはない。
魔界人はお酒好きが多く、しかも、呑めば一時的に魔力などが強くなるなどの効果もあるらしいのだけど、それでも、彼は決して呑もうとしないのだ。
個人的には我慢せずに呑んで欲しいと思っている。
人間界では、未成熟な身体には、害が大きいとされていたため、呑むことは法律で禁じられていたが、この世界ではそんな法もない。
寧ろ、ステータスアップアイテムのような存在なので、積極的に呑むよう推奨されていることも知っている。
この世界では、普通の飲食店がないような場所でも、宿泊施設と聖堂、そして、居酒屋は必ずあるのだ。
居酒屋が飲食店を兼ねているところも珍しくない。
それだけ、この世界では売り物となるほどの料理というものが難しく、お酒が日常的であるということでもあるのだろうけど。
ただ、それでもわたしは二十歳まで呑むつもりはなかった。
半分人間、いや、半分日本人の身としては、「お酒は二十歳になってから」という日本のルールを順守したいと思っている。
地球と呼ばれた場所でも、飲酒が許される年齢が国によって違うことは知っているけど、やはり、自分の中に根付いた価値観はなかなかすぐに消えるものではない。
日本人を10年以上やっていたのだから、そこは仕方がないだろう。
まあ、自分の母を見た限りでは、わたしはお酒に強い体質である可能性が高いのだろうなとは思っている。
わたしは身体を起こしかけ、また布団に戻る。
まだ眠り足りない。
いや、違うな。
このまま起きれば、すぐ横で眠っている九十九を起こしかねない。
彼は、他人の気配に敏感なのだ。
だから、下手に動けない。
どれくらい彼が眠っているのかは分からないけれど、日頃、あまり休めていないことを知っている。
だから、もう少し眠っていて欲しかった。
決して、自分がこの布団の温もりから離れたくなかったわけではないのだ。
ううっ!!
なんて柔らかく温かな布団というモノは、気持ちが良い上に人間の思考力を容赦なく奪っていくものなのだろうか……。
ぐう……。
……いかん。
これでは、いつもと変わらない。
いや、変わらなくても良いのだけど、ちょっといろいろ思うところがあって、少しだけ反省もしている。
いつもなら、忘れてしまうようなことなのに、今もこの耳に残って消えない声がある。
ここではない、どこかで。
今ではない、いつかに。
あの人から、聞かされることになった話が。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。




