覚えのある症状
「なるほど。あんたは確かに魔界の薬にかなりの耐性があるらしい」
目の前の紅い髪の悪魔はそう言った。
「お前、何を……?」
心臓の音がいつもより大きく、早鐘のように鳴り続けている。
体温が上昇して、息が荒い。
頭の芯から蕩けて思考が、たった一つのことしか考えられなくなっていく。
あまりにも身体の変調が激しくて、オレは、片膝をついた。
この症状に覚えがある。
つい最近、感じた思い出したくもない、あの感覚にそっくりで、ただただ気持ちが悪かった。
「魔界の薬は効かなかった。だが、人間界の薬に対しては、無警戒だったようだな」
「に、人間界の……?」
こいつは、何を言ってるんだ?
だが、何らかの薬を盛られたことだけは分かる。
この急激な変化はそれ以外に考えられなかった。
「正しくは、人間界の薬をベースにしたものだがな。本来は機能不全の解消薬だが、少し加工すれば、男専用の『発情薬』に変わる」
やはり、「催淫剤」ではなく、それ以上の薬か。
だが、酒に混入された形跡はなかった。
呑んでいた酒に味が変化したものはない。
グラスは自分の物を使っていた。
それなら、どこからだ?
「まあ、レトロな手だがな。始めから酒の瓶のいくつかに様々な薬を仕込んでいた。その日本酒の味をもともと知らなければ、それっぽくするだけで、十分、騙される。ああ、副作用が残るような毒になるものは使ってないから、そこは安心してくれ」
だから、始めに日本酒の飲酒経験を確認したのか。
確かに知らない味に対して、オレの舌も反応できない。
それどころか、丹念に味わおうとする癖すらある。
「お前、何を考えて……?」
オレを今、発情させてもこの男の利となる気がしない。
この男に、男色の趣味はないと思いたいが、過去に一度、唇を舐められたことがある身としては、そちら方面にも警戒したくなった。
「言っただろ? 栞が処女のままだと都合が悪いと」
だが、オレの警戒を他所に、そんなことをあっさりと言ってのける。
それはオレにとって信じがたいことではあった。
「そ、そんなことのために」
「あんたにとって、そんなことでも、俺にとっては、それが重要でね。まあ、何処の誰とも知らん男に渡すよりは、裏切りの心配もない忠犬が一番マシだと思ったわけだ」
当然のように告げられる言葉。
だが……。
「栞の、気持ちはっ!?」
「知らん。寧ろ、シオリは犬にもっと餌を与えるべきだと思うぐらいだ」
そう言って、オレの顔を持ち上げる。
「素直になれよ。本当は欲しいんだろ? あの女が……」
それはまるで、悪魔の誘惑。
的確に欲しいものを目の前にぶら下げて、人の心を唆す、悪魔の甘言。
確かに欲しい。
誰よりも、何よりも。心の底から!
だが……。
「それはっ!! こんな形じゃねえっ!!」
オレはヤツの手を振り払う。
「せっかく、極上の『礼』を考えてやったのに」
どこかつまらなそうに言う男。
それが気に食わない。
「栞は物じゃねえ。何より当人の意思を無視して、そんなことができるか!!」
「そうか? 基本的に我が強い割に、そっち方面では割と流されやすいだろ、あの女」
確かに、一度は彼女が流されかけたことを知っている身としてはなんとも言えない面はあるのだが、それを他の男に指摘されるのは心底、我慢できない。
そして、なんでそれを知っているのか?
「まあ、少しばかり手伝ってやっても良かったが、残念ながら、時間切れだ。精々、主人との甘い時間を楽しめ、忠犬」
「何をっ!?」
「薬を盛られた上なら、この『ゆめの郷』での罰則はない。それも、この世界にはありえない薬だ。同情すら集まるだろう」
そんなわけがあるか!!
確かに多少の同情はされるかもしれないが、油断を指摘されるだけだ。
それに、何よりも、彼女に対して、一度拾った信頼を裏切るような真似ができるか!
だから……。
「主成分は、クエン酸シルデナフィル製剤か。それなら、既に服用経験がある」
「は?」
本当は、こいつがいなくなってからでも良かった。
だが、簡単にヤツの手に堕ちたと思われたままなのは、少しばかり腹立たしい。
だから、オレはポツリと口にする。
「中和魔法」
その言葉だけで、身体からは嘘のように熱が下がっていく。
分かりやすく、「甘い毒」が放出される感覚。
同時に、これまで呑んでいた酒の方も抜けてしまったような気がするが、そこは仕方ない。
「何!?」
驚愕の声。
「身体に害がないなら、『解毒魔法』より、こちらがやっぱり有効か」
こんな状況で、オレが使える魔法は二種類。
一つは身体に有害な物質が入り込んだ時に対する一般的な「解毒魔法」。
これは、他者に対しても使えるが、明らかな「有毒」ではなく、身体が害と判断しないような「薬」に対しては効果がない。
だから、熱が上がっただけの栞には、使ってもそこまでの効果があるかは分からなかった。
そして、自分の服用経験がある薬効成分に対して中和、いや、無効化する「中和魔法」。
但し、こちらは自分にしか使えないのが難点だ。
この魔法は、マイナー過ぎて、世間ではあまり知られていないそうだ。
そもそも、身体に害がないはずの薬効成分も無効化するというのはあまり意味がないのだから、当然と言えば当然の話なのだが……。
「何でも、契約しておくもんだな」
オレは立ち上がりながら、そう言った。
手の指を動かしてみたが、特に違和感もない。
綺麗に中和されたようだ。
「いろいろ、突っ込みたいが、なんで人間界のあの薬の服用経験があるんだよ!?」
どうやら、先ほどの変わった魔法については解説がいらないらしい。
「12歳の時に、兄貴から試された」
「精通があるかも怪しい年代のガキに対して、何、やってんだよ、あんたの兄貴!?」
それについてはオレも同意見だ。
いや、その時点で既に、精通の経験はあったが……。
「まあ、呑むだけで性的刺激がなければ、効果が望めない薬ではあったな」
尤も、薬に耐性がない魔界人の身では、僅かな性的刺激だけでも、必要以上に激しい効果があったことだけは確かなのだが。
服用経験者としては、後処理が大変だった、とは言っておく。
まあ、そのおかげで、今、助かっているのだから、少しばかり複雑な心境にもなる。
「せっかく、機会をやったのに、薬を中和したことを後悔するなよ」
「みすみす敵の手に堕ちるよりはずっとマシだ」
手の内を見せる行為でもあったが、オレはこの男に侮られることは、それ以上に嫌なことだったようだ。
「だが、なんで、あの『ゆめ』の時には使わなかった? その様子なら、あんたは中和だけじゃなく、解毒もできるだろ?」
なんでオレが深織から薬を使われたことを知っているのか?
それは愚問か。
「ゆめ」は管理されている。
客に対して使う薬も含めて。
だが、あの時のオレは何も知らなかった。
「あの『ゆめ』が、薬を使うほど、オレに執着していたことを知らなかった」
この「ゆめの郷」が薬漬けにされている場所だと言うことも。
ここの「ゆめ」である深織が、既にその身体を蝕まれていたことも。
オレは兄貴から報告されるまで、何も、知らなかったのだ。
「気の毒なことだ」
それは、誰に対して言った言葉だったか分からないけれど……。
「あんたもシオリも、わざわざ苦難の道を選ぶ」
そう言って、ヤツは姿を消した。
どうやら、移動魔法を使ったらしい。
「余計なお世話だ」
そう独り言のように呟く。
移動魔法の妨害をしても良かったが、それをしても面倒ごとが増えるだけだと思った。
実際、外の気配が音もなく次々と消えていく。
本当に、虫退治をしてくれたらしい。
「よく分からん男だ」
栞に興味も好意もあるくせに、他の男に任せようとは……。
事情があるとは言え、そこが理解できない。
尤も、栞をこれ以上、「聖女」に近付けたくないというところだけは、分かりやすくはあった。
酒は偉大だ。
不意に、来島の言葉が蘇る。
―――― 俺は栞のことは好きだけど、笹さんのことも好きなんだよ
「……まさかな」
だからって、他人に押し付ける理由にはならない。
いや、オレも似たようなものか。
栞のことを欲しがっているくせに、絶対に手を出さないのだから。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。




